第19話「零れ落ちていくもの」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
高瀬 陸
晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。
軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。
桜井 美咲
晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。
場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。
放課後を告げるチャイムが、教室の空気をゆるやかにほどいていく。
規則正しく張り詰めていた時間が終わり、どこか気の抜けた静けさが広がった。
すぐに、あちこちから椅子を引く音や鞄を閉じる音が重なり始める。
誰かの笑い声、廊下へと駆け出していく足音。
一日の終わりを告げるざわめきが、教室全体に満ちていった。
窓の外は、冬の淡い光に包まれている。
低く傾いた陽が、教室の床に長い影を落とし、その影は机や椅子の足に絡むようにしてゆっくりと伸びていた。
ガラス越しに見える空は澄んでいて、どこか冷たく、けれど穏やかな色をしている。
「はぁ~……終わったぁ」
大きく伸びをしながら、桜井美咲が机に突っ伏す。
その動きに合わせて、髪がさらりと肩から流れ落ちた。
「今日、なんか長くなかった?」
ぐったりとした声が、机に押しつぶされるようにしてこぼれる。
その隣で、高瀬陸が肩を回しながら顔をしかめた。
「わかる。なんかやたら長く感じたわ」
「それは陸がちゃんと聞いてないからでしょ」
「いや聞いてたっての。たぶん」
軽口を叩き合う二人の声は、教室のざわめきの中に自然と溶け込んでいく。
特別でもなんでもない、ありふれた放課後の会話。
俺はそのやり取りを横目に見ながら、小さく息を吐いた。
机の中から教科書を取り出し、鞄へとしまっていく。
手を動かしながらも、どこか気の抜けた感覚が体に残っていた。
「で、お前らこの後部活だろ?」
何気なくそう言うと、陸がふっと口元を歪める。
「それがよ、今日は休みなんだわ」
「え、そうなの?」
美咲が顔を上げる。
「マジマジ。顧問が会議かなんかでさ」
「えー、いいねぇ。うちも今日オフなんだよね」
「お、奇遇じゃん」
重なる言葉に、ふっと空気が軽くなる。
ほんの少しだけ、いつもと違う流れ。
そのやり取りを聞きながら、鞄の口を閉じる手を止めた。
「珍しいな、そんなこともあるんだな」
「だろ?こういう日ってさ――」
陸が椅子にもたれながら、意味ありげに笑う。
その目には、どこか子供っぽい期待が浮かんでいた。
「まっすぐ帰るの、もったいなくね?」
その一言に、美咲の表情がぱっと明るくなる。
「わかる!せっかくだしどっか寄ってこうよ!」
「賛成ー。晴人もいいだろ?」
二人の視線が向けられる。
俺は一瞬だけ考えるように視線を落とし、それから肩をすくめる。
「まあ、別にいいけど」
「よし決まりな!」
陸が勢いよく立ち上がり、机を軽く叩く。
その音が、周囲のざわめきに混ざって消えていった。
教室の中では、すでに多くの生徒が帰り支度を終え、次々と廊下へ出ていく。
夕方の光は少しずつ色を変え、窓の外の景色も、どこか一日の終わりを感じさせるものになっていた。
いつもと少しだけ違う放課後。
けれどそれは、きっと誰にでもあるような、ありふれた出来事で。
そんな何気ない流れの中で、時間は静かに続いていく。
◇ ◇ ◇
教室を出ると、廊下にはすでに帰宅する生徒達の流れができていた。
話し声が重なり合って、どこか賑やかな空気が広がっている。
「どこ行く?とりあえず駅の方行くか?」
陸が前を歩きながら振り返る。
「そうだね、その辺なら店も多いし」
美咲がそれに頷き、俺も特に異論はなかった。
三人で並んで歩きながら、取り留めのない話を続ける。
内容なんてほとんど覚えてないような、どうでもいい会話ばかりだ。
それでも、その時間は不思議と心地よかった。
下駄箱で靴を履き替え、外へ出る。
冬の空気が、肌にひやりと触れた。
吐いた息が、わずかに白くなる。
「うわ、やっぱ寒いな」
「言うほどでもないでしょ」
「いや寒いって」
そんなやり取りをしながら、校門へと向かうと、少し前方に、見覚えのある後ろ姿が目に入る。
長い黒髪が、冬の風に揺れていた。
「あ……零花!」
呼びかけると、少し間を置いて、その背中がゆっくりと振り返った。
風に揺れていた黒髪がふわりと収まり、こちらへ向けられる視線と重なる。
「……晴人君?今、帰り?」
「ああ。ちょうど今出たとこ」
「そう」
短いやり取りのあと、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちる。
その空気を埋めるように、美咲が一歩前に出た。
「あ、零花先輩!今からちょっと寄り道しようって話してたんですけど……よかったら一緒にどうですか?」
自然な誘い方だった。
零花は少しだけ目を細めて、こちらを見渡す。
俺と、陸と、美咲。
それから、ほんのわずかに考えるような間を置いて――
「ええ、大丈夫よ」
そう言って、静かに微笑んだ。
その表情を見て、なぜか少しだけ安心する。
「じゃあ決まりな!」
陸が軽く手を叩き、また歩き出す。
四人で並んで歩き出す帰り道。
さっきまでと同じはずの景色なのに、少しだけ違って見える気がした。
理由なんて、特にない。
ただ――隣にいるだけなのに、少しだけ意識してしまっていた。
◇ ◇ ◇
駅前まで歩くと、いくつかの店の明かりが目に入ってくる。
夕方から夜へと移り変わる時間帯。
通りには人の流れができていて、どこか落ち着かない賑やかさがあった。
「どこ入る?適当に入るか?」
陸が周囲を見回しながら言う。
「この辺ならどこでもいいけど……」
美咲がそう言いかけたところで、ふと視線を横に向けた。
「あ、あそこどう?ファミレス」
指差した先には、見慣れたチェーン店の看板が明るく光っている。
ガラス越しに見える店内は人で賑わっていて、暖かそうな空気が外にまで伝わってくるようだった。
「いいじゃん、あそこ。ちょうど腹減ってたし」
「決まりだな」
特に反対する理由もなく、俺達はそのまま店へと向かった。
自動ドアが開くと同時に、暖かい空気が一気に体を包み込む。
外の冷えた空気との差に、思わず肩の力が抜けた。
店内には食器の触れ合う音や、客の話し声が混ざり合っている。
どの席もほとんど埋まっていて、家族連れや学生達で賑わっていた。
「いらっしゃいませ。四名様ですか?」
店員に案内され、俺達は奥の方の席へと通される。
四人掛けのテーブル席。
向かい合うように座る形になり、自然と視線が交わる距離だった。
「はぁ~、あったか……」
美咲がほっとしたように息をつく。
「外マジで寒かったからな」
「お前さっきと言ってること変わってない?」
「いや、あれはまだマシな方だったってだけで」
どうでもいいやり取りに、自然と小さな笑いがこぼれる。
メニューを手に取ると、色とりどりの料理の写真が並んでいた。
ページをめくるたびに、どれにするか迷う時間が生まれる。
「とりあえずドリンクバーだろ」
陸が即決で言う。
「出た、それ絶対言うと思った」
「いやこれは外せねぇって」
「はいはい、じゃあ全員ドリンクバーね」
美咲が軽くまとめて、俺達はそれぞれ注文を決めていく。
何を頼むかで少し悩んだり、どうでもいいことで言い合ったり。
そんなやり取りが、どこか心地よく続いていく。
ふと、向かい側に目を向ける。
零花は静かにメニューを見ていて、その表情はいつも通り落ち着いていた。
騒がしい店内の中でも、そこだけ少しだけ空気が違うように感じる。
――でも、それもきっと、いつものことだ。
特別なことなんて、何もない。
ただ、こうして四人で過ごす時間が、穏やかに流れているだけだった。
◇ ◇ ◇
料理が運ばれてくると、テーブルの上が一気に賑やかになる。
湯気の立つ皿、鮮やかな色合い、どこか食欲を刺激する匂い。
「うわ、うまそう」
陸が素直な声を漏らし、すぐにフォークを手に取る。
「ちょっと、写真撮るから待って!」
美咲が慌ててスマホを取り出し、テーブル越しに身を乗り出す。
「はいはい、早くしろよ。冷めるぞ」
「ちょっとくらいいいでしょ!」
軽いやり取りの中で、シャッター音がひとつ鳴った。
「よし、オッケー!」
その一言を合図に、四人それぞれが食事に手をつける。
しばらくは、食べることに集中した時間が流れた。
時折、味の感想を言い合ったり、どうでもいいことで笑ったり。
そんな他愛のないやり取りが、途切れることなく続いていく。
「てかさ、こういうの久しぶりじゃね?」
陸がふと思い出したように言う。
「確かに。みんなでこうやって集まるの、結構久しぶりかも」
美咲もそれに頷く。
「去年の遊園地行った時以来?」
その言葉に、俺はフォークを持つ手を止めた。
「……ああ、かもな」
あの時のことが、自然と頭に浮かぶ。
人混みの中で歩いたこととか、どうでもいいことで笑い合ってたこととか。
「その前には海にも行ったよねー」
「いいな、それ。今年もどっか行こうぜ」
「賛成ー!」
三人の会話が、軽やかに重なっていく。
その流れのまま、美咲が零花に視線を向けた。
「零花先輩も、あの時楽しかったですよね?」
――ほんの一瞬。
時間が、わずかに引き延ばされたような気がした。
零花の手が、ぴたりと止まる。
フォークを持ったまま、皿の上で動かなくなる。
視線が、わずかに落ちる。
「……」
何かを探すような、ほんの短い沈黙。
その違和感に、俺は無意識に視線を向けていた。
「……ごめんなさい」
静かな声だった。
「少し、覚えていないの」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
その言葉が、テーブルの上に落ちる。
さっきまでの賑やかな空気が、ほんの一瞬だけ、形を失った気がした。
「え?」
最初に声を上げたのは陸だった。
「覚えてないって……遊園地もですか?」
陸の少しだけ戸惑いを含んだ声。
零花は、ゆっくりと顔を上げる。
「断片的には、覚えているのだけど……」
言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。
「うまく繋がらなくて……」
零花の言葉が静かに落ちたあと、ほんのわずかな沈黙が生まれる。
さっきまで途切れることなく続いていた会話が、不自然なほどに止まっていた。
誰かが何かを言えばすぐに戻れるはずの距離なのに、その“最初の一言”が見つからない。
「いやいや、そんなことあるか?」
最初に口を開いたのは陸だった。
どこか無理に明るさを保とうとするような、少しだけ大きめの声。
軽く笑いながら言っているのに、その視線は一瞬だけ泳いでいた。
「ちょっと疲れてるんじゃないですか?」
言葉を続けながら、フォークを持つ手で皿の上の料理をつつく。
何でもないような仕草に見せかけて、ほんの少しだけ落ち着かない様子が滲んでいた。
「最近寒いですしね……」
美咲が、様子をうかがうように言葉を重ねる。
声はいつもより少しだけ柔らかくて、どこか慎重だった。
零花の反応を確かめるように、ちらりと視線を向ける。
――空気を壊さないように。
そんな意図が、言葉の端々ににじんでいた。
零花は、その言葉を受けて、小さく微笑む。
「ええ、そうかもしれないわね」
落ち着いた調子で、何事もなかったかのように返す。
けれどその笑みは、ほんのわずかにだけ、作られたもののようにも見えた。
それ以上、誰もその話題には踏み込まなかった。
まるで、触れてはいけないものに、うっかり触れてしまったかのように。
やがて、陸が別の話題を持ち出し、美咲がそれに乗る。
会話はゆっくりと、元の調子へと戻っていく。
笑い声も、少しずつテーブルの上に戻ってくる。
けれど、さっきまでとまったく同じには戻っていなかった。
目に見えない何かが、ほんのわずかに引っかかったまま、そこに残っている。
それは、誰も口にしないまま。
ただ静かに、その場に留まり続けていた。
◇ ◇ ◇
店を出ると、外の空気が一気に頬を冷やした。
さっきまでの暖かさが嘘みたいに、夜の空気は静かに冷えている。
吐いた息が、白く浮かんでは消えていった。
「うわ……やっぱ外寒いな」
「さっきも同じこと言ってたよね、それ」
「いや、店の中があったかすぎたんだって」
陸が肩をすくめ、それに美咲が苦笑する。
そんなやり取りに、かすかな笑いが混じる。
会話は続いている。
言葉も、途切れてはいない。
それでも、何かがほんの少しだけ噛み合っていないような、そんな感覚が残っている。
四人で並んで歩きながら、駅へと向かう。
街灯の明かりが、足元に淡く影を落としていた。
ふと、隣に視線を向ける。
零花は、前を向いたまま静かに歩いている。
表情はいつも通りで、さっきのことを引きずっているようには見えない。
「……零花」
「なに?」
その返事は、いつもと変わらない。
「いや……」
続ける言葉が、見つからない。
さっきのことを聞くべきなのか。
それとも、触れないままでいいのか。
でも聞けば、何かが壊れる気がした
考えがまとまる前に、言葉が途切れる。
「なんでもない」
結局、それだけを返した。
零花は一瞬だけ俺を見て、それから小さく頷く。
「そう」
それ以上、何も言わないまま、また前を向く。
会話は、そこで一度途切れた。
後ろでは、陸と美咲が別の話題で盛り上がっている。
笑い声も、ちゃんと聞こえてくる。
――なのに。
この距離だけ、妙に静かだった。
並んで歩いているはずなのに、どこか一歩分だけ離れているような。
そんな、言葉にしづらい違和感。
理由なんて、はっきりしているはずなのに。
それでも俺は、それを口にすることができなかった。
冬の夜の空気だけが、やけに冷たく感じられた。
その冷たさだけが、胸の奥に残っていた。




