第10話「変わらないもの」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
高瀬 陸
晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。
軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。
桜井 美咲
晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。
場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。
朝、校門をくぐった瞬間、いつもとは違う空気が肌に触れた。
グラウンドの方から、拡声器越しの声が風に乗って流れてくる。
「各クラス、集合位置を確認してくださーい!」という張りのある声に混じって、笑い声やざわめきが重なっていた。
見慣れたはずの校舎も、今日はどこか別の場所みたいに見える。
色とりどりのクラス旗が掲げられていて、普段は静かな中庭にも人の気配が満ちていた。
「おーい、晴人!」
背後から聞き慣れた声が飛んできて、軽く振り返る。
陸が大きく手を振りながら、こっちに駆けてくるところだった。
「遅ぇぞ!もう始まるぞ!」
「まだ開会式前だろ」
「気分の問題だよ、気分の!」
いつも通りの調子で肩を組まれ、その勢いに半歩だけよろける。
「ほら行くぞ!今日は気合い入れてくからな!」
「いや、俺はそんなでもないんだけど」
「何言ってんだよ、体育祭だぞ!?テンション上げてけって!」
陸の声は朝から無駄にでかい。
その隣で、くすっと笑う声がした。
「相変わらず元気だね、陸」
振り向くと、美咲が呆れたように肩をすくめていた。
「おはよ、晴人」
「おはよう」
「ちゃんと起きれたんだ。遅刻するかと思った」
「さすがにこういう日は起きるよ」
「えー?怪しいなぁ」
いつもと変わらないやりとり。
けど、その“いつも”が、今日は少しだけ騒がしい。
グラウンドへ向かうと、すでに多くの生徒が集まっていた。
クラスごとに整列していて、あちこちで談笑や掛け声が飛び交っている。
砂の匂いと、朝の少しひんやりした空気。
その中に混じる、どこか浮き足立った熱気。
「うわー、人多っ……」
「当たり前だろ、全校だぞ?」
「いや、分かってるけどさ」
美咲が周囲を見渡しながら、小さく感嘆の声を漏らす。
その横で、陸はすでにやる気満々だった。
「よっしゃー!絶対優勝してやるからな!」
「クラス対抗じゃないだろ」
「気持ちの問題だって!」
呆れながらも、少しだけ口元が緩む。
こういう空気は嫌いじゃない。
やがて、整列の合図がかかり、ざわめきが徐々に落ち着いていく。
前方では、教師がマイクを持って立っていた。
「これより、体育祭を開催します――」
開会の言葉が、グラウンドに響き渡る。
その声を聞きながら、空を見上げる。
雲は少なく、澄んだ青が広がっていた。
日差しはまだ強いけど、どこかやわらかい。
夏の終わりを感じさせるような、そんな光だった。
◇ ◇ ◇
開会式が終わり、各競技が順番に進んでいく。
いくつかの競技が進み、グラウンドの熱気は徐々に高まっていった。
最初のうちは、クラスメイトの出番を眺めながら、適当に声を出したり、拍手を送ったり。
普段の授業とはまるで違う空気に、少しだけ気分が浮いているのが自分でも分かる。
「次、晴人じゃね?」
陸の声に顔を上げると、手にしていたプログラムをひらひらと振っていた。
「お、ほんとだ。もうすぐだね」
美咲も横から覗き込んでくる。
名前の横に書かれた“100m走”の文字を見て、軽く息を吐いた。
「いってらっしゃい、晴人!」
「一位取ってこいよー!」
「いや、そこまでは期待すんなって」
適当に手を振って応えながら、スタート地点へ向かう。
砂の上を踏みしめるたびに、靴の裏から乾いた感触が伝わってくる。
日差しは思ったよりも強くて、じんわりと肌を焼くような熱があった。
すでに何人かの選手が集まっていて、それぞれ軽く身体を動かしている。
肩を回したり、足を伸ばしたり。
やる気満々、ってほどでもないけど、みんなそれなりに気合いは入ってるらしい。
俺もそれに倣って、軽く屈伸をした。
――別に、勝ちにこだわってるわけじゃない。
ただ走って、終わり。それだけだ。
「位置についてー!」
スターターの声が響く。
ラインの前に立ち、足を引く。
前を見据えると、まっすぐ伸びた白線が視界に入った。
周囲の音が、少しだけ遠くなる。
「よーい……」
腰を落とす。
身体が自然と前へと傾いた。
――パンッ!
乾いた音が空気を裂く。
反射的に地面を蹴る。
前へ。
ただそれだけを意識して、足を動かす。
一歩、二歩。
加速していく感覚が、素直に身体に伝わってくる。
風が顔に当たる。
視界の端で、隣の選手の影がわずかに後ろへ流れた。
横を見る余裕はない。
というより、見る必要もなかった。
ただ、ゴールだけを見て走る。
風が頬を掠めていく。
足が地面を踏むたびに、一定のリズムが身体に伝わる。
ゴールテープが近づいてきて、最後に一歩踏み込む。
そのままラインを抜けて、少し先で足を止めた。
「はぁ……」
ゴールラインを踏み越え、自然と足を緩める。
少し遅れて、背後から足音が追いついてくる。
「おー、晴人!いい感じじゃん!」
陸の声が飛んできて、そっちを見る。
手を振りながら、こっちに向かってきていた。
「何位だったんだ?」
「さぁ。二位か三位くらいじゃないか?」
「惜しいなー!もうちょいだったろ!」
「いや、別にそこまで本気じゃないし」
肩で息を整えながら、水筒の水を一口飲む。
冷たい感触が、喉を通っていった。
グラウンドでは、すでに次の競技の準備が始まっていた。
笛の音と、また新しいざわめきが広がっていく。
その中に混じりながら、俺は一度だけ空を見上げた。
変わらない青空。
けれど、どこかやわらかくなった光。
――体育祭は、まだ始まったばかりだ。
◇ ◇ ◇
いくつかの競技が進み、グラウンドの空気もすっかり温まってきていた。
応援の声は途切れることなく続いていて、どの競技でも歓声や笑い声が上がっている。
そんな中、次の競技のアナウンスが流れた。
「次は、借り物競争でーす!」
どこか楽しげな声に、周囲が少しだけざわつく。
「お、来たな」
隣で陸がにやりと笑った。
「借り物競争って、地味に面白いよね」
「お題次第だけどな」
そんなことを言いながら、なんとなくスタート地点の方へ視線を向ける。
そこに、見慣れた姿があった。
――零花。
整列している生徒達の中でも、どこか静かに佇んでいる。
騒がしさに紛れることなく、ただそこに立っているだけなのに、不思議と目に入る。
「零花先輩、出るんだ」
美咲が少し驚いたように言った。
「借り物なら、まぁ無難だよな」
陸が頷く。
やがて、スタートの合図がかかった。
「位置についてー!」
数人の生徒が横一列に並ぶ。
その中にいる零花は、周囲と同じように構えていた。
――パンッ!
合図と同時に、全員が一斉に走り出す。
スタートから少し先に置かれた紙を、それぞれが掴み取る。
零花も、その一枚を手に取った。
その瞬間、視線がわずかに動いた。
――迷う様子が、なかった。
普通なら、お題を確認して、周囲を見渡して、少しは考えるはずだ。
けれど零花は、紙を見た次の瞬間には、すでに顔を上げていた。
まるで、最初から決まっていたみたいに。
その一瞬、こちらの方を見たような気がした。
「……え?」
思わず声が漏れる。
ほんの一瞬。
けれど、その視線はすぐに外れた。
零花は何事もなかったかのように方向を変え、そのまま走り出す。
向かった先にいたのは、クラスでもあまり目立たない女子生徒だった。
特別仲がいいわけでもない。
少なくとも、零花が普段関わっている印象はない相手。
「すみません、少しだけお借りしてもいいですか」
落ち着いた声が、風に乗ってかすかに届く。
声をかけられた生徒は一瞬驚いたように目を丸くして、それから慌てて頷いた。
「え、あ、うん!」
二人で並んで走り出す。
迷いも、慌てる様子もない。
そのままゴールへと向かい、問題なくテープを切った。
周囲から拍手が上がる。
特に変わった様子もなく、競技はそのまま次へと移っていった。
「普通だったな」
陸の声が、すぐ隣で聞こえる。
「うん、特に何もなかったね」
美咲も気軽に頷いた。
――普通、か。
視線をスタート地点の方へ戻す。
さっきの一瞬が、頭の中に引っかかっていた。
迷いがなかったこと。
そして、あの視線。
まるで――俺を確認したみたいな。
「……いや、考えすぎか」
小さく息を吐く。
あれだけ人がいれば、たまたま目が合うこともある。
それに、借りる相手だって、偶然近くにいただけかもしれない。
それ以上、深く考える理由はなかった。
◇ ◇ ◇
昼休み。
グラウンドの端にシートを広げて、俺と陸と美咲は並んで座っていた。
周囲でもあちこちで同じように弁当を広げていて、ざわざわとした賑やかな空気が広がっている。
「いやー、午前中だけでも結構疲れたな」
陸が大げさに肩を回しながら言う。
「まだ半分も終わってないけどね」
美咲が呆れたように笑う。
「いや、もう俺の中ではクライマックス終わったから」
「どこがだよ」
そんな軽口を交わしながら、弁当の蓋を開ける。
湯気の残るおかずから、ほんのりとした匂いが立ち上った。
こういう時間は、なんだかんだで嫌いじゃない。
「そういえばさ、晴人の走り見てたよ」
ふいに、美咲がそんなことを言った。
「え?」
「普通に速かったじゃん。ちょっと意外だったかも」
「失礼だな」
「いやいや、なんかこう……やる気なさそうだからさ」
「まぁ、間違ってはないけど」
苦笑しながら箸を動かす。
そのとき。
「――お隣、よろしいかしら」
静かな声が、すぐ近くで聞こえた。
顔を上げると、そこに立っていたのは――零花だった。
「零花先輩!」
美咲がぱっと表情を明るくする。
「どうぞどうぞ!こっち空いてますよ!」
「ありがとう」
零花は小さく微笑んで、俺達の隣に腰を下ろした。
いつも通りの落ち着いた仕草。
けれど、こうして同じ場所で昼を食べるのは、少しだけ新鮮だった。
「晴人君の走り、見ていたわ」
座るなり、零花がそう言った。
不意打ちみたいなタイミングに、少しだけ手が止まる。
「そうなのか?」
「ええ」
静かに頷く。
「思っていたよりも、ずっと速かったわ」
「なんか今日ずっとそれ言われるな」
苦笑しながら返すと、零花はほんのわずかに首を傾げた。
「そう?」
「ああ。まぁ、そこそこ走れるだけだよ」
「……そうね」
短い返事。
それ以上、何かを続けるわけでもなく、零花は箸を手に取った。
「そういえば、零花先輩の借り物競争、見てましたよ!」
美咲が思い出したように声を上げる。
「すごい落ち着いてましたよね!」
「そうだったかしら」
「うん!なんか全然慌ててなかったし」
その言葉に、零花は少しだけ考えるように視線を落とした。
「……迷う必要がなかっただけよ」
「迷う必要がないって……お題見てすぐ決めたのか?」
「ええ」
零花が当たり前のように頷く。
「書かれていたものを確認して、該当する人を探しただけ」
言っていること自体は、別におかしくない。
借り物競争なんだから、そういうものだ。
――けど。
「そんなすぐ分かるもんか?」
普通は、少しくらい考えるものじゃないのか。
誰にするか迷ったり、近くの人に声をかけたり。
「条件に合う人は限られているもの」
「条件?」
美咲が首を傾げる。
「うん?借り物って“人”だったんですか?」
「ええ。“ある条件を満たす人”と書かれていたわ」
そこまでは普通だ。
借り物競争ならよくある内容。
「じゃあ、その人を探したってことですよね?」
「そうね」
零花は小さく頷く。
「見れば分かるものだから」
その言い方に、ほんのわずかに引っかかる。
「見ればって……そんなはっきり分かる条件だったのか?」
俺が問いかけると、零花は一瞬だけこちらを見た。
その視線は、いつもと変わらないはずなのに。
「ええ。少なくとも、私には分かるものだったわ」
「へぇー……」
美咲はあまり深く気にしていない様子で頷いている。
「じゃあ運がよかったんですね!」
「そうね」
零花は微笑んだ。
けれど、その笑みはどこか淡くて、少しだけ距離を感じるものだった。
会話はそのまま別の話題へと移っていく。
午後の競技の話や、どの種目が盛り上がりそうかとか。
さっきまでと同じような、他愛のないやりとり。
その中に混じりながら、俺は一度だけ、零花の方へ視線を向けた。
変わらない表情。
落ち着いた様子で、普通に会話している。
――ただ、それだけのはずなのに。
さっきの言葉だけが、妙に残っていた。
“見れば分かる”。
そんな簡単なものだっただろうか。
――いや。
「……考えすぎか」
小さく呟いて、視線を弁当に戻す。
昼休みのざわめきが、また耳に戻ってきた。
◇ ◇ ◇
昼休みが終わり、再び競技が始まる。
グラウンドには、さっき以上の熱気が戻ってきていた。
日差しも少しだけ強くなっていて、立っているだけでもじんわりと汗が滲む。
「よっしゃー!次、俺の出番だ!」
陸が拳を握りしめて立ち上がる。
「気合い入りすぎでしょ」
「当たり前だろ!こういうのは全力で楽しんだもん勝ちなんだよ!」
妙に説得力のあることを言いながら、肩を回している。
「何出るんだっけ?」
「騎馬戦!」
「うわ、似合うね」
「だろ?」
ドヤ顔で頷く陸に、思わず苦笑が漏れる。
「絶対大将やるからな。見とけよ!」
「はいはい、頑張って」
軽く手を振って送り出す。
陸はそのまま仲間のところへ走っていき、すぐにわいわいと輪の中に溶け込んでいった。
その様子を眺めながら、小さく息を吐く。
「ほんと、元気だよね」
隣で美咲が笑う。
「まぁ、ああいうの嫌いじゃないだろ、あいつ」
「うん、見てて楽しいし」
グラウンド中央では、すでに騎馬が組まれ始めていた。
砂煙が軽く舞い上がり、笛の音が鋭く響く。
「お、始まるよ」
美咲が身を乗り出す。
合図と同時に、騎馬同士が一斉に動き出した。
陸のいるチームは、やけに勢いがある。
中央に突っ込んでいって、そのまま他の騎馬にぶつかっていく。
「ちょ、危ない危ない!」
「突っ込みすぎだろ……」
見ているこっちがヒヤッとするような動きだった。
それでも陸は、上に乗ったまま器用にバランスを取りながら、相手の帽子を狙っている。
「いけー!陸ー!」
美咲が大きな声で応援する。
その声が届いたのかは分からないが、次の瞬間、陸が勢いよく手を伸ばした。
――ぱしっ。
相手の帽子を掴み、そのまま引き抜く。
「おおっ!」
思わず声が出た。
そのまま騎馬が崩れないように体勢を立て直し、陸は帽子を高く掲げる。
「っしゃあああ!」
遠くからでも分かるくらいのガッツポーズ。
「やるじゃん」
「ね!すごいすごい!」
美咲も嬉しそうに手を叩いている。
騎馬戦が終わり、陸がこちらへ戻ってくる。
「どうだった!?」
息を弾ませながら、満面の笑みで聞いてきた。
「普通にすごかったな」
「だろ!?」
「ちょっとかっこよかったよ」
「ちょっとってなんだよ!」
そんなやりとりに、また笑いがこぼれる。
騒がしくて、単純で、分かりやすい盛り上がり。
――こういう時間は、やっぱり悪くない。
「次は美咲だっけ?」
「うん、玉入れ」
「一番平和なやつだな」
「失礼だなー!これでも真剣にやるんだからね!」
ぷんすかと頬を膨らませながらも、どこか楽しそうだ。
「いっぱい入れてくるから見ててよ!」
「はいはい」
美咲も立ち上がり、軽く手を振ってグラウンドへ向かう。
その背中を見送りながら、俺は一度だけ空を見上げた。
変わらない青空。
響く歓声と、鳴り続ける笛の音。
その賑やかさの中で、俺はただ、流れる時間に身を任せていた。
◇ ◇ ◇
午後の競技が進み、グラウンドの熱気はさらに高まっていた。
日差しは少しだけ傾き始めているが、それでもまだ十分に強い。
砂の上に立っているだけで、じんわりと体力が削られていくのが分かる。
いくつかの種目が終わり、プログラムも後半に差し掛かっていた。
「次、クラス対抗リレーでーす!」
アナウンスの声が響いた瞬間、周囲の空気が一気に変わる。
「来たな……!」
陸が小さく呟く。
さっきまでとは違う、どこか緊張感を含んだざわめきが広がっていく。
リレーは体育祭の中でも、特に盛り上がる種目だ。
各クラスの代表が集まり始め、バトンの受け渡しの確認や軽い打ち合わせが行われている。
そんな中。
「おい、ちょっと待てって!」
どこか焦った声が上がった。
視線を向けると、リレーのメンバーが集まっている場所で、数人が慌ただしく動いている。
「どうした?」
陸が眉をひそめながら、そっちへ歩み寄る。
俺と美咲も、自然とその後を追った。
「いや、あいつ……足やったっぽくてさ」
声をかけられた男子が、困ったように言う。
その先には、しゃがみ込んで足首を押さえている生徒の姿があった。
顔をしかめていて、明らかに普通じゃない。
「マジかよ……」
陸が低く呟く。
「ちょっとさっきの競技でひねったみたいで……走れそうにないって」
「代わり、どうすんだよ」
「それを今探してるとこ」
空気が一気に重くなる。
クラス対抗リレーは、ただの競技じゃない。
ここで勝つかどうかで、雰囲気が大きく変わる。
誰もが簡単には引き受けられない状況だった。
「誰か、走れるやついないのか?」
焦り混じりの声が飛ぶ。
けれど、すぐに名乗り出る者はいない。
そのとき。
「――いるだろ」
陸が、ぽつりと呟いた。
その視線が、こちらに向く。
「は?」
嫌な予感がした。
「晴人、お前いけるだろ」
即座に指を差される。
「いや、ちょっと待て」
「さっきの100メートル見てたけど、普通に走れてたじゃねーか」
「いや、あれとこれじゃ――」
「距離が伸びるだけだろ。いけるいける」
軽い。あまりに軽すぎる。
「無理に決まってるだろ。リレーなんてやったことないぞ」
「バトン渡して走るだけだろ?」
「それが難しいんだろ……」
ため息混じりに返す。
けれど、周囲の視線が少しずつこちらに集まってきているのを感じた。
「……頼むよ」
さっきの男子が、申し訳なさそうに言う。
「このままだと人数足りなくて失格になるし……」
「それは……」
言葉に詰まる。
失格、という言葉が妙に重く響いた。
断れば、それで終わる。
でも、引き受ければ――確実に面倒なことになる。
「晴人なら大丈夫だって!なんとかなる!」
陸が、いつもの調子で背中を軽く叩く。
根拠はないくせに、やけに自信満々な声。
その軽さに、思わず小さく息を吐いた。
――まぁ、いいか。
「……分かったよ」
「ほんとか!?助かる!」
「無理すんなよ、晴人!」
周囲から安堵の声が上がる。
その中で、陸だけが満足そうに笑っていた。
「よし、決まりだな!」
「お前な……」
文句の一つでも言いたかったが、もう遅い。
話は完全にまとまってしまっていた。
手渡されたバトンを、軽く握る。
思ったよりも軽い。
けれど、その分だけ責任が乗っているような気がした。
グラウンドの向こうでは、すでに他のクラスの準備が進んでいる。
ざわめきが、少しずつ大きくなる。
――やるしかない、か。
◇ ◇ ◇
スタート地点から少し離れた位置で、俺はバトンを握っていた。
手のひらに収まるその軽さが、妙に意識に残る。
軽いはずなのに、どこか落ち着かない。
「晴人、アンカーだからな!」
陸の声が飛んでくる。
「分かってるって」
軽く手を上げて応える。
結局、俺は最後――アンカーに回された。
気づけばそういう流れになっていて、断るタイミングもなかった。
視線を前に向ける。
トラックの向こうでは、すでに第一走者たちがスタートラインに並んでいた。
ざわめきが少しずつ膨らんでいく。
――始まる。
ピストルの音が鳴り響いた。
各クラスの第一走者が一斉に飛び出す。
歓声が一気に大きくなり、グラウンド全体が揺れるようだった。
バトンが次々と繋がれていく。
「いいぞ!そのまま行け!」
「抜ける抜ける!」
叫び声があちこちから飛ぶ。
俺はその流れを、ただじっと見ていた。
二走、三走――
順位は中盤あたり。
悪くはないが、前との差はある。
やがて、次の走者がこちらへ向かってくる。
バトンを持って、全力で走ってくる姿。
「晴人!」
声が届く。
足を一歩踏み出す。
タイミングを合わせるように、並走する。
「行け!」
差し出されたバトンを、受け取りそのまま、一気に前へ。
地面を蹴る。
風が一気に顔に当たった。
視界の端で、他の走者たちの姿が揺れる。
前に、二人。
距離は、それほど遠くない。
ただ、簡単に詰まるほどでもない。
「いけええええ!」
どこかで、陸の声が聞こえた気がした。
呼吸を整えながら、足を動かす。
一歩、一歩。
無理に力を入れず、ただ前へ。
少しずつ、距離が縮まっていく。
前を走る一人の背中が、じわじわと近づく。
――届く。
タイミングを見て、外側へ出る。
そのまま、一気に並ぶ。
一瞬だけ、相手と視線が交わった。
次の瞬間には、前へ出ていた。
「よしっ……!」
そのまま抜き去る。
残るは、あと一人。
先頭の背中は、はっきりと見えている。
けれど――遠い。
差は確実に縮まっている。
それでも、あと一歩が届かない。
ゴールが、近づいてくる。
白いテープが、目の前に迫る。
最後に一歩、踏み込み、そのままラインを抜けた。
勢いのまま数歩進み、足を止める。
「はぁ……っ」
息が荒くなる。
肺が熱を持って、呼吸が少しだけ重い。
振り返ると、すぐ後ろに抜いた相手がゴールしていた。
その向こうで、先にテープを切った走者が、仲間に囲まれている。
「惜しいいいいい!」
「あとちょっとだった!」
歓声と悔しさが混ざった声が飛び交う。
その中に、陸と美咲の姿が見えた。
「晴人!ナイス!」
「めっちゃよかったよ!」
駆け寄ってくる二人に、軽く手を上げて応える。
「まぁ、こんなもんだろ」
肩で息をしながら、そう返す。
勝てなかった悔しさがないわけじゃない。
けど、それ以上に、妙な達成感の方が大きかった。
視線を少しだけ横に向ける。
少し離れた場所に、零花の姿があった。
こちらを見ている。
騒がしい周囲とは違って、静かに。
◇ ◇ ◇
歓声は、しばらくの間、収まる気配がなかった。
リレーの余韻がそのままグラウンドに残っていて、あちこちで笑い声や悔しがる声が混ざり合っている。
「いやー、惜しかったな!」
陸が肩を叩いてくる。
「あとちょっとで追いつけたろ!」
「まぁな」
まだ少し荒い呼吸を整えながら、適当に頷く。
「でもさ、最後の抜き方よかったよ!見ててめっちゃ盛り上がった!」
美咲も嬉しそうに言う。
「そうか?」
「うん、かっこよかった!」
素直にそう言われると、少しだけ照れくさい。
「まぁ、たまたまだよ」
「またまた~」
軽口を交わしながら、肩の力が抜けていく。
悔しさもあるはずなのに、不思議とそれだけじゃない。
走り切った後の、あの独特の感覚が、まだ体の中に残っていた。
ふと、視線を上げる。
グラウンドの向こうでは、まだ他のクラスが集まって騒いでいる。
その中に混じるように、零花の姿が見えた。
少し離れた場所で、静かに立っている。
騒がしさから一歩だけ引いた位置。
それでも、視線はこちらに向いていた。
零花はゆっくりと歩み寄ってきた。
「お疲れ様、晴人君」
「おう」
「惜しかったわね」
そう言いながらも、その声音には悔しさの色はほとんどなかった。
「まぁな」
「でも、十分だったと思うわ」
少しだけ、間を置いて続ける。
「流れは、綺麗だった」
「流れ?」
「ええ」
零花は小さく頷く。
「バトンの受け渡しも、その後の加速も。無駄がなかったもの」
静かに、淡々と。
まるで何かを確認するみたいに、言葉を選んでいる。
「そんなとこ見てたのかよ」
苦笑しながら返す。
普通なら、“惜しかった”とか、“あと少しだった”とか、そういう話になるはずだ。
けれど零花の言葉は、どこか違う場所を見ているようだった。
「ええ」
それだけ答えて、零花は視線を少しだけ横に逸らした。
歓声はまだ続いている。
誰かが笑っていて、誰かが悔しがっている。
その中で、零花だけが少しだけ静かだった。
「でもさー、ほんと惜しかったですよね!あとちょっとだったのにー!」
「そうだな、もう一歩だったな」
美咲と陸のやりとりに、零花は一瞬だけ視線を戻した。
「……そうね」
短く、そう言う。
けれど、その言葉はどこか軽くて、重さがなかった。
勝敗に対する実感が、少しだけ薄いような。
そんな違和感が、ほんのわずかに残る。
小さく息を吐き、周囲のざわめきに、意識を戻す。
歓声は、少しずつ落ち着いていく。
気づかないうちに、さっきまでの熱が引いていた。
◇ ◇ ◇
体育祭が終わる頃には、空はすっかり傾いていた。
校門を出て、いつもの帰り道を歩く。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、周囲は静かだった。
隣には、零花がいる。
「……疲れたな」
「……そうね」
歩く足取りはいつもと変わらないのに、体の奥にだけ、さっきの疲労が残っている。
「最後のリレーが効いてるな」
「でも、凄かったわよ」
軽く肩を回しながら言うと、零花はすぐにそう返した。
「そうか?」
「ええ。最後まで、綺麗だった」
――やっぱり、その言い方か。
昼のときも、似たようなことを言っていた気がする。
勝ったとか、惜しかったとか、そういう話じゃない。
どこか別のものを見ているみたいな――そんな言い方。
「零花って、やっぱ変なとこ見てるよな」
「そうかしら?」
零花は、わずかに首を傾げるだけだった。
「普通さ、“惜しかった”とかだろ?」
「……そうね」
小さく頷くが、その声にはどこか実感が薄い。
ほんの一瞬だけ、間があった。
そのあとで、零花はぽつりと続ける。
「……でも、やっぱり晴人君は昔と変わらなかったわ」
その言葉に、少しだけ引っかかるものを感じた。
「昔?」
「ええ」
「走るのが好きで、前ばかり見ていて」
「……そうだったか?」
自分でも、よく分からない。
言われてみれば、そんな気もするし、違う気もする。
はっきりと思い出せるほど、覚えているわけでもなかった。
「ええ」
迷いのない返事だった。
その言い方に、わずかな違和感が残る。
どうしてそこまで、言い切れるんだろう。
「人って成長しても、本質的には変わらないものなのよ」
ふいに、零花がそう続けた。
その横顔には、わずかに憂いが滲んでいた。
どこか遠くを見るような、静かな目。
まるで、その言葉を自分に重ねているようで――
それでいて、どこか他人事みたいでもあった。
「……まぁ、そういうもんかもな」
深く考えることもなく、そう返していた。
その横顔の意味を、ちゃんと考えようともせずに。
夕方の風が、静かに通り過ぎていく。
さっきまでの熱が、ゆっくりと遠ざかっていくみたいだった。
空は、少しずつ色を失っていく。
その変化に、特別な意味を見出すこともなく。
俺はただ、零花の隣を歩き続けていた。




