第2話 二人だけのルール
あの日から一夜明けても、俺の頭の中はちっとも整理がついていなかった。
布団の中で何度も昨日の光景を反芻する。教室での他人行儀な微笑み。下駄箱の陰で見せた、悪戯っぽい笑顔。「学校では、他人のふりしてて。いいよね?」――あの一言の意味を、朝までかかっても俺は答えに辿り着けなかった。
結局、寝不足のまま制服に着替え、いつもより十分早く家を出た。歩き慣れたはずの通学路が、今日はやけに長く感じる。
教室に着くと、既に異様な空気が漂っていた。窓際の一角に、数人の男子が集まっている。その中心にいるのは、当然のように雨宮澪だった。
「雨宮さん、LINE交換してもらってもいい?」
「連絡先、俺も欲しいんだけど」
澪は困ったように笑いながら、それでいて誰にでも分け隔てなく愛想よく応じている。転入初日にしてこの人だかりか、と俺は少し呆れながら、それでいて胸の奥がちりちりと焦げるような感覚を覚えて、慌てて自分の席に着いた。
――なんだよ、この気持ち。
自分でもよく分からない感情に蓋をするように、俺は鞄から教科書を取り出す。
「おはよ、悠人。お前、今日心なしか目の下真っ黒だな」
隣の席に座った健人が、開口一番そんなことを言ってくる。
「……うるさい。ちょっと寝不足なだけだ」
「ふうん? 昨日の転校生のことが気になって眠れなかった、とかじゃないよな」
冗談めかした健人の言葉に、俺は思わず肩を跳ねさせてしまう。健人は目ざとくそれを見逃さなかった。
「お、なんだその反応。もしかして脈ありか?」
「違えよ。変なこと言うな」
むきになって否定する俺を見て、健人はニヤニヤと笑いながら「まあいいけどさ」と肩をすくめた。誤魔化せているのかどうか、自分でも自信がない。
朝のホームルームが始まり、澪が教室に入ってくる。俺の後ろの席に座る彼女の気配を、今日はやけに意識してしまう自分がいた。振り返りたい気持ちを抑えて、俺はノートを開いた。
一限目は現代文だった。教科書を音読する順番が回ってきて、俺がたどたどしく読み終えると、後ろから小さく紙が滑り込んできた。
折りたたまれたメモ用紙。開いてみると、見覚えのある丸っこい文字で、こう書かれていた。
『相馬くんの音読、昔から変わってないね』
思わず息を呑んだ。振り返りそうになるのを堪えて、俺はもう一度メモに視線を落とす。「昔から」――その一言が、教室で交わした他人行儀なやり取りとはまるで違う温度を持っていた。
どう返事をすればいいのか分からないまま、授業時間が過ぎていく。結局、何も書き返せないまま一限目が終わった。
*
昼休み、購買にパンを買いに行った帰り、渡り廊下の陰で澪と鉢合わせた。周りに人影はない。
「――昨日のメモ、読んでくれた?」
小声で聞かれて、俺は頷いた。
「読んだけど……お前、教室ではあんな他人行儀にしてたくせに、何考えてんだよ」
「教室じゃ、ね」
澪はいたずらっぽく笑って、人差し指を口元に立てる。
「今はこうやって、二人きりならいいの。これが、私が決めたルール」
「ルールって、勝手すぎるだろ」
「文句ある?」
澪は悪びれもせずに、俺の顔を覗き込んでくる。近い距離に、思わず一歩後ろに下がってしまった。三年前までは、こんな距離感、当たり前だったはずなのに。
「――理由、聞いてもいいか。なんで、そんな面倒なことしてるんだよ」
俺が真剣に尋ねると、澪の表情から、一瞬だけ悪戯っぽい色が消えた。
「……それは、まだ言えない」
「澪」
「本当に、まだなの。ちゃんと話すから、少し待ってて」
その声には、さっきまでの軽い調子とは違う、どこか切実な響きがあった。




