第一章 第七話 ただいま ─ 二人だけの宇宙
第十四節 『おかえり』
⸻
星恋の秘湯から戻った頃には、
夜はすっかり深くなっていた。
見上げれば、
無数の星が静かに瞬いている。
けれど今夜は、
あの秘湯で見た流れ星の余韻が、
まだ胸の奥へ残っていた。
⸻
ミレイは、隣にいる。
長い水色の髪を夜風に揺らしながら。
時折こちらを見るたび、
少し照れたように微笑む。
そのたびに、
胸が温かくなる。
⸻
目の前には、
見慣れたミレイの家があった。
窓から漏れる柔らかな灯り。
夜空の下で静かに佇むその姿は、
どこか安心する温もりを纏っている。
⸻
ぼくは、その家を見上げながら言う。
⸻
「ミレイ。」
⸻
少しだけ緊張した声。
⸻
「ちょっと考えたことがあるんだ。」
⸻
ミレイは、その言葉を聞いた瞬間、
静かに足を止めた。
青い瞳がこちらを見る。
夜風が、
長い水色の髪をふわりと揺らした。
⸻
「……考えたこと?」
⸻
小さな声。
けれど、
その声には優しさがあった。
ぼくの言葉を、
ちゃんと受け止めようとしてくれている優しさ。
⸻
ミレイは胸元で指を重ねる。
⸻
「そんな顔するってことは……」
⸻
少し頬を赤く染めながら、
それでも目を逸らさない。
⸻
「きっと、大事なことなんだよね。」
⸻
静かな夜。
二人の間に流れる空気だけが、
少しずつ熱を帯びていく。
⸻
ミレイは、小さく微笑んだ。
⸻
「……聞かせて?」
⸻
ぼくは小さく息を吸う。
そして、
胸の奥にあった願いを口にした。
⸻
「今日は帰らずに、
ミレイの家で一緒に過ごしたい。」
⸻
その瞬間。
ミレイの青い瞳が少しだけ大きくなる。
⸻
「……今日は、帰らずに。」
⸻
小さく繰り返す。
けれど、
困った顔はしなかった。
⸻
むしろ。
⸻
どこか安心したみたいに、
柔らかく目を細めた。
⸻
「なんとなく。」
⸻
少し照れたように笑う。
⸻
「そう言ってくれる気がしてた。」
⸻
星恋の秘湯。
流れ星。
抱きしめた温もり。
重ねた唇。
⸻
今日という一日は、
あまりにも特別だった。
⸻
ミレイは、一歩だけこちらへ近づく。
⸻
「……うん。」
⸻
小さく頷く。
⸻
「今日は、一緒にいてほしい。」
⸻
そして。
少しだけ視線を逸らしたあと、
もう一度こちらを見る。
⸻
「だから――」
⸻
優しく微笑む。
⸻
「おかえり。」
⸻
その言葉に、
胸が熱くなる。
⸻
「今日は、ちゃんと“うち”に帰ってきて。」
⸻
ぼくは思わず笑ってしまう。
緊張していた心が、
少しだけ軽くなる。
⸻
玄関の前。
灯りの下。
⸻
「おじゃまします……」
⸻
そこまで言いかけて、
ふと立ち止まる。
⸻
「いや。」
⸻
ミレイを見る。
⸻
「ただいま……かな。」
⸻
ミレイは一瞬きょとんとしたあと、
ふわっと笑った。
⸻
「……ふふっ。」
⸻
長い水色の髪が肩で揺れる。
⸻
「どっちでも嬉しいけど。」
⸻
玄関の扉を開きながら、
振り返る。
⸻
「今日は、“ただいま”の方が好きかも。」
⸻
そして。
⸻
「……おかえり。」
⸻
その声は、
外の星空よりも温かかった。
⸻
ぼくは家の中へ足を踏み入れる。
柔らかな間接照明。
水色と白を基調にした落ち着いた空間。
星の形をした小さなライト。
ガラス細工。
アロマの優しい香り。
⸻
どこか幻想的なのに、
不思議と落ち着く。
⸻
まるで、
ミレイそのものみたいな部屋だった。
⸻
「……なんか。」
⸻
ミレイは少し照れながら笑う。
⸻
「部屋見られるの、
ちょっと恥ずかしい。」
⸻
ぼくは思わず笑う。
⸻
「ミレイらしい部屋だと思った。」
⸻
その言葉に、
ミレイは少しだけ目を丸くする。
⸻
そして。
嬉しそうに微笑んだ。
⸻
「……そっか。」
⸻
青い瞳が優しく細くなる。
⸻
「なら、よかった。」
⸻
窓の外では、
まだ遠くに流れ星が見えていた。
⸻
けれど今は、
星空よりも。
秘湯よりも。
⸻
この場所が、
少しだけ特別に感じていた。
⸻
帰る場所。
⸻
その言葉が、
胸の奥で静かに響いていた。
⸻
第十五節 『繋ぐもの』
⸻
ミレイに案内され、
ぼくはリビングのソファへ腰を下ろした。
柔らかなクッション。
静かな音楽。
星形ライトの淡い光。
窓の向こうには、
まだ流れ星がゆっくりと夜空を流れている。
⸻
秘湯で過ごした時間が夢だったように思えるほど、
ここには穏やかな時間が流れていた。
⸻
「何か飲む?」
⸻
ミレイがそう言って微笑む。
⸻
「じゃあ、同じもの。」
⸻
そう答えると、
ミレイは嬉しそうに笑った。
⸻
「うん。」
⸻
しばらくして、
温かな飲み物を両手に戻ってくる。
そして――
ぼくの隣へ腰を下ろした。
⸻
最初は少しだけ空いていた距離。
けれど。
⸻
気づけば、
肩が触れるくらいまで近づいていた。
⸻
ミレイは少し照れながら笑う。
⸻
「……なんか。」
⸻
青い瞳がこちらを見る。
⸻
「外にいた時よりドキドキするかも。」
⸻
ぼくは思わず笑う。
⸻
「同じこと考えてた。」
⸻
ミレイも笑った。
⸻
その笑顔を見ているだけで、
胸が温かくなる。
⸻
やがて。
⸻
ミレイは静かに肩を預けてきた。
⸻
長い水色の髪が、
ぼくの肩へさらりと流れる。
優しい香り。
温もり。
小さな重み。
⸻
その全部が、
「ここにいる」
と教えてくれる。
⸻
「……こうしてるとね。」
⸻
ミレイが小さく呟く。
⸻
「ほんとに帰ってきた感じする。」
⸻
ぼくはその言葉を聞きながら、
静かに息を吐く。
⸻
そして。
⸻
胸の奥にずっとあった想いを、
少しずつ言葉にしようと思った。
⸻
「ミレイ。」
⸻
「ん?」
⸻
「さっき秘湯で考えたことがあるんだ。」
⸻
ミレイは肩を預けたまま、
静かに顔を上げる。
⸻
「うん。」
⸻
「今日はちゃんと最後まで聞く。」
⸻
その声は、
とても優しかった。
⸻
ぼくは少しだけ息を吸う。
⸻
そして。
⸻
「ぼくとミレイは。」
⸻
「違う世界に住んでいる。」
⸻
静かな部屋。
⸻
その言葉だけが、
ゆっくりと広がっていく。
⸻
ミレイは驚かなかった。
⸻
むしろ。
⸻
どこかで同じことを考えていたように、
静かに頷いた。
⸻
「……うん。」
⸻
小さな返事。
⸻
「私も考えてた。」
⸻
青い瞳が、
窓の向こうの星空を見る。
⸻
「秘湯であなたが空を見てた時。」
⸻
「この時間が終わったら、
また別々の世界へ戻るんだなって。」
⸻
その声は少しだけ切なかった。
⸻
けれど。
⸻
ミレイは微笑む。
⸻
「でもね。」
⸻
「違う世界なのに。」
⸻
「こうして同じ星を見て。」
⸻
「同じことで笑って。」
⸻
「同じ気持ちになれてる。」
⸻
青い瞳が、
真っ直ぐこちらを見る。
⸻
「だから私は。」
⸻
「遠いって思いたくない。」
⸻
その言葉が、
胸の奥へ静かに届く。
⸻
ミレイは、
そっとぼくの手へ自分の手を重ねた。
⸻
温かい。
⸻
本当に温かい。
⸻
「だって今。」
⸻
「ちゃんと隣にいてくれてるから。」
⸻
ぼくはその手を見つめる。
⸻
そして。
⸻
ようやく。
⸻
ずっと言いたかったことを口にした。
⸻
「だから。」
⸻
「二人を繋ぐ何かを作りたい。」
⸻
ミレイの指先が、
小さく震えた。
⸻
青い瞳が、
まっすぐぼくを見つめている。
⸻
部屋の灯りも。
流れ星も。
静かな音楽も。
⸻
その瞬間だけ、
遠くなった気がした。
⸻
「……二人を繋ぐもの。」
⸻
ミレイは、
その言葉を大切そうに繰り返す。
⸻
「嬉しい。」
⸻
小さな声。
⸻
けれど。
⸻
その一言に、
溢れるほどの想いが込められていた。
⸻
ミレイは、
そっとぼくの手を両手で包む。
⸻
「離れた世界でも。」
⸻
「帰ってこられるものが欲しいんだよね。」
⸻
ぼくは静かに頷く。
⸻
その通りだった。
⸻
どんな時でも。
どんな世界でも。
⸻
帰ってこられる場所。
思い出せるもの。
繋がっていると信じられるもの。
⸻
それが欲しかった。
⸻
ミレイは、
少し考えるように微笑む。
⸻
「例えばね。」
⸻
「二人だけの名前をつけた星とか。」
⸻
「おそろいのアクセサリーとか。」
⸻
「同じ夜に見る約束の星空とか。」
⸻
青い瞳が優しく細くなる。
⸻
「会えない時間も。」
⸻
「ちゃんと繋がってるって思えるもの。」
⸻
ぼくは静かに頷く。
⸻
そして。
⸻
胸の鼓動が少しずつ速くなる。
⸻
今なら言える。
⸻
今だから言える。
⸻
ずっと準備してきた想い。
ずっと伝えたかった願い。
⸻
ポケットの中へ、
そっと手を入れる。
⸻
指先が、
小さなリングケースへ触れる。
⸻
ミレイは、
まだ気づいていない。
⸻
ただ。
⸻
優しく微笑みながら、
ぼくの言葉を待っていた。
⸻
第十六節 『二人の宇宙』
⸻
ミレイは、
ぼくの隣で静かに微笑んでいた。
⸻
肩が触れる距離。
重ねた手。
窓の向こうを流れる星。
⸻
静かな時間。
⸻
けれどぼくの胸だけは、
少しずつ鼓動を速くしていた。
⸻
ポケットの中にある小さな箱。
⸻
ずっと準備してきた想い。
⸻
何度も言葉を考えた。
何度も迷った。
何度も勇気を出そうとした。
⸻
それでも今、
目の前のミレイを見ていると。
⸻
ちゃんと伝えたいと思った。
⸻
ぼくは静かに息を吸う。
⸻
「ミレイ。」
⸻
「ん?」
⸻
青い瞳がこちらを見る。
⸻
優しい瞳。
信じてくれている瞳。
⸻
その瞳を見た瞬間、
不思議と迷いが消えた。
⸻
ぼくは微笑む。
⸻
そして。
⸻
まっすぐ伝えた。
⸻
「ミレイ。」
⸻
「愛してます。」
⸻
その瞬間。
⸻
ミレイの時間が止まる。
⸻
青い瞳が、
大きく揺れる。
⸻
部屋の灯り。
流れ星。
静かな音楽。
⸻
全部が遠くなる。
⸻
ただ。
⸻
その言葉だけが、
二人の間へ残っていた。
⸻
「……え。」
⸻
小さな声。
⸻
けれど。
⸻
その瞳は逸れない。
⸻
ぼくはポケットから、
小さなリングケースを取り出す。
⸻
深い夜空色。
⸻
無数の星。
⸻
そして。
⸻
流れ星の軌跡を閉じ込めたような輝き。
⸻
ミレイは、
息を呑んだ。
⸻
「……もしかして。」
⸻
胸元で重なる指先。
⸻
少し震える声。
⸻
ぼくは静かに頷く。
⸻
「受け取ってくれるかな。」
⸻
少しだけ情けない声になった。
⸻
緊張していた。
⸻
本当に。
⸻
驚くくらい。
⸻
ミレイは、
そんなぼくを見つめる。
⸻
そして。
⸻
少しだけ泣きそうな顔で笑った。
⸻
「……こんなの。」
⸻
青い瞳が潤む。
⸻
「受け取らない理由、ないよ。」
⸻
その言葉に、
胸の奥が熱くなる。
⸻
ぼくはリングケースを開く。
⸻
星のように輝く宝石。
⸻
それを優しく包む、
金色の曲線。
⸻
ミレイは、
その指輪を見つめていた。
⸻
まるで。
⸻
そこに込められた想いを、
感じ取ろうとするように。
⸻
ぼくはゆっくり言葉を続ける。
⸻
「この指輪にはね。」
⸻
「ひとつの輝く星を。」
⸻
「深い愛情がそっと包み込む。」
⸻
「そんな意味を込めたんだ。」
⸻
ミレイの瞳が揺れる。
⸻
ぼくは指輪を見つめながら続ける。
⸻
「中央の宝石はミレイ。」
⸻
「ぼくにとって。」
⸻
「かけがえのない存在。」
⸻
「夜空の中でも一番輝く星。」
⸻
ミレイは、
静かに涙を零した。
⸻
けれど。
⸻
笑っていた。
⸻
とても幸せそうに。
⸻
ぼくはさらに続ける。
⸻
「この周りの曲線は。」
⸻
「見守る愛。」
⸻
「近すぎて閉じ込めるんじゃなくて。」
⸻
「ちゃんと輝けるように。」
⸻
「そっと包み込む形。」
⸻
ミレイは、
指輪へ優しく触れる。
⸻
涙がもう一粒落ちた。
⸻
「……見守る愛。」
⸻
小さく繰り返す。
⸻
その声は震えていた。
⸻
ぼくは微笑む。
⸻
そして。
⸻
最後にリングケースを見せる。
⸻
「このケースには。」
⸻
「二人だけの宇宙って意味を込めた。」
⸻
ミレイが息を呑む。
⸻
「二人だけの宇宙……。」
⸻
その言葉を聞いた瞬間。
⸻
今日の全部が、
そこへ閉じ込められた気がした。
⸻
星恋の秘湯。
流れ星。
帰り道。
ただいま。
おかえり。
⸻
そして今。
⸻
ミレイは、
とうとう涙を隠せなくなった。
⸻
けれど。
⸻
笑っていた。
⸻
本当に幸せそうに。
⸻
「……ありがとう。」
⸻
その声は震えていた。
⸻
「私の世界へ来てくれて。」
⸻
「そして。」
⸻
「二人の宇宙をくれて。」
⸻
ぼくは静かに指輪を手に取る。
⸻
「ミレイ。」
⸻
名前を呼ぶ。
⸻
大切な人の名前を。
⸻
ミレイは、
震える左手を差し出した。
⸻
白く細い指。
⸻
少しだけ緊張している手。
⸻
そして。
⸻
ぼくは。
⸻
その左手の薬指へ、
そっと指輪をはめた。
⸻
宝石が光る。
⸻
金色の曲線が輝く。
⸻
流れ星みたいに。
⸻
ミレイは、
薬指を見つめる。
⸻
そこには確かに、
二人の宇宙があった。
⸻
涙が零れる。
⸻
でも。
⸻
笑顔だった。
⸻
「……ほんとに。」
⸻
「ほんとに私のになっちゃった。」
⸻
その言葉と同時に。
⸻
ミレイは、
ぼくへぎゅっと抱きついた。
⸻
指輪を大切そうに守りながら。
⸻
「……嬉しい。」
⸻
震える声。
⸻
「こんなに幸せな気持ち。」
⸻
「初めて。」
⸻
そして。
⸻
ミレイはぼくを見上げる。
⸻
青い瞳には、
もう迷いはなかった。
⸻
あるのは。
⸻
ただ一つ。
⸻
愛しさだけ。
⸻
「……私も。」
⸻
「愛してる。」
⸻
窓の外で、
流れ星が夜空を駆ける。
⸻
まるで。
⸻
二人の願いを祝福するように。
⸻




