帰り道の、小さな歌
日曜の夜、俺は駅の改札の前で、澪の帰りを待っていた。
寒さで指先がかじかむ。自動販売機でホットココアを二本買おうとしたところで、百円玉が、がたん、と音を立てて、そのまま戻ってこなかった。
「――え」
ボタンを押しても、何も出てこない。返却レバーを何度回しても、反応はなかった。
「……俺の百円」
諦めて、別の自動販売機でもう一度ココアを二本買い直す。さすがに今度は何事もなく、無事に二本の缶を手に入れたところで、改札の向こうから、見慣れた姿が手を振りながら歩いてきた。
「ユウ、待っててくれたの?」
「たまたま、近くを通ったから」
「嘘つき。手、冷たくなってるよ」
澪は俺の手から缶を一本受け取ると、ぎゅっと両手で包み込んで、幸せそうに目を細めた。
「あったかい」
「ちなみに、さっき自動販売機に百円を飲まれた」
「え、ほんと? あはは、ユウ、ほんとについてない」
「笑うなよ」
そう言いながらも、澪の楽しそうな顔を見ていると、百円くらい、安いものだと思えた。
*
駅前の通りを抜けて、川沿いの道を並んで歩く。冬の夜空には、星がいくつか瞬いていた。
「今回の録音、大変だったか」
「うん。八回もやり直した。でもね、最後のテイクで、不思議と声がすっと出たの」
澪は少し前を歩きながら、空を見上げた。
「あのね、聞いてほしいの。まだ、誰にも聞かせちゃいけない曲なんだけど」
「いいのか、俺なんかが」
「ユウにだけは、特別。一番最初の観客だから」
そう言って、澪は一歩立ち止まり、小さく息を吸った。
夜の川沿いに、澪の歌声が、静かに溶けていく。大きな声ではなかった。けれど、文化祭の頃に聴いたどの歌よりも、まっすぐで、あたたかかった。
歌い終えたあとの沈黙が、少しだけ長く続いた。
「――どうだった?」
「……すごく、良かった」
それ以外の言葉が、出てこなかった。
「もっと気の利いたこと、言ってくれると思ったのに」
「悪い、感想が追いつかない」
「ふふ。じゃあ、それが一番の褒め言葉ってことにしておく」
澪は嬉しそうに笑って、再び歩き出した。その背中を見ながら、俺は思った。いつか、この歌が、日本中に流れる日が来る。その日が来るまで、俺は一番近くで、この小さな歌を守っていこう、と。
第55話まで読んでくださって、ありがとうございます!
悠人の「百円玉の悲劇」で、今回は少しだけ笑いを足してみました。澪が悠人にだけ聴かせる、小さな歌の場面は、この物語の中でも特に気に入っている場面の一つです。
いつもブックマーク・評価をありがとうございます。次話もお楽しみに。




