第9話「夏の終わり、何かを見過ごして」
登場人物
水無月 晴人
高校1年生。本作の主人公。どこにでもいる普通の高校生。
ある雨の日、かつての幼馴染・零花と再会する。
久しぶりの再会に戸惑いながらも、少しずつ彼女との距離を取り戻していく。
霧咲 零花
高校2年生。晴人の幼馴染。長い時を経て、再び彼の前に現れる。
落ち着いた雰囲気と大人びた美しさを持つ少女。
どこか謎めいた言動を見せることもあり、その内面は容易には掴めない。
高瀬 陸
晴人のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るくノリの良い性格で、遠慮なく距離を詰めてくるタイプ。
軽口を叩くことも多いが、いざという時には頼りになる存在。
桜井 美咲
晴人と陸のクラスメイトで、中学からの腐れ縁。
明るく人懐っこい性格で、誰とでもすぐに打ち解ける。
場の空気を和ませる一方で、ふとした瞬間に核心を突くこともある。
長かった夏休みが終わり、再びいつもの日常が戻ってきた。
照りつけるような日差しは幾分か和らぎ、朝の空気にはほんのわずかに涼しさが混じっている。
それでも、まだ残る夏の名残が、どこか名残惜しく感じられた。
「よー、晴人!」
昇降口で下駄箱の靴を取ろうとして背中を叩かれる。
振り返ると、そこには見慣れた顔があった。
「久しぶりだな、陸」
「久しぶりって言っても、せいぜい一ヶ月くらいだろ?」
「その一ヶ月が長いんだよ」
軽口を交わしていると、横から明るい声が割り込んできた。
「おはよー、晴人!陸も!」
美咲が、いつも通りの調子で手を振ってくる。
「二人とも、ちょっと焼けてない?夏って感じだねー」
「そりゃまあな。外出る機会も多かったし」
「美咲はあんまり変わってねーな」
「どういう意味よそれ!」
他愛のないやりとり。
それだけのはずなのに、不思議と少しだけ懐かしく感じる。
――夏休みが終わったのだと、改めて実感する瞬間だった。
◇ ◇ ◇
教室に足を踏み入れると、すでに何人かのクラスメイトが席についていた。
あちこちで交わされる会話はどれもどこか弾んでいて、
久しぶりに顔を合わせた高揚が、そのまま空気に滲んでいるようだった。
席へ向かいながら周囲を見渡すと、夏休みの思い出を語り合う声が自然と耳に入ってくる。
「うわ、マジで課題やってねぇ……」
「は?お前それ昨日何してたんだよ」
「いや、やろうとは思ってたんだよ?思ってただけで」
思わず小さく笑みがこぼれる。
どこにでもある、夏休み明けの光景。
それなのに、どこか少しだけ懐かしく感じるのは、
ついさっきまでの日常が、ほんのわずかに遠くなったからだろうか。
席に着くと、隣の陸が大きく伸びをした。
「はぁ……現実に引き戻された感じがするわ」
「わかる。もうちょっと休みたかったよねー」
前の席の美咲も、同意するように振り返る。
「二人とも、休み中は何してたんだ?」
「俺はまあ、適当に遊んでたな。あと部活もあったし」
「美咲は?」
「私はねー、家族で出かけたりとかかな。あと友達とも遊んだよ!」
「へぇ、いいじゃん」
他愛のない会話が続く。
特別なことは何もない。ただ、それが心地いい。
「晴人は?」
不意にそう聞かれて、一瞬だけ言葉に詰まる。
頭の中に浮かんだのは、夜空に広がる鮮やかな光。
打ち上がる花火と、その光に照らされていた横顔。
――零花。
「……俺は」
「零花先輩とどっか出かけたりしなかったの?」
美咲が、にやりとした顔で口を挟んだ。
ほんのわずかに間を置いてから、口を開く。
「まあ……祭りに、な」
「おいおいマジかよ!俺達も誘ってくれよな~」
「バカね~、お熱い二人の邪魔しちゃダメでしょ!」
「ちげぇよ、そんなんじゃねぇって」
軽口を叩き合いながら、自然と笑いがこぼれる。
いつもと変わらない、くだらないやりとり。
――それでも。
ふと、窓の外へ視線を向ける。
差し込む日差しは、どこか柔らかくなっていた。
あれほど強く感じていた夏の光は、ほんの少しだけ輪郭を緩めている。
同じ景色のはずなのに、どこか違って見えるのは――きっと、季節が変わり始めているからだ。
夏は、もう終わりに近づいている。
やがてホームルームが始まり、そのまま午前の授業へと移っていく。
久しぶりの授業は、思っていた以上に身体にこたえた。
黒板に書かれる文字を目で追いながらも、どこか意識が追いつかない。
休み明け特有の、あの感覚だ。
隣では陸が小さくあくびを噛み殺し、前の席の美咲もどこか気の抜けた様子で頬杖をついている。
教室のあちこちからも、似たような空気が漂っていた。
――夏休み明け。
それは、日常へと引き戻されるための、少しだけ重たい時間でもある。
そんな時間も、気づけば過ぎていく。
チャイムの音が鳴り、昼休みを告げた。
教室の空気が一気に緩み、あちこちで椅子を引く音が響く。
弁当を広げる者、購買へ向かう者、友人と集まる者――それぞれが思い思いに動き出す。
そんな中、教壇の前を通り過ぎようとした瞬間、担任に呼び止められた。
「ああ、晴人。ちょうどいい。このプリント、職員室前に届けてくれないか?」
差し出された紙束を見て、思わず顔をしかめる。
「はい?どうして俺なんですか?」
「まぁいいじゃないか。頼んだぞ」
軽く言い切られ、有無を言わせない調子で押し付けられる。
「……わかりましたよ」
小さくため息をつきながら、受け取ったプリントを手に、教室を後にする。
廊下には昼休み特有のざわめきが広がっていた。
あちこちで交わされる他愛のない会話や笑い声が、重なり合って耳に届く。
その中を抜けながら、軽くプリントを持ち直す。
職員室は二階だ。
自然と足は、階段へと向かっていた。
一段、また一段と階段を上っていくごとに、背後の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。
踊り場に差し掛かる頃には、さっきまでのざわめきも、どこか別の場所のもののように感じられる。
代わりに聞こえるのは、靴底が段差を踏む乾いた音だけだった。
そのとき、上の方から、もう一つの足音が重なる。
一定のリズムで、こちらへと近づいてくる気配。
何気なく視線を上げる。
視界に入ったその姿に、わずかに息を呑んだ。
――零花。
すれ違う、その直前。
思わず、声が零れる。
「零花…」
けれどその声に、すぐに反応はなかった。
互いの肩がすれ違い、そのまま通り過ぎる――はずだった。
「……あら、晴人君」
わずかに遅れて、声が届いた。
振り返ると零花は足を止め、こちらを見ていた。
その表情は、いつもと変わらない。
静かで、落ち着いていて、どこか整いすぎているくらいに。
けれどほんのわずかに、何かが噛み合っていないような気がした。
踊り場に立ったまま、零花と向き合う。
ほんの数歩の距離。手を伸ばせば届きそうなほど近いはずなのに、どこか現実感が薄い。
「どこにいくんだ?」
何気ない調子で問いかける。
けれど、その声は思っていたよりもわずかに乾いていた。
「晴人君こそ、どこに?」
間を置かず返ってくる声。
いつも通りの、落ち着いた声音。
「先生に頼まれてさ。これ、職員室まで」
手にしていたプリントを軽く持ち上げて見せる。
「そう」
短く、頷く。
それだけの、やりとり。
一瞬、言葉が途切れる。
会話が終わったわけでもないのに、続きが見つからないような、妙な間。
「零花は?」
埋めるように、問いを重ねる。
「……ええと」
わずかに、言葉が止まった。
ほんの一瞬、けれどそれが妙に引っかかる。
「……そうね。飲み物を買いに」
続いた言葉は、何事もなかったかのように自然だった。
「自販機か?」
「ええ」
それだけの会話。
特別なことは、何もない。
――はずなのに。
「……そうだ、放課後一緒に帰らないか?」
気を紛らわせるように、言葉を投げる。
「……ええ、いいわよ」
わずかな間を挟んで返ってくる声。
いつもと同じはずなのに、ほんの少しだけ遠く感じた。
「じゃあ、また後でな」
「……ええ、また」
軽く手を上げて、踵を返す。
そのまま階段を上りながら、無意識に振り返りそうになるのを、やめた。
背後では、零花の足音がゆっくりと遠ざかっていく。
下へ向かうその音と、上へ進む自分の足音が、どこか噛み合わないリズムで重なった。
ただ、それだけのことのはずなのに、胸の奥に残った違和感だけが、うまく消えてくれなかった。
◇ ◇ ◇
チャイムが鳴り、教室の空気がゆるやかに切り替わる。
放課後前のホームルーム。
けれど普段とは違い、どこか落ち着きのない空気が教室全体に漂っていた。
理由は、考えるまでもない。
机に肘をついたまま、俺はそのざわめきをぼんやりと聞いている。
「よーし、席につけー」
担任の声が教室に響く。
それでも、すぐに静かになることはない。
あちこちで交わされていた会話の余韻が、まだ教室の中に残っている。
「もうすぐ体育祭だろ?今日はその競技決めをやる」
その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
抑えていた何かが一気に弾けるように、教室中から声が上がる。
「マジか!」「何やる!?」
「リレー出たいんだけど!」
「綱引きは外せねぇだろ!」
椅子が引かれる音、机に身を乗り出す気配、笑い声。
さっきまでとは違う熱を帯びたざわめきが、一気に広がっていく。
その中心から少しだけ外れた場所で、俺は小さく息を吐いた。
手元に配られたプリントに目を落とす。
文字は視界に入っているのに、意味として頭に入ってこない。
――階段でのやり取りが、ふと脳裏をよぎる。
ほんの一瞬の、空白。
言葉が途切れた、あのわずかな間。
たったそれだけのことなのに、妙に意識に残っている。
「おい、晴人!」
肩を軽く叩かれ、意識が現実に引き戻される。
振り向くと、陸がいつもの調子でニヤついていた。
その変わらなさに、ほんの少しだけ安堵する。
「何出るか決めるぞ」
「晴人、リレーとか向いてそうじゃない?」
美咲が机越しに身を乗り出してくる。
その勢いに押されるように、プリントへと視線を戻す。
「いや、どうだろうな……」
曖昧に返しながら、指先で紙の端を軽く弾く。
リレー、障害物競走、借り物競走、騎馬戦――
並んだ文字列はどれも、体育祭らしい華やかさを持っている。
けれど、そのどれにも、強く惹かれるものはなかった。
「晴人、何出るんだよ?」
「んー……」
適当に目を走らせる。
「これでいいか」
指で示したのは、100メートル走。
余計なことを考える必要もなく、すぐに終わる種目。
「は?地味すぎだろ!」
即座に返ってくるツッコミに、少しだけ口元が緩む。
「いいんだよ、すぐ終わるし」
そう言いながら、ペンを走らせる。
迷いはなかった。
「もったいねーなぁ。お前そこそこ走れるだろ?」
陸の言葉に、わずかに肩をすくめる。
「別に競う気もないしな」
特別な理由があるわけでもない。
ただ、目立つことに興味がないだけだ。
「えー、絶対リレー出た方がいいって!」
美咲の明るく、まっすぐな声が重なる。
「勘弁してくれ」
軽く笑いながら、視線を逸らす。
そのまま、100メートル走の欄に自分の名前を書き込んだ。
ペン先が紙を滑る感触だけが、やけに現実的だった。
周囲では、まだ種目決めの声が飛び交っている。
笑い声と、少しの競争心と。
教室は完全に“体育祭前”の空気に染まっていた。
その中にいながら、俺はどこか一歩引いた場所にいるような感覚がした。
◇ ◇ ◇
校門を出てから、俺と零花はしばらく無言のまま歩いていた。
放課後の道は、昼間の喧騒が嘘みたいに落ち着いている。
遠くで部活の掛け声が聞こえるけど、それもどこか遠い。
自分とは関係のない場所の音みたいに感じられた。
西に傾いた日差しが、道の端に長い影を落としている。
隣を歩く零花との距離は、近すぎず遠すぎず。
「ホームルームで体育祭の話が出てさ」
なんとなく、沈黙を埋めるように口を開いた。
別に話したいことがあったわけじゃない。
ただ、このまま何も言わないのも落ち着かなかっただけだ。
「私のクラスでもあったわ」
「何に出るつもりなんだ?」
「……そうね」
零花は少しだけ視線を落とした。
歩く速さは変わらないまま、ほんの一瞬だけ間が空く。
「借り物競走にしようかと思っているわ」
「それだけか?」
思ったよりあっさりしていて、つい聞き返していた。
「……私、運動はあまり得意ではないの」
――そういえば。
ふと、昔のことを思い出そうとする。
零花は、昔からあまりはしゃぐタイプじゃなかった気がする。
外で遊んでても、いつも少し後ろにいて。
無理に前に出ることはなくて、俺の後ろをついてきていたような。
そんな記憶が、ぼんやりと浮かぶ。
でも、それが本当にそうだったのかは、はっきりしない。
思い出そうとすると、輪郭がぼやける。
確かにあったはずなのに、掴もうとするとすり抜けていくみたいな感覚。
「晴人君は何にでるの?」
不意に名前を呼ばれて、意識が戻る。
「俺は、100メートル走」
「……そう」
短い返事。
それだけで、会話は終わるかと思った。
「昔の晴人君は、走るのが得意だったわよね」
「そうだったか?」
自分では、そんな記憶はあまりない。
「……ええ。走る晴人君についていけなくて、私は後ろからついていってたわ」
その言い方はやけに自然だった。
まるで、そのときのことをはっきり見ているみたいに。
――そんなこと、あったか?
頭の中で、もう一度記憶を辿る。
けど、やっぱり曖昧だ。
誰かと走っていた気はする。
でも、それが零花だったのかどうか、確信が持てない。
「まぁ、いいか」
結局、深く考えるのはやめた。
思い出せないものは仕方ない。
零花は、それ以上何も言わなかった。
ただ、前を向いたまま歩いている。
少しだけ乾いた風がだ吹いた。
夏の暑さは残っているのに、どこか違う。
季節が変わり始めてるのが、なんとなく分かる。
その風に、零花の髪が揺れた。
「……もう、夏も終わりね」
零花が、ぽつりと呟いた。
吹き抜けた風に、その声が少しだけ溶けていく。
昼間の熱をまだ残しているはずなのに、どこか乾いた空気だった。
「ああ、なんで夏って終わるのが早いんだろうな」
深く考えたわけでもなく、思ったままを返す。
毎年同じことを思ってる気がするけど、理由なんて考えたことはない。
「……そうね」
ほんの少しだけ間があってから、零花が続けた。
「……気づいたときには、もう過ぎているものだから」
静かな声だった。
いつもと同じ調子のはずなのに、その言葉だけが妙に耳に残る。
――気づいたときには、もう過ぎている。
頭の中で、ゆっくりと言葉をなぞる。
言っていることは、別におかしくない。
時間なんて、そんなものだ。
「まぁ、そんなもんか」
軽く流すように返す。
深く掘り下げるような話でもない。
そう、自分に言い聞かせるように。
零花は、それ以上何も言わなかった。
見上げると、空は少しずつ色を変え始めていた。
淡く染まり始めた夕焼けが、街全体をやわらかく包み込んでいる。
いつもの帰り道――のはずなのに。
さっきの言葉だけが、なぜか心のどこかに残っている。
今こうしている間にも、何かを見過ごしているのかもしれない。
気づくこともなく。
その時間の中を、ただ静かに。




