第18話「そのときは、まだ」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
人混みのざわめきが、絶え間なく耳に流れ込んでくる。
境内へと続く参道は、思っていた以上に人で溢れていた。
肩と肩がかすかに触れ合うたび、冬の冷えた空気とは別の、体温のぬくもりが混ざる。
吐いた息は白く、ゆっくりと夜空へ溶けていく。
指先はじんわりとかじかみ、ポケットに手を入れたまま、俺は列に並んでいた。
年が明けて間もない。
どこか浮き足立った空気が、この場所全体を包んでいる。
新しい年を迎えたという実感と、まだどこか現実感の薄い感覚が、奇妙に同居していた。
――初詣。
その言葉を頭の中でなぞりながら、ふと隣に視線を向ける。
そこに、零花がいた。
冬の装いに身を包み、静かに前を見つめている。
人混みの中にいても、不思議とその姿だけがくっきりと浮かび上がって見えた。
「……寒くないか?」
何気なく声をかける。
零花は一瞬だけこちらを見て、すぐに小さく首を振った。
「平気よ」
列はゆっくりと前へ進んでいく。
砂利を踏みしめる音と、遠くで鳴る鈴の音が重なり合い、一定のリズムを刻んでいた。
その音に意識を預けながら、ふと、ポケットの中のスマホの存在を思い出す。
そういえば、年が変わる頃の零花とのメッセージのやりとりをしたっけ。
思考が、自然とそこへ引き寄せられる。
視線は前を向いたままなのに、意識だけが、ほんの少し過去へと沈んでいく。
◇ ◇ ◇
『もうすぐ年明けだな』
送信して、間もなく既読がついた。
『ええ』
短い返事。
けれど、それだけで、零花らしいと思った。
無駄な言葉を重ねない、簡潔で整ったやり取り。
『来年もよろしくな』
そう打ち込んで送信する。
いつも通りの、軽い挨拶。
ほんの少しの間を置いて、返信が届く。
『こちらこそ』
そして、続けて。
『……来年も、一緒にいられるといいわね』
「……?」
思わず、眉をひそめる。
指先が、画面の上で止まる。
どういう意味だ?
冗談にしては、少しだけ引っかかる言い方だった。
けれど、深く考えるほどのことでもない気がして。
『なんだよそれ(笑)』
そう返すと、すぐに返事が来た。
『ふふ、深い意味はないわ』
その一文を見て、肩の力が抜ける。
――まあ、零花だしな。
そう思って、スマホの画面を閉じた。
そのときは、それ以上気にすることもなかった。
◇ ◇ ◇
「……晴人君?」
名前を呼ばれて、意識が引き戻される。
顔を上げると、零花がこちらを見ていた。
ほんのわずかに首を傾げ、不思議そうな表情を浮かべている。
「どうかしたの?」
「ああ、いや……」
言葉にしかけて、少しだけ考える。
思い返していたやり取りが頭をよぎる。
けれど、それを今ここで口にするほどのものでもない気がして。
「なんでもない」
そう答えると、零花は一瞬だけこちらを見つめてから、小さく頷いた。
「そう」
それだけ言って、再び前を向く。
列は、いつの間にかかなり進んでいた。
賽銭箱のある場所が、もうすぐそこに見える。
鈴の音が、さっきよりもはっきりと聞こえてくる。
『――来年も、一緒にいられるといいわね』
去年のやりとりが、ほんの一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、それ以上考えることはしなかった。
今はただ、この時間を過ごしていることの方が、ずっと自然で。
それ以外のことに意識を向ける理由は、まだなかった。
列の最後尾から見えていた賽銭箱は、気づけばすぐ目の前まで近づいていた。
人の流れに押されるようにして、俺達も前へ進む。
大きな鈴が頭上に吊るされている。
その下で、参拝を終えた人達が静かに頭を下げ、次の場所へと移っていく。
順番が回ってきて、賽銭箱の前に立つ。
小銭を取り出し軽く投げ入れると、乾いた音が、箱の中で跳ねた。
隣で、零花も同じように賽銭を入れる。
それから、二人並んで手を合わせた。
目を閉じる。
ざわめきは、遠くに引いていくように感じられた。
代わりに、自分の呼吸と、わずかな心臓の鼓動だけが意識に残る。
――何を願うか。
ほんの一瞬、考える。
健康とか、無難なことでもいい。
けれど、わざわざここまで来てそれだけというのも、少し味気ない気がした。
……まあ、いいか。
深く考えずに、心の中で簡単に願いを置く。
それで十分だと思った。
ゆっくりと目を開ける。
隣を見ると、零花は、まだ目を閉じたままだった。
その横顔は、いつもと変わらず整っていて。
けれど、どこか――ほんのわずかに、張り詰めているようにも見えた。
……長いな。
そう思ったところで、ようやく零花が目を開ける。
ふっと、小さく息を吐いた。
「……終わったか?」
声をかけると、零花は一瞬だけこちらを見て、微かに頷いた。
「ええ」
それだけの短い返事。
けれど、どこか力が抜けたような、そんな響きがあった。
人の流れに合わせて、その場を離れる。
少しだけ脇に寄って、混雑を避けながら歩く。
「何願ったんだ?」
何気なく聞いてみる。
零花は、すぐには答えなかった。
一歩、また一歩と歩みを進めながら、ほんの少しだけ視線を落とす。
「……秘密よ」
「なんだよ、それ」
軽く肩をすくめて返す。
視線が、自然と零花の胸元へと向く。
クリスマスに渡したネックレスが、そこにあった。
冬の装いの中でも、控えめに光を反射している。
「それ、ちゃんとつけてるんだな」
何気なく言うと、零花はその言葉に反応して、指先でそっとネックレスに触れた。
「……ええ」
静かな返事。
指先でなぞるように、ほんの一瞬だけ触れる。
まるで、それが確かにそこにあることを、確かめるように。
「大事なものだから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
自分が渡したものを、こうして大切にしてくれている。
それだけで、十分だった。
「そっか」
人の流れは途切れることなく続いていて、遠くではまだ鈴の音が鳴り続けていた。
◇ ◇ ◇
参道の端に並ぶ屋台を抜けた先に、おみくじの箱が置かれていた。
甘い匂いや焼き物の香ばしさが、まだかすかに残っている。
その中に混じるように、冷えた空気がすっと通り抜けていく。
木製の箱と、その横に立てられた小さな案内板。
参拝を終えた人たちが足を止めては、順番にくじを引いていた。
誰かが紙を広げる音。
小さく息を呑む気配や、ほっとしたような笑い声。
そんな光景を、何とはなしに眺める。
「おみくじ、引くか?」
そう声をかけると、零花はわずかにこちらへ視線を向けた。
人の流れの中でも、その仕草はどこか落ち着いている。
「ええ、せっかくだもの」
箱の前へ立ち、手を伸ばし、軽くそれを振る。
中で木の棒がぶつかり合う、乾いた音が響いた。
その中から、一本を引き抜く。
指先に伝わる、わずかな重み。
番号を確かめて、対応する引き出しを開ける。
小さな引き出しの中に、折りたたまれた紙が入っていた。
それを取り出し、指で開く。
「……」
一瞬、言葉が止まる。
目に入った文字を、もう一度だけ確認する。
――凶。
思わず、息を抜いた。
「どうしたの?」
横から、零花が少しだけ身を乗り出す。
苦笑を浮かべながら、紙をそのまま見せる。
「凶、だってさ」
言葉にしてみると、妙に軽く感じられた。
零花は、その文字を静かに見つめる。
「……あら」
わずかに目を細める。
驚きというより、確かめるような反応だった。
「珍しいわね」
「そうか?」
「ええ。あまり引くものじゃないでしょう?」
そう言われて、改めて紙を見る。
確かに、そうかもしれない。
けれど――
「まあ……いいだろ。こういうのって、当たるかどうかもわからないし」
肩をすくめるように言う。
それで済ませる程度のものだと思っていた。
零花はその言葉を聞いて、小さく視線を落とす。
何かを考えるように、ほんのわずかな沈黙。
それから、自分の番とばかりに箱へ手を伸ばした。
同じように振る。
木のぶつかる音が、もう一度響く。
その中から、一本を引き抜く。
番号を確かめ、引き出しを開けて、紙を取り出しゆっくりと開く。
その動作は、どこか丁寧で。
まるで、そこに書かれているものを、慎重に受け取ろうとしているようだった。
「……」
わずかに、息を止めるような間。
その横顔を見ながら、自然と問いかける。
「どうだった?」
零花は顔を上げる。
その視線が、まっすぐこちらへ向く。
「大吉、よ」
その言葉とともに、ほんの少しだけ柔らかく微笑んだ。
「へえ、すごいじゃん」
素直にそう返す。
さっきの自分の結果と並べると、どこか出来すぎた対比に思えた。
「運、分けてくれよ」
軽く言うと、零花はふっと息を漏らすように笑う。
「どうかしら」
その声は穏やかで、いつも通りで。
けれど、どこか静かだった。
手元のおみくじに、もう一度視線を落とす。
大吉と書かれた紙。
それを、指先でそっとなぞる。
まるで、その言葉を確かめるように。
「結んでいくか?」
近くにある結び所を指さす。
白い紙がいくつも結ばれ、風に揺れていた。
「ええ」
並んで歩きながら、俺は手元の紙を軽く見下ろす。
凶と書かれたその文字は、どこか他人事のように感じられた。
書かれている内容に目を通すこともなく、軽く折りたたむ。
ただの紙切れだと思えば、それで済む。
その隣で零花は、大吉と書かれた紙を、丁寧に折りたたんでいた。
◇ ◇ ◇
境内を離れると、少しだけ人の流れが落ち着いた。
賑わいはまだ背後に残っている。
けれど、一歩離れるだけで、その音はどこか遠くのもののように感じられた。
冷えた空気が、ゆっくりと頬を撫でていく。
並んで歩く。
特別なことは何もない。
ただ、同じ方向へ足を進めているだけ。
それでも、その時間はどこか心地よかった。
「……人、多かったな」
「ええ。賑やかだけど、嫌いじゃないわ」
その声音は、いつも通り落ち着いている。
「まあ、正月って感じはするよな」
少しだけ沈黙が落ちる。
けれど、それは気まずいものではなくて。
ただ、言葉が必要ないだけの静けさだった。
しばらく歩いたあと、ふと思い出したように口を開く。
「……そういえばさ。去年、色々あったよな」
視線は前を向いたまま、言葉を続ける。
「再会してからさ。夏は海行ったし、夏祭りも行ったしな」
あのときの光景が、頭の中に浮かぶ。
眩しい日差し。波の音。
夜空に上がる花火。
どれも、はっきりと思い出せる。
だからこそ、自然と口に出た。
「……」
隣の零花は――すぐには、返事をしなかった。
ほんのわずかな沈黙。
歩く足は止まらないまま、その時間だけが少しだけ引き延ばされたように感じられる。
「……零花?」
思わず、名前を呼ぶ。
その声に反応するように、零花がわずかに肩を揺らした。
はっとしたように顔を上げる。
その仕草が、ほんの少しだけ遅れて見えた。
「あ……ごめんなさい」
小さく、そう言ってから。
一拍、間を置く。
何かを探すように、言葉を選ぶように――
「そう……だったわね」
ようやく続いた言葉は、どこか曖昧だった。
記憶を辿っているというよりも、
思い出そうとしている最中で、そのまま口に出したような響き。
……?
胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
歩調は変わらない。
けれど、隣を歩く零花の様子を、無意識にうかがってしまう。
視線は前を向いている。
表情も、いつもと大きく変わらない。
それでもほんのわずかに、言葉と噛み合っていないような違和感。
「覚えてないのか?」
軽く言ったつもりだった。
冗談半分。それ以上の意味は、特に込めていない。
けれど、その言葉が口から出た瞬間、自分の中で小さく何かが引っかかった。
「そんなことないわ」
間を置かずに返ってくる言葉。
それははっきりしていて、迷いもなかった。
けれどその後、ほんのわずかに沈黙が落ちる。
視線が、わずかに揺れる。
「ちゃんと……覚えてる」
少しだけ言い足すように、そう続けた。
その“付け足し”が、妙に印象に残る。
まるで、自分自身に言い聞かせるような――そんな響きだった。
……気のせい、か。
考えすぎだ、と内心で首を振る。
こんなことで引っかかるのも、どうかしている。
「ならいいけど」
それだけ言って、視線を前に戻す。
それ以上、何も聞かなかった。
聞く理由も、ない気がしたし――
何より、それを言葉にするほどのものではなかったから。
並んで歩く足音だけが、静かに続いていく。
そのリズムに紛れるように、さっきの感覚も、ゆっくりと薄れていった。
少しだけ空気を変えるように、軽く息を吐く。
胸の奥に残っていた引っかかりを、無理やり外に追い出すように。
「今年も、なんだかんだで色々ありそうだな」
わざと軽い調子でそう言う。
これ以上、さっきの話に触れる必要はない。
そう思ったからだった。
隣を歩く零花が、わずかにこちらへ視線を向ける。
その動きは、ゆっくりで。
どこか一拍遅れているようにも見えた。
「……ええ」
短く、頷く。
それだけの返事。
けれど、その声には、先ほどまでとは違う静けさがあった。
ただ落ち着いている、というだけではない。
ほんのわずかに、沈んでいるような――そんな印象を受ける。
零花は、そのまま前を向く。
視線はまっすぐで、歩く速度も変わらない。
それでも、その横顔には、かすかな陰りが差しているように見えた。
……どうしたんだ?
さっきのことが、頭の中で小さく引っかかる。
何かを考えているのかもしれない。
けれど、それが何なのかはわからない。
聞こうと思えば、聞けたかもしれない。
「どうした?」と、一言。
それだけで済むはずなのに、結局言葉にはしなかった。
この穏やかな空気を、崩したくなかっただけかもしれない。
足音が重なり、静かなリズムを刻んでいく。
遠くから、まだ境内のざわめきが微かに届いていた。
冷たい空気の中で、吐く息が白く滲む。
隣には零花がいる。
その横顔は、いつもと変わらないはずなのに。
ほんのわずかに、遠くを見ているようにも感じられた。
「……」
声をかけようとして、やめる。
理由は、うまく言葉にできなかった。
ただ、今はこのままでいいような気がして。
足音に紛れるように、さっきの感覚が、胸の奥に残っていた。
消えるほどでもなく、形になるほどでもない。
触れようとすれば、するりと逃げていくような――そんな、曖昧なままの何か。
それを確かめることもなく、そのまま歩き続けた。




