はじめての録音(澪視点)
土曜の朝、私は保科さんと一緒に、東京のスタジオの重い扉を開けた。
いつもの練習室とは、空気がまるで違う。防音の分厚い壁、ずらりと並んだ機材、そしてガラスの向こう側で待っている、真剣な顔の大人たち。
「雨宮さん、まずは軽く声出しからいきましょうか」
ベテランのサウンドエンジニアさんが、穏やかな声で言ってくれた。私は小さく頷いて、ヘッドホンをつける。
「――よし、いくよ」
いつもの掛け声を、心の中で呟いた。
*
一回目のテイクは、自分でもびっくりするくらい、がちがちだった。
「うん、緊張してるね。もう一回いってみようか」
二回目、三回目。喉の奥が、どんどん固くなっていく。四回目を終えたとき、エンジニアさんが、そっとガラスの向こうから話しかけてくれた。
「雨宮さん、ちょっと休憩にしましょう。水でも飲んで」
控室に戻ると、保科さんが黙ってペットボトルの水を差し出してくれた。
「――上手くいかない」
「最初から上手くいく人なんて、いない」
「保科さんでも、そうでした?」
「私は、緊張しすぎて、初出勤の日に、自分の名刺を逆さに渡した」
思わず、ぷっと吹き出してしまった。
「それ、本当ですか」
「本当。今でも、そのときの相手の顔を思い出す」
珍しく、保科さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
*
休憩の終わりに、廊下で聞き覚えのある声に呼び止められた。
「――あっ、澪ちゃん!」
振り返ると、最終選考の控室で出会った、あの女の子が立っていた。小早川花音さん。私と同じくらいの年頃の、柔らかい雰囲気の人だ。
「今日、隣のスタジオで挿入歌を録音するの。同じ日に会えるなんて、嬉しい」
「私もです。あの時は、ありがとうございました」
「ううん、こっちこそ。ねえ、実は言ってなかったんだけど」
花音さんは、少し照れくさそうに笑った。
「控室で澪ちゃんの歌を聴いたとき、あ、これは勝てないなって思ったの」
「そんな、私なんて」
「本当だよ。だから、一緒に仕事ができるの、すごく嬉しい」
ライバルのはずの人が、まっすぐな言葉をくれた。胸の奥に、あたたかいものが広がっていく。
*
再開した五回目のテイク。私は目を閉じて、ポケットの中のお守りを、そっと握りしめた。
夕暮れの公園。ブランコの軋む音。あの人が、ずっと隣で笑ってくれていた日々。
そして、八回目のテイク。ガラスの向こうで、エンジニアさんがゆっくりと頷くのが見えた。
「――いいですね。これでいきましょう」
その瞬間、全身から力が抜けて、思わずその場にしゃがみ込みそうになった。
翌日の日曜は、残りのパートの録音に丸一日を費やした。すべてを歌い終えて、帰りの新幹線に乗り込んだのは、日曜の夜になってからだった。
私はスマホを取り出して、短くメッセージを打った。
『今、終わった。昨日の八回目で、やっとOKもらえたの。今日も無事に全部終わったよ』
返事は、すぐに届いた。
『お疲れ。俺の中では、一回目からOKだったけどな』
窓の外に流れる夜景を見つめながら、私は、ひとりで小さく笑った。
第54話まで読んでくださって、ありがとうございます!
今回は澪視点で、はじめての録音の日を描きました。保科さんの「名刺逆さま事件」や、小早川花音さんとの再会など、少し肩の力の抜けたエピソードを入れてみました。
いつもブックマーク・評価をありがとうございます。次話もお楽しみに。




