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第21話「触れているのに、届かない」

登場人物

水無月みなづき 晴人はると

高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。

ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。

久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。


霧咲きりさき 零花れいか

高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。

落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。

どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。

バレンタインから、一週間が過ぎた。


あの日以来、零花とは顔を合わせていない。


放課後になれば、なんとなく同じタイミングで校門へ向かい、気づけば隣にいる。

そんな時間が、特別でもなく、当たり前のように続いていたはずだった。


それが、途切れている。

最初は、ただの偶然だと思っていた。


予定が合わない日もあるだろうし、用事があることだってある。

たまたま、少しずれているだけ。

そう考えれば、それで済む話だった。


「……」


ポケットからスマホを取り出す。

指先の動きは無意識だった。

開いたトーク画面には、既に送ったメッセージが残っている。


短い一文。


それに続けて送った、少しだけ気遣うような言葉。

けれど、どちらにも既読はついていない。


画面を閉じて、また開く。

変わっていないことを確認するだけの動作を、なぜか繰り返してしまう。


“そのうち返ってくるだろう”


そう思っていた。

思うようにしていた、のかもしれない。

それでも時間は、そのまま過ぎていった。


二週間目に入っても、何も変わらない。


学校でも、見かけない。

廊下ですれ違うこともなければ、教室の前を通りかかったときに姿を見つけることもない。

これまでなら、意識せずともどこかで顔を合わせていたはずなのに。


「……おかしいな」


小さく、呟く。

その言葉が、思ったよりもはっきりと耳に残る。


偶然では片付けられない何かが、少しずつ形を持ち始めていた。


足が、自然と動く。

気づけば、零花のクラスの前に立っていた。


昼休みのざわめきが、教室の中から溢れている。


笑い声や、机を引く音。

いつも通りの、どこにでもある光景。


その中に、彼女の姿はない。

教室を一度見渡してから、近くにいた生徒に声をかける。


「……あの、霧咲って」


名前を口にした瞬間、わずかに言葉が止まる。


「霧咲なら、ここ数日休んでるけど?」


その反応を気にする余裕もなく、あっさりと返ってきた。


「……休んでる?」


聞き返す声が、少しだけ遅れる。


「体調不良らしいけど、詳しくは知らないな」


それだけだった。

特別な意味を持たない、ただの情報としての言葉。


「……そうですか」


短く礼を言って、その場を離れる。

足取りが、少しだけ重くなる。


体調不良。


その言葉を頭の中でなぞった瞬間、浮かび上がる光景があった。


バレンタインの日の帰り道。

アパートの前。


言葉の途中で、途切れた呼吸。

何度も繰り返された咳。

浅く、うまく整わない呼吸。


「……」


あのときの様子が、やけに鮮明に残っている。


風邪。


そう思えば、説明はつく。

つくはずなのに、胸の奥に、小さな引っかかりが残る。


「……様子、見に行くか」


気づけば、そう呟いていた。

ただの心配だと、自分に言い聞かせるように。


理由は、それで十分なはずだった。

けれど、足は、もう迷わずに動いていた。


◇ ◇ ◇


記憶を頼りに、零花の住むアパートへと辿り着く。

つい数日前にも訪れたはずの場所だった。


けれどあの日よりも、まだ日は高い。

それだけの違いのはずなのに、目の前にある景色はどこか別の場所のように見えた。


同じ建物。同じ通り。

何も変わっていないはずなのに、空気だけが微妙に噛み合わない。


足を進め、外階段を上る。

金属の段に靴底が触れるたび、乾いた音が小さく響く。


二階の廊下に出て、並ぶ扉の中から、迷うことなく一つを選ぶ。

あの日、零花が入っていった部屋。


その前で足が止まる。


「……ここ、だよな」


小さく呟きながら、インターホンに手を伸ばす。

一度、押すと、短い電子音が鳴った。


そのあとに続く、沈黙。

返事はない。


「……」


わずかに視線をずらし、扉の番号や位置を確認する。


間違えたか、と一瞬よぎる。

けれど、記憶と食い違うところはない。


もう一度、先ほどよりも少しだけ長くインターホンを押す。

それでも何も返ってこない。

中に人の気配も、動く音もない。


「……いない、のか?」


いや、とすぐに思い直す。

この時間に、いないはずはない。


そう思うのに、確信が持てない。

指先が、もう一度ボタンに触れかける。

けれど三度目を押す気には、なれなかった。


「……」


そのまま、ゆっくりと扉に背を向ける。

廊下を引き返そうと、踵を返した――そのとき。


カチャ、と。

小さな音が、背後から響いた。


足を止め、振り向くと、扉の向こうで、鍵が外される音。

ゆっくりとノブが回り、わずかな間を置いて、扉が内側から開かれた。


扉が開いたその瞬間、俺は自分の目を疑った。

扉の向こうから現れた零花は一瞬、誰か別人のように見えた。


「……零花」


呼びかける声が、わずかに遅れる。

そこに立っているのは、確かに零花だ。


けれど、その姿は、俺の知っているものと微妙にずれていた。


髪は、軽くまとめられている。

部屋着なのか、ゆったりとした服を身にまとっている。

見慣れた学校での姿とは違う、少しだけ無防備な格好。


それなのに、顔色が明らかに悪い。

血の気が引いたように白く、どこか透けるような薄さを帯びている。

目の下には、うっすらと影が落ちていた。


そして何より、目を引いたのは――呼吸だった。

わずかに肩が上下していて整っていない。


「……晴人君……どうしたの?」


零花が、先に口を開く。

いつも通りの、落ち着いた声音。

けれど、その声もどこかかすれていた。


「いや……」


言葉が、続かない。

違和感の正体が多すぎて、どこから触れていいのか分からない。


数秒前まで、いないかもしれないと思っていた。

なのに今は。


「……大丈夫か?」


気づけば、そんな言葉が口をついて出ていた。

零花は一瞬だけ、目を細める。


「……ええ、大丈夫よ」


そう言って、わずかに微笑む。

いつもと同じ、穏やかな笑み…のはずだった。


けれどほんのわずかに、その表情が遅れている。

作っているような、不自然な間。


「……っ、……ごほ」


次の瞬間、堪えきれなかったように、咳が漏れる。


一度では終わらない。


「……ごほっ、……っ……」


身体を折るようにして、咳き込む。

細い肩が揺れ、呼吸が、明らかに乱れている。


「お、おい——」


思わず一歩踏み出す。

けれど零花は、軽く手を上げてそれを制した。


「……大丈夫、だから」


息を整えようとしているけれど、うまくいっていない。


浅く、途切れる呼吸。

わずかに開いた唇から、苦しそうに空気を吸い込んでいる。


その様子は――


バレンタインの日、別れ際に見たときよりも、明らかに悪化しているのが目に見えて分かった。


「……心配ない、から」


零花はそう言って、いつものように微笑もうとした。

けれどその直後だった。


「……っ、……ごほ……っ」


堪えきれなかったように咳き込み、身体が大きく揺れる。


「おい!」


声をかけた瞬間、零花の膝がわずかに折れた。

踏みとどまろうとしているのが分かる。

けれど、支えきれていない。


「……っ、平気、よ……」


そう言いながらも、呼吸が続かない。

声も途切れ途切れだ。


次の瞬間、身体がふらりと傾いた。

俺は反射的に手を伸ばし、倒れ込んでくる身体を、そのまま受け止めた。


「無理するなって……!」


腕の中で、零花の体は驚くほど軽かった。

息が乱れていて、肩が小刻みに上下している。


「……中、入るぞ」


返事を待たずに、そう言う。

支えるように肩を貸しながら、部屋の中へ足を踏み入れた。


薄暗い室内。

生活感はあるはずなのに、どこか静まり返っている。

目に入ったベッドへ向かい、そのまま零花を横たえた。


「……っ……」


浅い呼吸が続いている。

まだ、落ち着いていない。


「……」


こんな状態になっていたなんて。

胸の奥に、じわりと何かが込み上げてくる。


ここ数日、零花に会えなかった。

それでも、どこかで「そのうち会えるだろう」と思っていた。

呑気に過ごしていた自分が、頭に浮かぶ。


「……っ」


奥歯を噛む。

苛立ちにも似た感情が、胸の中で渦を巻く。


けど、今はそんなことを考えている場合じゃない。

目の前の零花の方が、よっぽど大事だ。


「……ちょっと触るぞ」


小さく声をかけて、額に手を当てる。


熱はない。

少なくとも、発熱している感じじゃない。


「……熱、ないのか」


風邪じゃないのか?

じゃあ、この状態はいったい。


「……何なんだよ、これ」


「……大げさね」


思わず漏れた声に、かすれた声が返ってきた。

ベッドに横になったまま、零花がわずかに視線を向けてくる。


その目は、いつもと同じように落ち着いていて、だからこそ、余計に違和感があった。


「ただ、少し体調が悪いだけよ」


「それを“大丈夫”って言うかよ」


呼吸はまだ整っていない。

声も明らかに弱い。

それなのに、言葉だけはいつも通りで。


「……ふふ」


小さく笑う。

けれど、その直後にわずかに息が詰まる。


「……っ」


胸元に手を当て、呼吸を整えようとしている。

うまくいっていない。


「おい、無理すんなって」


「無理なんて……してないわ」


間を置いて、そう返す。

その“間”が、妙に長い。


「……少し、疲れているだけ」


視線を逸らしながら、ぽつりと続ける。


「ここ数日、ずっと休んでたんだろ」


「ええ……そうね」


「それでこれかよ」


返事は、すぐには返ってこない。

代わりに、小さな呼吸音だけが続く。


「……」


沈黙が落ちる。


さっきまでの“いつも通り”が、少しずつ崩れていく。


「……ねえ、晴人君」


「なんだよ」


「そんな顔、しないで」


「……は?」


思わず間の抜けた声が出る。


「……心配しすぎよ」


かすかに笑う。

けれど、その笑みはやっぱりどこか無理をしている。


「これくらい、すぐに良くなるわ」


言い切ったその言葉には、妙な軽さがあった。

根拠のない、言い聞かせるような響き。


「……」


何かがおかしい。

さっきからずっと感じている違和感が、はっきりと形を持ち始める。


「……ねえ、晴人君」


かすれた声で、零花が俺を呼ぶ。


「なんだ?」


「……手、握っててくれる?」


差し出された手。

力なく、けれど確かにこちらを求めるように。


「……ああ」


正直、それで何かが良くなるとは思えなかった。

それでも、迷う理由はなかった。

その手を、そっと握る。


「……っ」


思わず、息が止まりかける。


冷たい。


人の手とは思えないほどに――いや、そこまでじゃないにしても、明らかに体温が低い。


「……こうか?」


包み込むように少しだけ力を込める。


「……暖かいわ。晴人君の手」


その声は、さっきよりも少しだけ穏やかだった。


「……」


それきり、言葉は続かない。

けれど、それでよかった。


無理に話させる必要なんてない。

今は、このままでいい。


静かな時間が流れる。

規則的とは言えない呼吸音だけが、かすかに聞こえていた。


ふと、視線が逸れる。

ベッドの脇に置かれたサイドテーブル。


その上に、ひとつの写真立てがあった。

何気なく、目を向けると、そこに収められていたのは一枚の写真。


幼い頃の、俺と零花だった。

並んで立ち、手を繋いで笑っている。


無邪気な表情。

今とは違う、あどけなさが残る顔。


「……」


どこで撮ったものだろうか。


見覚えは、ある気がする。

けれどはっきりとは思い出せない。


ただ、ぼんやりと。

どこか、静かな場所だった気がする。


人の気配が少なくて、風が、ゆっくりと流れていて。


そして。


桜の木が、あった。


「……」


胸の奥で、何かが引っかかる。

けれど、その正体までは辿り着けない。


思い出せそうで、思い出せない。

そんな曖昧な感覚だけが残る。


手の中の温もりを、少しだけ確かめるように握り直す。

零花の手は、相変わらず冷たいままだった。

それでも、離そうとは思わなかった。


「……その写真、覚えてる?」


零花の視線が、サイドテーブルの写真へと落ちる。

それに引かれるように、俺も同じものを見る。


「……いや、あんまり」


正直にそう答えた。


見覚えはある。

けれど、記憶の奥に手を伸ばしても、指先に触れるものは曖昧で、形を結ばない。


「……そう」


零花が、小さく呟く。

責めるような響きはない。

ただ、どこか納得したような、静かな声音だった。


「私は……はっきりと、覚えているわ」


ゆっくりとした口調で、そう続ける。


迷いのない言い方。

それがかえって、引っかかった。


「でもね……」


ほんのわずかに、間が落ちる。

その間に、何かを確かめるような気配があった。


「全部じゃないの」


「……全部じゃない?」


零花は、わずかに視線を伏せたまま、静かに頷いた。


「思い出せるものと、思い出せないものがあるの」


その言葉は落ち着いているのに、どこか噛み合っていない。


「この場所も……この写真のことも、はっきりしているのに」


言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

一つ一つを確かめるような話し方。


「晴人君と、どうやってまた会ったのか」


「……っ」


心臓が、わずかに強く打つ。


「一緒に過ごした時間も……ところどころ、抜け落ちているみたいで」


淡々とした口調。

それなのに、その内容だけがやけに重く響く。


「繋がっていないの」


「……繋がってない?」


思わず繰り返す。

自分でも、何を確かめたいのか分からないまま。


「ええ…まるで……」


言いかけて、言葉が止まる。


ほんの一瞬。

けれど、その沈黙がやけに長く感じられた。


「……途中だけ、切り取られているみたいに」


「……」


胸の奥が、ざわつく。

今まで感じていた違和感が、輪郭を持ち始める。

けれど、それが何なのかまでは、まだ掴めない。


「でも、不思議なのよ」


零花がふいにそう続ける。

その声音は、少しだけ柔らかくなっていた。


「大事なところは……ちゃんと残っているの」


わずかに指先が動く。


「こういう……晴人君と、一緒にいた記憶は」


「……」


「だから、困ってはいないの」


そう言って、わずかに微笑む。

けれどその笑みは、どこか無理に形を整えたようにも見えた。


「……それ。本当に、それでいいのか?」


零花の視線が、わずかに揺れる。


「記憶が抜けてるんだろ」


言葉を選ぶ余裕なんてなかった。


「それ、普通じゃないだろ」


少しだけ、声が強くなる。

自分でも抑えきれていないのが分かった。


「……晴人君」


零花が、俺の名前を呼ぶ。

その声は、相変わらず静かで。

けれどほんのわずかに、揺れていた。


「問題はないわ」


「……は?」


思わず声が漏れる。


「大事なところは、残っているもの」


迷いのない言い方だった。

まるで、それが当然だと言うように。


「晴人君のことも……ちゃんと覚えている」


「それで、十分よ」


「……」


言葉が、出てこない。

何かがおかしい。

いや、さっきからずっとおかしい。

でも、その正体に、まだ手が届かない。


「……だから」


零花が、少しだけ微笑む。

その笑みは、やっぱりどこか無理をしているようで。


「そんな顔、しないで」


「……」


胸の奥が、ざわつく。

納得なんて、できるはずがないのに。

何も言い返せない自分が、そこにいた。


「……問題ないって、そんなわけあるかよ」


思わず、声が強くなる。

抑えようとしても、抑えきれない。


「記憶が抜けてるんだぞ?呼吸だってこんなに乱れてて――」


言葉が途切れる。

目の前の零花の様子を、改めて見てしまったからだ。


「これが“問題ない”わけないだろ」


はっきりと言い切る。

逃がすつもりはなかった。


「……」


零花は、何も言わない。

ただ、静かに俺を見ている。

その視線が、余計に焦燥を煽った。


「……病院、行くぞ」


言葉にすると、少しだけ現実味が増す。


「ちゃんと診てもらって――」


「行かないわ」


即答だった。

間を挟むことすらなく、零花はそう言った。


「……は?」


「大丈夫だって言ってるでしょ」


落ち着いた声音。

けれど、その言葉は明確な拒絶だった。


「大丈夫なわけないだろ!」


今度は抑えきれなかった。


「こんな状態で、放っておけるわけないだろ……!」


息が荒くなる。

自分でも、かなり感情的になっているのが分かる。

けれど――止められない。


「……どうして。そこまで、言うの?」


「当たり前だろ」


間髪入れずに返す。


「お前のことなんだから」


その瞬間。

ほんの一瞬だけ、零花の表情が揺れた。


「……」


何かを言いかけて、言葉が止まる。

呼吸が、また少し乱れる。


「……っ」


胸元に手を当てる。

けれど、それでも視線は逸らさない。


「……私は」


ゆっくりと、言葉を紡ぐ。


「ちゃんと、分かっているわ」


「何をだよ」


思わず食い気味に返す。


「自分の状態くらい」


静かな声。

けれど、その奥には微かな固さがあった。


「だから、いいの」


「よくねえよ!いいわけないだろ!」


言葉が荒くなる。

それでも、止められない。


「このまま悪化したらどうするんだよ!」


「……」


「記憶だって、もっと抜けていったら――」


そこで、言葉が詰まる。

最悪の想像が、頭をよぎったからだ。


「……俺のこと、忘れてもいいっていうのかよ」


気づけば、そんな言葉が零れていた。

部屋の空気が、ぴたりと止まる。


「……」


零花が、静かに目を伏せる。


数秒の沈黙。

やけに長く感じられる。


「……忘れないわ」


小さく、けれどはっきりとした声。


「……絶対に」


顔を上げる。

その瞳には、迷いはなかった。

それが逆に、不自然だった。


「……っ」


言葉を返せない。

確信に満ちすぎている。

根拠のないはずの言葉なのに、まるで“決まっていること”のように言い切る。


「……だから。心配しなくていいの」


零花は、ほんの少しだけ微笑む。

その直後だった。


「……っ」


息が、詰まるような音。

零花の身体がぐらりと傾いた。


「おい――!」


反射的に腕を伸ばす。

そのまま、倒れ込んでくる身体を抱き止めた。


軽い。

驚くほどに。


「……零花!」


呼びかける。

けれど、返事はない。

浅い呼吸だけが、かすかに続いている。


「……っ」


肩を支えながら、そっとベッドへと寝かせる。


乱れた呼吸に上下する胸元。

さっきよりも、明らかに状態が悪い。


「……無理すんなよ……」


思わず、そんな言葉が零れる。

届いているのかどうかも分からないのに。


「……」


手を伸ばし、さっきまで握っていたその手を、もう一度包み込む。


やっぱり、冷たい。

さっきよりも少しだけ。


「……」


何もできない。

ただ、こうしていることしか。

胸の奥が、じわじわと締め付けられる。

さっきの会話が、頭の中で繰り返される。


“問題はない”“困ってはいない”


そんなはず、ないのに。


「……」


言葉が、出てこない。

どうすればいいのかも分からない。


ただ、このままじゃいけない。

そんな感覚だけが、はっきりと残っていた。


それでも今この瞬間にできることは、何もなくて。

ただ、零花の手を握ったまま。


その冷たさが、少しでも和らぐことを願うしかなかった。

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