第36話 保科さんとの、何気ないやり取り
二次審査通過から一週間ほど経ったある日、澪が珍しく「今日は保科さんが学校の近くまで来てるから、少し会ってくる」と言い出した。
「俺も一緒に行っていいのか」
「うん。最終選考の説明もあるみたいだし、ユウにも同席してほしいって、保科さんが言ってた」
意外な申し出に、俺は少し驚いた。あの厳格な保科さんが、自分から俺を呼ぶとは思ってもいなかった。
*
駅前のカフェの隅の席で、保科さんは資料を片手に、淡々と最終選考の概要を説明した。
「最終選考は、来月末。今度は東京の本社スタジオで、複数の候補者を集めた形式になる。今までよりずっと規模が大きくなるから、覚悟しておいて」
「分かった」
澪が真剣な顔で頷く横で、保科さんはふと俺の方に視線を移した。
「――相馬くん。今日呼んだのは、他でもない。文化祭の間、澪をよく支えてくれてたみたいだから、一応、お礼を言っておこうと思って」
思いがけない言葉に、俺は一瞬言葉に詰まった。
「い、いえ。俺は特に何も」
「謙遜しなくていい。澪から聞いてる。予算問題の時のことも、リハーサルの時のことも」
保科さんはそう言うと、珍しく口元を緩めた。
「正直、最初はあなたのこと、澪の集中を乱す存在だと思ってた。でも、最近の澪を見てると、むしろあなたがいることで、精神的に安定してるように見える。だから――」
保科さんは一拍置いて、続けた。
「これからも、変に距離を置かせるようなことはしない。ただし」
「ただし?」
「変な噂だけは、引き続き絶対に立てないこと。最終選考が終わるまでは、慎重にね」
その言葉に、俺と澪は思わず顔を見合わせた。
「――ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない。私は、澪にとって一番いい形を考えてるだけ」
保科さんはそう言って、資料を片付け始めた。だがその直後、ふと思い出したように付け加えた。
「そういえば、澪。この前、健人くんとかいう子から、変に気合の入った長文のお見舞いメッセージが届いたって言ってたわね」
「――あ、あれ、保科さんにまで話が伝わってるの?」
「事務所のグループチャットで、うっかり誰かに転送しちゃったみたいで、ちょっとした話題になってる」
思わぬところで蒸し返された健人の一件に、俺は思わず噴き出した。澪も顔を赤くしながら、恨めしそうに俺を睨んでくる。
「――ユウ、なんで笑うの」
「いや、健人の暴走が、まさか事務所にまで届いてるとは思わなかった」
「笑い事じゃないから。あれ、地味に恥ずかしいんだから」
保科さんまでもが、珍しく肩を震わせて笑いを堪えていた。厳格な彼女のこんな表情を見るのは初めてで、俺は少し新鮮な気持ちになった。
*
カフェを出たあと、澪がぽつりと呟いた。
「――保科さんが、あんな風に笑うの、初めて見たかも」
「意外と、面白いところあるんだな」
「うん。最近、ちょっとずつ、素の一面見せてくれるようになった気がする」
澪の声には、確かな安心感が滲んでいた。文化祭を通して積み重ねてきた関係の変化が、こうしてまた一つ、形になっているのを感じた。
第36話まで読んでくださって、ありがとうございます!
保科さんとの関係が、少しずつ柔らかくなっていく回になりました。まさかの健人のお見舞いメッセージが事務所にまで伝わっていたという小ネタで、くすっと笑っていただけたら嬉しいです。最終選考という新たな目標も見えてきました。
いつもブックマーク・評価をありがとうございます。次話もお楽しみに。




