W&WM 第四章【長き霖雨の世界】
「はぁっ…はぁっ…」
蛍月はヴェレの服を頭から被り、雨の中を歩いていた。
世界を渡った時、上下が反転し、幸いにもヴェレが蛍月の上に覆い被さる形となった。握りしめていた服は、ヴェレの変異によって破れ、着ることは出来ない。
雨が全身に当たり続け、体温が奪われる。世界渡りを行ったことで、蛍月の身体は、半分以上が硝子のように透明になっていた。
「――っ!」
ぬかるみに足を取られ、少女は倒れた。何度も起き上がっては、不安定な地面を一歩ずつ、確かめながら進む。
手を腕に絡ませ、隣を歩いてくれる者はいない。未知の世界、足元の悪い状況では、ほとんど移動していないのと同じだった。
降り続ける雨に、匂いも音も掻き消され、方向感覚が失われる。
もし、今立ち止まってしまえば――この旅が終わってしまう。恐怖が、盲目の少女の胸に、じわりと染み込んでいく。
少女の後ろを、ヴェレが身体を捩りながら、手足だった部位を動かして付いてくる。
全身を地面に擦りながら進み、彼女の後ろには剥がれ落ちた肉片が跡を残した。
***
二人はどれだけ歩いただろうか。蛍月にとっては、ヴェレとの、これまでの旅以上の時間に感じていた。
「っく、はあ…はあ…」
〈何か…誰か……〉
蛍月が首を曲げ、肩越しに後ろの音を確認する。雨音の中に、這うような、ずるりとした音が鳴る。
〈後ろにずっと付いてくるあの音は…一体なんなの〉
背後に追従する塊から、触手が伸び、少女の鈴に触れる。
「――あ……ヴェレ!」
〈今…ヴェレの事を忘れていた? 何が起きているの…? こわいよ、ヴェレ〉
止まってはならない、ただそれだけを考えながら、蛍月は歩き続けた。
ヴェレの身体が擦れる音だけが――
たった一人ではないと、蛍月の足を動かした。
「ヴェレ、大丈夫だよ。ちゃんと付いてきてね」
すると微かにだが、雨の中に熱を感じた。
「何か…何かある」
少女が腕を動かしながら、闇の中を探る。何か、金属が打ちつけられる音。
その音を辿ると、壁に手が触れた。
「あ…あ」
消して、見失ってはいけない。この手に触れる感触が、この世界に初めて人がいる可能性を示した。
壁伝いに歩いていくと、扉らしき箇所を見つけた。
把手に体重をかけ、倒れ込むように扉の中へ飛び込んだ。
「なんだ?! お、おい!大丈夫か!」
暖かい熱、人の声。相手が何者かはどうでも良かった。緊張が解け、今にも意識を失いそうになるが、少女は立ち上がる。
駆け寄ってきた音は、重く、声は低い男のものだった。
「おい、後ろのはなんだ?!」
開いた扉の外から、ヴェレが入り込む。肥大化した身体は、戸の枠に破片を削ぎ落とされる。
「――大丈夫っ! 私の、旅の仲間」
蛍月が壁にもたれながら、男の声に答える。
「とりあえず、濡れたままはまずい。何か拭くものを取ってくる」
男の足音が、どたどたと慌てて奥に消えていった。
***
「それで、あんた……とその、仲間の名前を聞いてもいいか?」
蛍月が渡された布で身体を拭いていると、男の声が問いかけてきた。
「私は……魔女」
「魔女……だと?」
男が驚いた声をあげる。それは魔女が何なのか、存在を知っているような反応だった。
「なら、あんたは不思議な力を使えるのか?」
「うん…あ、ああそうよ」
「――俺はガルト、ここは俺の工房だ。そしてこの世界は、忘却の雨が降り続け、長く当たっていると、大切な人や目的を忘れてしまうんだ」
「どうだ? 何か覚えているか?」
「あ、ああ」
〈なんて危険で、悲しい世界なの……。それなら早く移動しないと〉
〈でも、もうこれ以上歩けない…少し休まないと〉
蛍月が鈍く重い意識の中で、思案していると、背後でヴェレが動く気配がした。
ヴェレの身体が蠢き、空気を吸い込む。何かが詰まっているように、くぐもった音が内側で響く。
〈…魔法を使おうとしているの?〉
「取引しない?」
蛍月が、ヴェレを真似て虚勢を張る。
「…取引?」
「私の魔法は、相手の願いを叶えることができるの」
〈ヴェレの、私たちの旅を終わらせはしない〉
「あなたの願いを叶える代わりに、『この世界についての知識』を教えてもらう。あと、『しばらくの間ここで休ませてほしい』の」
蛍月の突然の提案に、ガルトは困惑した様子を見せた。
「願い……俺の…」
ガルトが考え込むように喉を鳴らす。
「ああ…やってみてくれ。俺の願いが叶うのなら、それくらい安いものだ」
ガルトが言い終わるや否や、部屋の空気が鋭く張り詰める。
Prētium Absolūtumは、ヴェレの意思さえあれば、即座に発動する。
工房の中が、眩いばかりのエメラルド色の光に満たされる。
その光は窓から溢れ出し、白く濃い霧を切り裂いて、雨の世界を照らした。
――光が収束し、魔法が完了する。
対価として提示した知識は、どうやら蛍月には共有されないようだった。
「な、なんだ……何かの装置、その知識が頭に貼りついたみたいだ」
「これで…!」
そう声を上げたガルトが、突然動きを止め、手のひらを額に当てる。
「これで、俺は……誰を……?」
ガルトが俯いていた顔を上げ、動揺した表情で蛍月に近づく。
「おい! 何かおかしい…俺は…誰かを助けたかったんだ。だが、思い出せない」
「わ、分からない…なんで…」
蛍月がたじろぎ、後ろに下がる。
「俺から、何を奪ったんだ!」
憤慨したガルトが、声を荒げながら魔女に詰め寄る。
「あ…あ、ごめんなさい!」
蛍月が身を翻し、工房の扉から外に逃げ出す。その後ろをヴェレが這いずりながら追う。
工房を出てすぐ、蛍月は体制を崩して転倒する。
ガルトは工房から追っては来なかった。
「ヴェレ……なんで? あの人から、何を奪ったの?」
彼女は答えない。答えることが出来ない。
同意の原則は、魔法の使用者であるヴェレと、その対象者双方の同意があった場合のみ適用される。
〈……この世界には、もう居られない〉
「行くよ……」
蛍月がヴェレに触れ、角が白く光る。
小さく弱い光は、霧に飲み込まれながらも、二人の周囲を歪める。
〈ねえ、また声を聞かせて。見えるものを教えてよ、ヴェレ…〉
世界が遠く流れていく。闇の中で、少女の放つか細い光が、夜空に唯一つの星のように瞬いた。
『GateFragments』
第四巻『World and World Magic』
——記雨編——完




