第11話「ほどける君の横顔」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
高瀬 陸
晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。
軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。
桜井 美咲
晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。
場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。
人のざわめきが、絶え間なく耳に流れ込んでくる。
高く弾む笑い声、遠くで響く機械音、どこか軽快な音楽。
視界の先には、色とりどりの装飾に包まれたゲートと、その向こうに広がる非日常の空間。
まるで現実から切り離されたみたいな場所に、俺は今、立っていた。
少しだけ、胸の奥が浮ついているのを自覚する。
こういう場所に来ることなんて、そう多くはない。
……いや。
それだけじゃない。
今日は――いつもと、少しだけ違う気がしていた。
「……人、多すぎだろ」
思わず漏れた声に、すぐ横から元気な声が返ってくる。
「なに言ってんの!遊園地なんだから当たり前でしょ!」
振り返ると、美咲が目を輝かせながら辺りを見回していた。
その隣では、陸が呆れたように肩をすくめている。
「昨日いきなり“明日遊園地行こう!”とか言い出したやつが偉そうに言うなよ」
「いいじゃんいいじゃん!たまにはこういうとこ来ないと損だって!」
「はいはい……」
二人のいつものやり取りに、思わず苦笑が漏れる。
まったく、急すぎるんだよ。
昨日の放課後、何の前触れもなく美咲が言い出したかと思えば、気づけばこの有様だ。
「零花も、急に誘ったけど大丈夫だったのか?」
そう問いかけると、少しだけ間を置いて、静かな声が返ってきた。
「……ええ。特に断る理由はなかったから」
その言葉は淡々としているのに、不思議と拒む感じはない。
視線の先では、零花がゆっくりと園内を見渡していた。
「……賑やかね」
ぽつりと落ちたその一言は、周りの浮かれた空気とはどこか温度が違っていて。
なのに、なぜかその場の風景には、妙にしっくりと馴染んで見えた。
「よーし!まずはあれ乗ろうよ、あれ!」
美咲が勢いよく指を差す。
その先にあるのは、レールを駆け上がっていくジェットコースターだった。
「うわ、いきなりかよ……」
「遊園地来たら最初はこれでしょ!」
「はいはい、わかりましたよ……」
陸がため息混じりに歩き出すのを合図に、俺達もその後に続く。
――こうして、少し騒がしくて、少しだけいつもと違う一日が始まった。
◇ ◇ ◇
列に並んでいる間も、美咲はずっと落ち着きがなかった。
「ねぇねぇ、絶対一番前がいいよね!?」
「いや別にどこでも変わんねぇだろ……」
「変わるって!迫力が違うんだから!」
「はいはい……」
陸が適当にあしらう横で、俺は小さくため息をつく。
「……これ、結構高くねぇか?」
見上げた先、レールは大きく空へと持ち上がり、そのまま急降下していた。
「ビビってんの?」
「ビビってねぇよ」
「顔引きつってるけど?」
「気のせいだ」
軽口を交わしながら、ふと隣を見る。
零花は、無言でレールの先を見上げていた。
「……高いわね」
ぽつりと呟いたその声は、驚きというより、ただ事実を確かめるような響きで。
それ以上は何も言わず、また静かに視線を前へ戻す。
――順番は、すぐに回ってきた。
係員に促されるまま座席に座り、バーが下ろされる。
ゆっくりと、車体が動き出す。
カタ、カタ、カタ、と規則的な音を立てながら、ゆっくりと上へ。
「うわ……これマジで高いな……」
「最高じゃん!」
思わず漏れた声に、美咲の弾んだ声が重なる。
隣に座る零花は、前を見たまま、静かに手すりを握っていた。
指先に、ほんの少しだけ力が入っている。
――頂点に到達した、その瞬間。
視界が一気に開ける。
その光景を、零花は一瞬だけ、じっと見つめていた。
「……きれい」
小さく、誰にも聞こえないくらいの声で。
次の瞬間、身体が引きずり落とされるような感覚とともに、景色が一気に流れた。
風が叩きつけられ、レールが軋み、誰かの叫び声が混ざる。
「うおおおおお!?」
「きゃあああああ!!」
「ははっ!いいねぇ!」
その中で、零花は声を上げることはなかった。
ただ、わずかに目を細めて、流れていく景色を見ていた。
――やがて、ブレーキの振動とともに、ゆっくりと停止する。
「はぁ……っ、死ぬかと思った……」
「えー!?めっちゃ楽しかったじゃん!」
美咲はけろっとした顔で笑っている。
「お前な……」
「晴人、顔やばかったぞ」
「うるせぇよ……」
そんな軽口を交わしながら、ふと視線を向ける。
零花は、静かにバーを外し、ゆっくりと立ち上がった。
その表情は、いつもと大きく変わらない。
「……どうだった?」
「……悪くなかったわ」
零花は一瞬だけ考えるように間を置いてからそう答えた。
その声音はいつも通りなのに、どこか、ほんの少しだけ――柔らかく聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
ジェットコースターの余韻が、まだ身体の奥に残っている。
耳の奥でかすかに響くような感覚と、浮ついたような足取り。
そんな状態のまま、次に向かったのはお化け屋敷だった。
入口は、どこか現実から切り離されたみたいに暗い。
色褪せた看板と、不自然に歪んだ装飾。
外の喧騒が嘘みたいに、そこだけぽっかりと空気が沈んでいる。
「む、無理無理無理!やっぱやめようよ!」
さっきまであんなに元気だった美咲が、入口の前でぴたりと足を止めた。
「は?さっき“行こう”って言い出したのお前だろ」
「だって!絶対なんか出るってこれ!」
「当たり前だろ、お化け屋敷なんだから」
「だから無理なの!」
「大丈夫だって。どうせ全部作り物だろ」
「そういう問題じゃないの!」
言い合いの声が、入口の暗がりに吸い込まれていく。
その奥は、先が見えないほど暗い。
「ほら、行くぞ」
半ば強引に、陸が美咲の背中を押した。
「ちょ、待って待って待ってって!!」
抗議の声を上げながらも、美咲は押されるまま中へ入っていく。
俺もそれに続いて足を踏み入れた。
――空気が、変わる。
外の熱気が嘘みたいに、ひんやりとした冷気が肌にまとわりついた。
わずかに湿ったような空気。
どこからともなく、低く唸るような音が響いている。
足音がやけに大きく聞こえた。
「……やっぱ帰りたい……」
「もう入ったんだから無理だろ」
「絶対なんかいるって……!」
美咲が小さく震えながら周囲を見回す。
その時――ガタッ、と鈍い音がして、すぐ横の壁が揺れた。
次の瞬間、暗闇の中から何かが飛び出してくる。
「ひぃっ!?」
鋭い悲鳴が、狭い通路に反響した。
美咲が思いきり陸の腕にしがみつく。
「うおっ!?ちょ、離れろって!」
「無理無理無理!!」
「いや、ただの人形だろこれ……」
懐中電灯の弱い光に照らされて、ぼんやりと浮かび上がるそれは、確かに作り物の人形だった。
だけど、一瞬本物に見えた。
騒がしいやり取りの中、ふと視線を向ける。
零花は、少し離れた場所でその光景を見ていた。
驚いた様子はない。
ただ、静かに観察しているような目で、“それ”を見ている。
「……どうした?」
声をかけると、零花はゆっくりとこちらを向く。
「……作り物ね」
先ほどの人形にもう一度だけ視線を落として静かに言った。
「いや、まあそうだけど……」
「……驚かないのか?」
「……驚く理由が、あまりないもの」
零花はほんのわずかに考えるような間を置いてから何事もなく答えた。
その声音は変わらない。
けれど、その様子を見ていて、ふと思う。
――零花って、こんなに動じないやつだったか?
動じない、というよりも。
最初から“そこに意味を見出していない”ような――そんな感じがした。
記憶を辿ろうとして、けれど、うまく思い出せない。
ただ、どこか――違う気がした。
「ほら!早く進むよ!!」
美咲の必死な声に引き戻されるように、俺達は再び歩き出す。
暗闇の奥へ、足を踏み入れていく。
外の賑やかさが、もうずいぶん遠くに感じられた。
◇ ◇ ◇
お化け屋敷を出た瞬間、張り詰めていた空気が一気にほどけた。
「はぁぁぁぁぁ……っ、無理、ほんと無理……」
美咲がその場にしゃがみ込むようにして、大きく息を吐く。
「大げさすぎだろ」
「大げさじゃないって!絶対寿命縮んだ!」
「そんなことで縮むかよ」
「縮むの!!」
いつもの調子で言い合う二人を見て、思わず笑いがこぼれる。
さっきまでの暗さが嘘みたいに、周りは明るくて、人の声も賑やかで。
……やっぱり、こっちの方が落ち着く。
「とりあえず、なんか食べようぜ」
「賛成ー!」
美咲がすぐに立ち上がって、近くのフードエリアへと歩き出す。
屋台や軽食の店が並ぶ一角は、人の流れも多く、どこかお祭りみたいな雰囲気だった。
それぞれ適当に食べ物を買って、近くのベンチに腰を下ろす。
「はー……生き返った……」
美咲が大げさに肩を落としながら、ドリンクを一口飲む。
「さっきまで元気だったのに、落差すごいな」
「怖いのは別なの!」
「はいはい」
陸が呆れたように笑う。
そんなやり取りを聞きながら、ふと視線を横に向ける。
零花は、手にした飲み物をゆっくりと口に運んでいた。
「……どうだった?」
なんとなく聞いてみる。
お化け屋敷のことを指しているのか、今この時間のことを指しているのか、自分でもよく分からないまま。
「……騒がしかったわ」
零花は少しだけ目を細めて、静かに答えた。
それがお化け屋敷のことなのか、美咲達のことなのかは分からない。
けれど、その言い方はどこか柔らかくて。
ほんの少しだけ、楽しんでいるようにも見えた。
「ねぇねぇ!」
美咲が急に身を乗り出してくる。
「このあと、あっちのお店見てきていい?限定グッズあるっぽいんだよね!」
「あー、またかよ……」
「いいじゃん!ちょっとだけ!」
「はいはい……」
陸が渋々と立ち上がる。
「じゃあ、俺らちょっと行ってくるわ」
「すぐ戻るからね!」
そう言い残して、二人は人混みの中へと消えていった。
――残されたのは、俺と零花だけ。
さっきまで隣にあった気配が、一瞬で消える。
それだけのことなのに、周囲の音の遠さが、少しだけ変わった気がした。
同じ場所のはずなのに、どこか“別の空間”に切り替わったような感覚。
「……行ったな」
「……ええ」
短いやり取り。
それだけなのに、妙に静かに感じた。
人の流れが、少しずつ遠ざかっていく。
さっきまであれだけ賑やかだったのに、二人になった途端、妙に静かに感じた。
完全に静かなわけじゃない。
周りにはまだ人がいて、楽しそうな声も、笑い声も、絶えず聞こえてくる。
けれどそれらが、どこか一枚隔てた向こう側のもののように、遠くに感じられた。
ベンチの前を行き交う人影を、なんとなく目で追う。
特に意味はない。ただ、視線の置き場に困っていただけだ。
「……」
言葉が出てこない。
別に、気まずいわけじゃない。
むしろ、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに、落ち着いている。
ただ、何を話せばいいのか、少しだけ分からなくなる。
ふと隣を見ると、零花は変わらない様子で前を見ていた。
人の流れでも、遠くのアトラクションでもなく、どこか曖昧な一点に視線を向けている。
風が吹いて、髪がわずかに揺れた。
「……なんか、急に静かになったな」
考えるより先に、言葉がこぼれる。
「……ええ」
その声は、いつもと同じはずなのに、この静けさの中ではやけに近くに感じられた。
少しだけ間が空く。
「……さっきまでが、騒がしすぎたのかもしれないわね」
「まあ、それはそうか」
思わず苦笑が漏れる。
さっきの光景が頭に浮かぶ。
怯えながらも騒いでいた美咲と、それを適当にあしらう陸。
「……ああいうの、嫌いじゃないけどな」
自分でも、誰に向けた言葉なのかはよく分からなかった。
「……ええ」
また、短い返事。
けれど今度は――ほんの少しだけ、声が柔らかい。
視線を向けると、零花はわずかに目を細めていた。
笑っている、というほどではない。
けれど、さっきまでよりもほんの少しだけ、表情が和らいで見えた。
風が、ゆるく吹く。
遠くで流れる音楽が、どこか現実感のない響きを持って耳に届く。
その音に紛れるようにして、時間がゆっくりと流れていく。
何も起きていないはずなのに、
この静けさは、どこか心地よかった。
何気なく視線を巡らせていた零花が、ふと動きを止める。
そのまま、どこか一点を見つめるようにして、静かに立ち尽くした。
「……?」
つられて、その視線の先を追う。
そこにあったのは、ゆっくりと回り続けるメリーゴーランドだった。
柔らかな音楽と、淡い色合いの光。
上下に揺れる木馬が、どこか現実感の薄い光景を作り出している。
さっきまでの騒がしさとは違う、穏やかな時間がそこにはあった。
「……あれ」
零花が、ぽつりと呟く。
その声は、どこか少しだけ遠くを見ているような響きで。
「……乗ってみたいわ」
「え?」
「……ああいうの、あまり乗ったことがないの」
「いや、でも……」
言いかけて、少し言葉に詰まる。
メリーゴーランド。
どう考えても、子ども向けのアトラクションだ。
「……一人で乗ってくればいいんじゃないか?」
半分冗談みたいに言うと、零花はゆっくりとこちらを見た。
そのまま、何も言わずに手を伸ばしてくる。
「……え?」
次の瞬間、軽く手首を引かれる。
「……一緒に」
短く、それだけ。
その声はいつもと変わらないはずなのに、なぜか、断りづらかった。
「……いや、さすがにそれは……」
周りの視線が気になる。
というか、普通に恥ずかしい。
そう思っているはずなのに――
引かれた手を、振りほどくことができなかった。
◇ ◇ ◇
気づけば、メリーゴーランドの前に立っていた。
柔らかな音楽が、一定のリズムで流れている。
派手さはない。けれど、どこか落ち着くような、不思議な空気がそこにはあった。
「……ほんとに乗るのか?」
「ええ」
半ば確認するように聞くと、迷いのない返事が返ってくる。
結局、流されるままに並び、案内されるままに木馬へとまたがる。
動き出すと同時に、ゆっくりと視界が回り始めた。
一定の速度で、穏やかに。
さっきまでのアトラクションとは違う、どこか時間が緩むような感覚。
正直、少し居心地が悪い。
周りを見れば、小さな子どもや、家族連れが多い。
……やっぱ浮いてるよな、これ。
そんなことを考えながら、何気なく隣へ視線を向ける。
――その時だった。
零花が、ほんの少しだけ目を細めていた。
風に髪が揺れる。
いつもよりも、少しだけ柔らかい表情。
笑っている、というほどではない。
けれど確かに、楽しんでいるように見えた。
「……」
言葉が出てこない。
ただ、その横顔から目が離せなかった。
こんな顔、するんだな――と、ぼんやり思う。
いや、違う。
“していたはずなのに、知らなかった”ような。
そんな、妙な感覚。
音楽が、ゆっくりと流れていく。
景色が、同じ軌道を何度もなぞる。
その繰り返しの中で、なぜか、この時間だけが少し特別に感じられた。
「……どうかしたの?」
不意に、零花がこちらを見る。
「……いや、別に」
慌てて視線を逸らす。
自分でも何を見ていたのか、うまく説明できない。
「……そう」
それ以上は何も言わず、零花はまた前を向いた。
けれどその口元は、さっきよりもほんの少しだけ、柔らかく見えた。
◇ ◇ ◇
メリーゴーランドを降りても、しばらくの間、あのゆるやかな音楽が耳に残っていた。
さっきまで感じていた妙な居心地の悪さは、気づけば少しだけ薄れていて。
代わりに、どこか落ち着いた空気が残っている。
人の流れに戻っても、さっきまでとは少しだけ感じ方が違った。
「……」
ふと隣を見ると、零花は少しだけ視線を落としていた。
考え込んでいる、というほどではない。
けれど、どこか静かに何かを感じ取っているような、そんな表情。
「……どうした?」
そう声をかけると、零花はゆっくりと顔を上げる。
「……少し、静かな場所に行きたいわ」
その言葉は、いつもと変わらない落ち着いた声音で。
けれど、ほんの少しだけ――
今までよりも、柔らかく聞こえた気がした。
「静かな場所……」
周囲を見回す。
どこもかしこも人が多くて、賑やかで静けさとは程遠い。
――その中で、ひとつだけ。
ゆっくりと回る、大きな観覧車が目に入った。
「……あれ、乗るか?」
指さした先を、零花も静かに見上げる。
「……ええ」
列に並び、順番を待つと、やがて順番が回ってきた。
係員に案内されて、ゴンドラの中へ。
扉が閉まると、外の音が一気に遠ざかった。
――二人きりの空間。
わずかな機械音と、ゆっくりとした揺れだけが残る。
静かすぎるくらいの空間の中で、観覧車は、ゆっくりと上昇を始めた。
ゆっくりと、景色が遠ざかっていく。
地上のざわめきは、扉が閉まった瞬間に切り離されたように薄れて、
今はもう、ほとんど届かない。
代わりに残るのは、かすかな機械音と、わずかに揺れる浮遊感だけだった。
観覧車は、静かに、確実に上昇していく。
窓の外に目を向ければ、園内の景色が少しずつ形を変えていく。
さっきまで自分達が歩いていた道も、並んでいた列も、すべてが小さく、遠くなっていく。
「……高いな」
思わず漏れた声は、思っていたよりも静かに響いた。
「ええ」
隣から返ってきたのは、短く、落ち着いた声。
それきり、会話は続かない。
けれど、その沈黙は、気まずさとは違っていた。
ただ、言葉を挟む必要がないだけの静けさ。
――いや。
本当は、少しだけ違う。
何を話せばいいのか、分からないだけかもしれない。
この距離と、この空間を、どう扱えばいいのか、掴みきれていない。
「……」
視線の行き場に困り、窓の外へと逃がす。
けれど、すぐにまた、隣が気になってしまう。
ちらりと横を見る。
零花は、外の景色を静かに見つめていた。
風もないはずなのに、わずかに揺れる髪。
光を受けて、ほんの少しだけ柔らかく見える横顔。
相変わらず、落ち着いていて。
けれどどこか、遠くを見ているようにも見えた。
ここにいるはずなのに、少しだけ、手が届かないような。
そんな感覚。
「……こうしていると」
ふいに、その横顔のまま、零花が口を開く。
「……デートみたいね」
「なっ……何言ってんだよ」
反射的に返した声が、少しだけ裏返る。
自分でも分かるくらい、動揺していた。
「……ふふっ」
けれど零花は、そんな反応を気にする様子もなく小さく笑った。
からかうような強さはない。
ただ、どこか穏やかで――少しだけ、楽しんでいるような笑い方。
「……でもね」
そのまま、言葉が続く。
今度は、ほんの少しだけ声が落ちる。
外の景色ではなく、どこか別のものを見ているような声音で。
「……私が、こんなふうに楽しいと思っても……いいのかしら、って」
「……は?」
思わず聞き返す。
言葉の意味は分かるけれど、意図が掴めない。
「いや、別に……いいだろ。普通に」
少しだけ間を置いて、そう返す。
それが当たり前だと思ったし、それ以外の答えなんて、浮かばなかった。
“楽しいと思っていいのか”
そんなことを、わざわざ口にする理由。
そこに、何かがあるはずなのに。
それが何なのか、うまく形にならない。
「……そうね」
納得したのか、それとも流したのか。
そのどちらとも取れない曖昧な返し。
それ以上は、何も言わなかった。
ただ、また外へと視線を戻す。
「……」
さっきまでと同じはずの静けさが、ほんの少しだけ、違って感じられた。
うまく言えないけれど、ほんのわずかに噛み合っていないような。
そんな感覚が、胸の奥に残る。
観覧車は、ゆっくりと頂点へ近づいていく。
ふと、窓の外に目を向けると、空の色が、変わっていた。
「……」
思わず、言葉を失う。
昼の明るさは、すでに柔らかく溶けていて。
代わりに広がっていたのは、橙色に染まり始めた空だった。
地平線の向こうに、沈みかけた太陽。
その光が、街も、園内も、すべてを優しく包み込んでいる。
「……綺麗ね」
「ああ……」
それ以上の言葉は、出てこなかった。
言葉にしてしまうには、少しもったいない気がした。
ただ、この景色を、そのまま見ていたくて。
気づけば、さっきまで胸に残っていた違和感は、少しだけ遠のいていた。
今は、この時間の方が、大きく感じられた。
ふと、横を見ると、夕焼けの光を受けて、零花の横顔が柔らかく染まっていた。
さっきよりも、少しだけ穏やかで。
どこか満たされたような表情。
「……」
また言葉が出てこない。
けれど、不思議とそれでよかった。
何かを言わなくても、この空気は壊したくない。
そう思えた。
観覧車は、ゆっくりと下降を始める。
高い場所から、少しずつ現実へと戻っていく。
でも、この時間だけは、どこか特別なまま、残り続ける気がした。
最後にもう一度、空を見上げる。
橙から、少しずつ深まっていく色。
その中で、今日という一日が、静かに終わりへ向かっているのを感じた。




