第20話「その温もりの、向こう側」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
高瀬 陸
晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。
軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。
桜井 美咲
晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。
場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。
教室の中は、どこか落ち着きのない空気に包まれていた。
休み時間でもないのに、あちこちで小さな笑い声やざわめきが絶えず、普段よりも明らかに騒がしい。
女子達の手には、小さくラッピングされた袋や箱。
それを隠すように持っている者もいれば、あえて見せびらかすように振っている者もいる。
二月十四日。
わざわざ口にするまでもなく、今日はそういう日だった。
特別な日、というほど自分には関係のないはずなのに。
こうして周囲の様子を見ていると、嫌でも意識させられる。
「二人とも?今日は何の日でしょ~!」
机に頬杖をつきながら、そんなことをぼんやり考えていると、
弾んだ声とともに、美咲が前の席からひょいと顔を覗かせてきた。
その手には、いくつかの小さな包みが握られている。
「そりゃあもちろん!」
間髪入れずに反応したのは陸だ。
こういうイベントごとには無駄にテンションが高い。
「……バレンタインか」
少し間を置いてそう答えると、美咲は満足そうに頷いた。
「あったり~!はいどうぞ~!」
軽やかな動作で差し出されたのは、丁寧に包まれたチョコレート。
派手すぎない、けれどどこか可愛らしいラッピングだった。
「お~サンキュー美咲!」
陸は嬉しそうに受け取り、その場で中身を確認しようとする。
「毎年ありがとな」
俺もそれに続いて受け取りながら、短く礼を言った。
手のひらに乗ったそれは、思っていたよりもずっしりとしていて。
義理だと分かっていても、悪い気はしない。
「ふふ~ん、義理でも感謝しなさいよ~?」
「義理って言うなよ夢がねぇな!」
からかうような笑みを浮かべる美咲に、陸がすかさず噛みつく。
「はいはい、じゃあ本命は誰から貰えるか楽しみにしてなさいよ~?」
軽口を叩き合う二人のやり取りに、教室の空気もつられて少しだけ明るくなる。
そんな中で、俺は手元のチョコに視線を落とした。
綺麗に結ばれたリボン。
こういうのを用意するのにも、案外手間がかかるんだろう。
「……別に、期待してねーよ」
何気なく口にした言葉は、我ながら淡白だった。
本当に、そう思っているはずなのに。
ふと理由もなく、ある一人の姿が頭に浮かぶ。
……零花。
ほんの一瞬だけ浮かんだその名前を、意識的に追い払うように視線を逸らした、そのときだった。
ポケットの中で、スマートフォンが小さく震えた。
取り出して何気なく画面を見ると、通知がひとつ。
メッセージアプリのアイコン。
そして、その送り主の名前を見た瞬間、思考がわずかに止まった。
霧咲 零花。
珍しい、なんてものじゃない。
これまで、向こうから連絡が来ることなんて、ほとんどなかったはずだ。
ほんの一瞬、指が止まる。
なぜか、すぐに開いてはいけない気がして。
けれど、そのままにしておく理由もなくて。
ゆっくりと、通知をタップする。
トーク画面に表示されたのは、たった一文。
『今日、一緒に帰りましょ?』
それだけだった。
飾り気のない、いつも通りの文面。
けれど—その一行が、妙に胸に残る。
……どういう風の吹き回しだ。
思わずそう考えてしまうくらいには、唐突で。
けれど同時に、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
「……おい晴人、どうした?」
隣から陸の声が飛んでくる。
「あ?いや……なんでもない」
咄嗟にスマホの画面を伏せる。
見られて困る内容じゃないはずなのに、なぜか見られたくないと思ってしまった。
『一緒に帰りましょ?』
その言葉を、心の中でなぞる。
零花が、自分から誘ってくるなんて。
これまでの彼女を思えば、ありえないほどに珍しいことだ。
少しだけ迷ったあと、指を動かす。
「いいけど。どこで待ち合わせる?」
送信。
既読がつくまでの、ほんの数秒がやけに長く感じる。
すぐに、返信が返ってきた。
『校門の前で待ってるわ』
短い文。
それだけで、十分だった。
「……放課後、か」
その言葉をきっかけにしたように、急に時間の流れが遅くなった気がした。
◇ ◇ ◇
放課後。
チャイムが鳴ってからの時間が、やけに長く感じられた。
授業の内容はほとんど頭に入っていない。
黒板に書かれていく文字も、教師の声も、どこか遠くの出来事みたいにぼやけていた。
気づけば、何度も時計を見ている。
『校門の前で待ってるわ』
たった一文。
それだけのはずなのに、その言葉だけが、妙に鮮明に残っている。
「おーい晴人、帰んのか?」
鞄を肩に引っ掛けながら帰ろうとすると、陸が声をかけてくる。
「ああ、ちょっとな」
「お?珍しいじゃん。どした、デートか?」
「そんなんじゃねーよ」
軽く流すように返す。
それ以上突っ込まれる前に、さっさと教室を出た。
背後で、美咲の「怪しい~!」という声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
廊下を歩く足音が、いつもより大きく響く気がする。
昇降口で靴を履き替え、扉を押して外へ出る。
ひやりとした空気が、頬をかすめた。
冬の名残を残した冷たさ。
けれど、どこか緩み始めた季節の気配も混じっている。
放課後の校門前は、それなりに人の出入りがある。
友達同士で笑い合いながら帰る生徒、スマホを見ながら足早に通り過ぎる者。
その中でひとつだけ、時間の流れが違うように感じる場所があった。
校門の少し手前。
人の流れからわずかに外れた位置に、静かに立つ一人の姿。
すぐに分かった。
長い黒髪が、風にわずかに揺れる。
背筋を伸ばした立ち姿は、それだけで周囲とは違う空気を纏っていた。
霧咲零花だ。
騒がしさの中にありながら、そこだけが切り取られたように静かで。
まるで、最初からそこにいたのではなく、“そこに置かれている”ような、不思議な存在感。
足が、自然とそちらに向かう。
一歩、近づくごとに胸の奥が、わずかにざわつく。
「……待ったか?」
零花は、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「いいえ。今来たところよ」
穏やかな声音。
抑揚も強くない、いつも通りの話し方。
そのはずなのに。
「……そうか」
短く返しながら、わずかな違和感が残る。
目が合った一瞬、ほんの少しだけ、視線が柔らかく見えた気がした。
いや、気のせいかもしれない。
表情はいつもと変わらない。
淡々としていて、感情を大きく表に出すタイプでもない。
それでも、どこか近い。
距離の問題じゃなく、もっと曖昧な、感覚の話だ。
「行きましょうか」
零花はそう言って、自然に歩き出す。
その後ろ姿を一拍遅れて追い、隣に並ぶ。
肩が触れるほどではない。
けれど、普段よりもほんのわずかに近い位置。
歩き出すと、靴音が静かに重なった。
周囲の喧騒はまだ続いているはずなのに、二人の間だけ、音が少し遠くなったように感じる。
「……珍しいな」
「何がかしら?」
「いや……お前から誘ってくるの」
率直な疑問だった。
これまでの彼女なら、こういうことはほとんどなかったはずだ。
「……そうね」
零花は少しだけ間を置いて小さく、息を吐くように言う。
その横顔は変わらず整っていて、表情の起伏もほとんどない。
「たまには、いいでしょう?」
そう続けた声は、どこか柔らかく聞こえた。
その言い方に、ほんのわずかな引っかかりを覚える。
言葉そのものじゃない。
もっと曖昧な、間の取り方のようなもの。
「今日は、特別な日だもの」
続けられたその一言で、思考がそちらに引き戻される。
――バレンタイン。
教室での騒がしさが、頭の中に一瞬よぎる。
けれど、今感じているそれは、まるで別物だった。
「……そうだな」
それ以上、言葉は続かなかった。
二人で並んで歩く。
会話はほとんどない。
けれど、不思議と気まずさはなかった。
沈黙が苦にならないどころか、この静けさが、どこか心地よく感じられる。
隣を歩く零花の気配が、妙に近く感じられる。
それだけで、十分だった。
冷たい風が吹くたびに、零花の長い髪がわずかに揺れた。
その動きを、なぜか目で追ってしまう。
いつもと同じはずの帰り道、見慣れているはずの景色のはずなのに。
今日という日を意識しているせいか、どこか足元が定まらない。
「……なんか今日、雰囲気違うな」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
零花はすぐには答えず、少しだけ歩みを緩める。
「そうかしら?」
振り向くこともなく、前を向いたままの返答。
「いや、なんとなく……」
自分でもうまく説明できない。
ただ、いつもと何かが違う気がする。
それが何なのかは、はっきりしないけれど。
零花は一歩先を歩いたまま、わずかに視線を遠くへ向けた。
「私は変わらないわよ」
その言葉は、静かで。
けれど、どこかはっきりとした響きを持っていた。
そして、ほんの一拍、間を置いて。
「……あの頃からずっと」
その一言が落ちた瞬間。
胸の奥に、小さな波が立つ。
思わず、足が止まりかける。
『あの頃』という言葉が、曖昧なまま、やけに重く感じられた。
「……いや、そういう意味で聞いたんじゃないんだけどな」
少し遅れて、そう返す。
軽く流すように言ったつもりだったが、どこかぎこちない。
零花は、ふっと息を漏らすようにして笑った。
「わかってるわ。少し、からかってみたくなっただけよ」
「おいおい……」
半ば呆れたように息を吐きながら、肩の力を抜く。
軽く流したつもりだったのに、どこか調子が狂う。
言葉の端に残った違和感が、うまく消えてくれない。
「そういうこと、前からするタイプだったか?らしくないな。からかう、とかさ」
自分でも、曖昧な言い方だと思う。
けれど、それ以上うまく言葉にできなかった。
零花は、すぐには答えなかった。
ただ、歩く速度をほんのわずかに緩める。
それに気づいて、自然と自分の歩幅も揃う。
靴底が地面を擦る音だけが、静かに続いた。
やがて零花が、ほんの少しだけこちらに視線を向ける。
「そうかしら?」
横顔のままの問いかけ。
その声音はいつも通り落ち着いているはずなのに、どこか、試すような響きを含んでいる気がした。
「……ああ」
視線を合わせたのは一瞬だけで、すぐに前へ戻す。
やっぱり、どこか違う。
その感覚だけが、曖昧なまま残っている。
言葉にしきれないまま、何かを続けようとした、そのとき。
零花は静かに口を開いた。
「……それは」
一拍、ほんのわずかな沈黙が、妙に長く感じられる。
「昔の私と、今の私――どちらと比べて?」
その言葉が、静かに落ちる。
風の音も、周囲のざわめきも、その瞬間だけ遠のいたように感じた。
「えっ……?」
思わず、間の抜けた声が出る。
予想していなかった問いに、思考が追いつかない。
昔の零花と、今の零花。
そんなふうに切り分けて考えたことなんて、これまで一度もなかった。
「それは……」
その先が出てこない。
どちら、と言われても。
何を基準に答えればいいのか分からない。
言葉が、宙に浮いたまま止まる。
零花は、それ以上何も言わなかった。
ただ、視線を前へ戻してほんのわずかに、息を吐く。
「……なんてね」
その一言が、少しだけ軽く響く。
けれど、その軽さが逆に引っかかる。
「少し、意地悪な聞き方だったかしら」
いつも通りの口調に戻っているはずなのに、さっきまでの余韻だけが消えない。
「……だな」
ようやく、それだけ返す。
無理矢理区切りをつけたような返事だった。
それで会話は終わる。
本来なら、そこで流れていくはずのやり取り。
けれど――昔の私と、今の私。
その言葉だけが、頭の中に残り続ける。
何気ない問いのはずなのに。
まるで、境界線を引かれたような感覚。
隣を歩く零花の横顔を、ちらりと見る。
変わらないように見えるその表情。
けれどその奥に、自分の知らない何かがあるような気がして、目を逸らした。
「でも…そうね。確かに、いつもとは違う気もするわ」
静かな声。
感情を大きく乗せたわけでもないのに、どこか自分の内側を確かめるような響きだった。
「……そうなのか?」
その言葉が自分のものとは思えないほど、少しだけ乾いて聞こえた。
「ええ。気持ちが少し……高揚しているの」
その言葉に、呼吸がわずかに乱れる。
高揚。
そう言っているのに。
その声音はどこまでも穏やかで、静かで、まるで他人の感情を説明しているようにも聞こえた。
「……それって」
何を確かめようとしたのか。
何を言葉にすればいいのか。
分からないまま、思考だけが空回りする。
言葉が、形になる前にほどけていく。
ほんの短い沈黙。
けれど、それはやけに長く感じられた。
――その続きを、零花は待たなかった。
ゆっくりと、鞄に手を入れる。
布が擦れる、小さな音が、やけに鮮明に耳に残る。
視線が、自然とその動きを追う。
指先が何かを探り当てるまでの、ほんの一瞬。
それすらも、妙に長く感じられた。
やがて取り出されたのは、小さく丁寧に包まれた箱だった。
柔らかな色合いのラッピング。
派手ではないが、どこか目を引く。
それを見た瞬間、思考が一瞬だけ途切れる。
美咲達との教室でのやり取りが、遅れて頭に浮かぶ。
けれど、あの軽さとはまるで違う。
今、目の前にあるそれはずっと重くて、静かで、簡単に受け取っていいものなのか、迷うような感覚を伴っていた。
「……これ、どうぞ」
その声は、やはり穏やかで。
けれど、さっきまでよりもほんの少しだけ、柔らかく聞こえた気がした。
「ああ……ありがとな」
手の中の箱に視線を落としたまま、そう言う。
指先に残る感触が、なぜか離れない。
その重さを確かめるように、ほんの少しだけ握り直した。
零花は、すぐには何も言わなかった。
ただ隣で、歩調を崩すことなく歩いている。
その静けさが、逆に意識に残る。
「既製品だけど…安心して。ちゃんと、本命のつもりよ」
その一言が、静かに落ちる。
――本命。
意味は分かる。
分かるはずなのに。
頭の中で、その言葉だけが妙に大きく響いた。
「おまっ、何言ってるかわかってんのか?」
思わず声が上ずる。
自分でも驚くくらい、反応が早かった。
「……あら。義理の方がよかったかしら?」
その言い方は、軽い。
けれど、完全に冗談とも言い切れないような、微妙な距離感があった。
「ん……んな訳ないだろ!?……またからかってるな?」
「……ふふっ」
その笑いは、声に出すほどでもないくらいの、かすかなものだった。
どこか、落ち着かない。
手の中の箱の存在が、やけに大きく感じられる。
意識しないようにしても、どうしても気になってしまう。
隣にいる零花の気配も、同じくらいに。
言葉にしなくてもいいはずなのに。
何かを言わなければいけないような、そんな曖昧な感覚だけが残っていた。
しばらく、言葉はなかった。
足音だけが、静かに重なっていく。
手の中の箱を持ち替えた、そのときだった。
ふいに、隣との距離がわずかに近づく。
視線を向けるより先に、指先に触れる感触があった。
一瞬遅れて、それが零花の手だと分かる。
触れているだけの、ほんのわずかな接触。
引くこともなく、そのまま数歩進む。
やがて、指先がゆっくりと重なり、そのまま絡んだ。
「……っ」
小さく、息が漏れる。
零花は前を向いたままで表情は変わらない。
ただ、繋がれた手だけが確かにそこにあった。
「……いいのかよ」
「……嫌だった?」
「いや……そうじゃなくて」
「……なら、いいでしょう?」
繋がれた手の温度が、じわりと伝わり、意識すればするほど、離せなくなる。
歩幅が、自然と揃う。
もう、さっきまでの距離には戻れない。
繋いだ手は、そのまま離れる気配はなかった。
どこか、落ち着かない。
胸の奥が、ほんの少しだけざわついている。
「……ねぇ」
零花の声が、隣から落ちる。
視線は前を向いたまま、歩く速度も変わらない。
「……このまま」
一拍、間がある。
言葉を選ぶような、わずかな沈黙。
「……家まで送ってくれない?」
「……え?」
思わず、声が漏れる。
予想していなかった言葉に、足がほんのわずかに乱れた。
「……急にどうしたんだよ」
問いかけると、零花はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、それでも、繋いだ手は離さないまま。
「……今日は……そうしてほしい気分なの」
それだけだった。
理由になっているようで、なっていない言葉。
けれど、不思議とそれ以上聞こうとは思わなかった。
「……分かったよ」
さっきと同じ道のはずなのに、どこか違って見える。
繋がれた手の温もりだけが、やけに強く残っていた。
◇ ◇ ◇
やがて、足が止まる。
住宅街の一角。
似たような建物が規則的に並び、どこを切り取っても大きな違いはない。
夕方の光が、壁や窓にやわらかく差し込んでいる。
その中の一つで、零花がわずかに足を緩めた。
「…ここよ」
視線の先にあるのは、二階建てのアパート。
淡い色の外壁はまだ新しく、汚れも目立たない。
整った造りで、どこにでもありそうな外観。
けれど、妙に印象に残らない。
階段は外付けで、金属製の手すりが光を受けてわずかに鈍く光っている。
郵便受けが並び、いくつかには名前が貼られているはずなのに、なぜか視線がそこに留まらない。
人が住んでいるはずの場所。
それなのに、やけに静かだった。
「へぇ……ここなんだな」
軽く見上げながら、そう言う。
風が、細い通りを抜けていく。
衣服の裾がわずかに揺れ、その感触だけがやけに鮮明に残る。
「…送ってくれて、ありがとう」
「…ああ」
「それじゃ、また明日」
短いやりとりだけど、それで十分だった。
「そうだわ」
零花が、踵を返そうとして不意に足を止める。
振り返る動きはゆっくりで、どこか丁寧だった。
「…期待してるわ」
「何をだ?」
「…ホワイトデー」
「ははっ、勿論ちゃんと返すさ」
肩の力が、少し抜ける。
張り詰めていた何かが、ふっと緩むような感覚。
零花も、わずかに口元を緩めた。
「ふふっ、それじゃあ――」
言いかけた、その瞬間だった。
「……っ、」
息が詰まる。
ほんのわずかではなく、はっきりと分かるほどに。
次の瞬間、零花は口元を押さえた。
「……ごほっ、……っ、……ごほっ……!」
咳が、止まらない。
抑えようとしているのに、途切れずに続く。
一度、二度では収まらず、何度も小さく体を折るようにして咳き込む。
呼吸が乱れる。
浅く、速く、うまく吸えていないような呼吸。
肩が上下するたびに、その乱れがはっきりと伝わってくる。
「……おい、大丈夫か……!」
さっきよりも強く、声をかける。
返事は、ない。
咳に混じって、かすかに息を吸おうとする音だけが聞こえる。
「……っ、……は、……っ……」
うまく呼吸が整っていないのが見て分かる。
数秒。
けれど、体感ではもっと長く感じられる時間。
「……っ、……は……ごほ……っ」
小さく息を吸い込み、最後に一度、咳き込む。
そのあと、ゆっくりと呼吸が落ち着いていく。
「……っ、……はぁ……」
わずかに吐き出す息。
「……大丈夫よ」
それからほんの少しの間を置いて、ようやく言葉が返ってくる。
声は、整っている。
けれど、その直前までの様子と噛み合っていない。
「……いや、大丈夫じゃないだろ今の」
思わず、そう返していた。
誤魔化せるようなものじゃない。
はっきりと、異常だった。
その様子を見ているうちに、ふと記憶がよぎる。
放課後の喫茶店で、ほんの一瞬だけ見せた違和感。
冬の夜、光の中でわずかに乱れた呼吸。
どちらも、すぐに戻っていた。
気のせいで済ませられる程度のものだった。
けれど今は、違う。
あれとは、明らかに違う。
「……」
視線を外せない。
さっきの光景が、頭に残っている。
「……風邪でも引いたか?」
ようやく出た言葉は、それだった。
自分でも、少し無理があると分かる。
「……かもしれないわね」
零花は、あっさりと答える。
それ以上、続けない。
まるで、今のことが何でもなかったかのように。
「……」
納得は、できない。
けれど、それ以上踏み込む理由も、見つからない。
「……いや」
小さく、息を吐く。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせるように。
「……それじゃあ、また明日」
さっきまでの様子が嘘みたいに、いつも通りの声音で零花が呟く。
「ああ……またな」
少しだけ間を置いて、返すと、零花は小さく頷き、そのまま踵を返した。
外階段へ向かう足取りは、変わらない。
一定の速さで、一段、また一段と上っていく。
さっきの咳が、まるでなかったかのように。
その背中を、黙って見送る。
途中で振り返ることはない。
ただまっすぐに、自分の部屋へと向かっていく。
二階の廊下に上がり、奥へと進む。
いくつか並ぶ扉の中のひとつの前で、足が止まる。
ポケットから鍵を取り出し、迷いなく差し込む。
その動作は、どこまでも自然で、慣れたものだった。
扉が開き、一瞬だけ、部屋の中の暗がりが見えた気がしたが、すぐに体で隠れて見えなくなる。
零花がそのまま中へ入り、扉が閉じられると同時に、乾いた音が静かな通りに響いた。
それで、終わりだった。
残されたのは、さっきまで確かにそこにあった時間の名残だけ。
風が、ゆっくりと通り抜けていく。
「……」
視線を、まだ閉じられたままの扉に向けたまま。
さっきの光景が、頭の中に残っている。
咳き込む姿。乱れた呼吸。
それでも、何事もなかったかのように振る舞う様子。
「……風邪、か」
小さく呟く。
それで納得しようとするみたいに。
けれど、胸の奥に残った引っかかりは、消えないままだった。
しばらくその場に立ち尽くしてから、ようやく視線を外す。
帰り道は、さっきと同じはずなのに、どこか、少しだけ違って見えた。




