第8話 広がる噂
月曜日の朝、教室の扉を開けた瞬間、いつもと違う空気を感じた。
視線が、一瞬こちらに集まって、またすっと逸れていく。誰かが小声で何かを囁き合っている。嫌な予感がした。
「おーっす、悠人。噂の人」
案の定、真っ先に絡んできたのは健人だった。にやにやとした顔で肩を組んでくる。
「噂の人って、なんだよ」
「土曜日、雨宮さんと二人で買い物してたんだって? 三上から聞いたぞ」
やっぱりか、と内心でため息をつく。三上に他意はなかったのだろうが、あの一言が予想以上に早く広まっているらしい。
「委員会の買い出しだよ。備品調達班と内装班で、買うもの被ってたから一緒になっただけ」
「へえ、委員会ね。委員会でカフェでお茶したりするんだ」
からかうような口調に、俺はぐっと言葉に詰まった。健人にまで見られていたのかと思うと、背筋がひやりとする。
「……見てたのか?」
「いや、それも三上から聞いた話。でもお前の反応見てると、なんか怪しいなあって」
健人はニヤニヤしながらも、それ以上は深く突っ込んでこなかった。助かった、と思う反面、噂そのものが消えたわけではないという事実に、胃のあたりが重くなる。
教室のあちこちでも、似たような話題がひそひそと交わされているのが分かった。
「雨宮さんと相馬くんって、実は付き合ってるんじゃない?」
「えー、意外な組み合わせ」
「でも土曜日、二人で買い物してるとこ見られたらしいよ」
女子たちの会話が耳に入ってくるたび、俺は聞こえないふりをするしかなかった。ちらりと後ろを見ると、澪はいつも通りの澄ました顔でノートを開いている。けれど、その横顔がいつもよりわずかに強張って見えるのは、気のせいではないはずだった。
*
昼休み、購買帰りの渡り廊下で、澪と鉢合わせた。周囲に人の気配がないのを確認してから、澪は小さくため息をついた。
「思ったより広まるの早かったね」
「悪い。三上が変に気を回したわけじゃないと思うけど……」
「うん、それは分かってる。三上くんは悪気ないもん」
澪は静かに首を振った。それでも、その表情には隠しきれない不安が滲んでいた。
「もし、これが保科さんの耳に入ったら……」
「まずいのか」
「うん。ただの噂で終わればいいけど、SNSとかで変に広まったりしたら、Rinとしての活動にも影響出るかもしれない」
澪の声が、いつもより硬い。三年前、引っ越しの日に見せた気丈な笑顔を思い出しながら、俺は何も言えずにいた。
「――ねえ、ユウ」
澪が意を決したように、俺の顔をまっすぐ見た。
「しばらくの間、放課後に二人で会うの、控えない?」
「……それは」
思わず言葉に詰まる。あの公園での約束を、澪自身が破ろうとしている。それがどれだけ辛い決断か、聞かなくても分かった。
「私だって、嫌だよ。本当は毎日だって話したい。でも、今、変な噂が広がって、ユウにまで迷惑がかかるのだけは、絶対に避けたいの」
澪の声が、少しだけ震えていた。俺はしばらく黙り込んだあと、小さく頷いた。
「……分かった。しばらく、我慢する」
「ごめんね」
「謝るなよ。お前が悪いわけじゃない」
精一杯、平静を装って言ったつもりだったけれど、内心では、ずしりとした重さが胸にのしかかっていた。せっかく取り戻せたと思っていた時間が、また遠のいていくような感覚だった。
*
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、思いがけない人物に声をかけられた。三上だった。
「相馬、ちょっといいか」
珍しく真剣な表情に、俺は身構えながら頷いた。
「この前、俺が変なこと言ったせいで、妙な噂広まったみたいで……悪かった。深く考えずに口に出しちまって」
三上は素直に頭を下げてきた。予想外の謝罪に、俺は少し戸惑いながら首を横に振った。
「いや、別に三上のせいってわけじゃないし」
「でも、雨宮さんも困ってるみたいだったから。委員会の集まりでも、心なしか元気なかったし」
三上の観察眼の鋭さに、内心で少し驚く。人当たりが良いだけの人気者ではなく、ちゃんと周りを見ている奴なのだと、初めて気づかされた気がした。
「なあ、相馬。もし本当に雨宮さんと付き合ってるとかだったら、俺、別に茶化したりしないからさ。ちゃんと大事にしてやれよ」
「――いや、そういうんじゃ」
否定しようとした声が、思ったより弱々しく響いた。三上は少しだけ笑って、それ以上は追及せずに、軽く手を挙げて去っていった。
残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。付き合っているわけではない。けれど、そう言い切れるほど、今の自分の気持ちは単純ではなくなっている。そのことに、今更ながら気づかされた放課後だった。
夕暮れの通学路を、いつもより長く感じながら一人で歩く。あの公園に立ち寄ることもなく、まっすぐ家路につくのは、三年前を思い出させる、どこか寂しい帰り道だった。
スマホがわずかに震えた。澪からのメッセージだった。
『今日は一緒に帰れなくて、ごめんね』
『気にすんな。文化祭までには、また普通に話せるようになってるといいけどな』
『うん。それまでの辛抱、頑張ろうね』
短いやり取りのあとに、小さな猫のスタンプが送られてきた。それだけで、少しだけ心が軽くなる気がした。
噂が広まったこの数日をきっかけに、俺たちの距離は、また少しだけ離れることになる。けれど、この一時的な「距離」が、後になって、俺たちの関係を試す大切な時間になることを、この時の俺はまだ知らなかった。
第8話まで読んでくださって、ありがとうございます!
噂が広まったことで、二人はしばらく距離を置くことに。三上くんの意外な一面も見えた回になりました。次話以降、この「距離」の時期をどう乗り越えていくのかを描いていきます。
いつもブックマーク・評価をありがとうございます。次話もお楽しみに。




