第1話 消えた幼馴染と、教室の噂
はじめまして、kitutuです。
これは、幼馴染だったはずの二人が、三年ぶりに再会するところから始まる物語です。
教室では初対面のふりをする幼馴染と、そのギャップに振り回される主人公。二人だけの「秘密のルール」は、いったいどこに向かっていくのか――じれったくて、少し切なくて、でも温かい関係の変化を、ゆっくり見守っていただけたら嬉しいです。
更新は不定期になりますが、コメントや評価、ブックマークが何よりの励みになります。どうぞよろしくお願いいたします。
目覚ましが鳴る五分前に目が覚めるのは、いつものことだった。
カーテンの隙間から差し込む朝日を眺めながら、俺――相馬悠人は、ぼんやりと天井を見上げていた。二学期も半分を過ぎた十月の教室は、もうすっかり夏の匂いが抜けて、代わりに文化祭の準備で浮足立った空気に包まれている。そんな中で今日という日が特別になるなんて、この時の俺はまだ知らない。
制服に着替えながら、ふと机の隅に置いてある写真立てが目に入った。小学校の卒業アルバムに挟んであった一枚を、勝手に抜き取って飾ってあるやつだ。桜の木の下で、ランドセルを背負った俺と、隣で歯を見せて笑っている女の子。
雨宮澪。
小学校を卒業してすぐ、父親の転勤で県外に引っ越していった幼馴染。同じ保育園、同じ小学校、家も歩いて三分の距離。毎朝一緒に登校して、毎夕方まで公園で遊んで、気づけば十年以上をずっと一緒に過ごしてきた相手だった。
引っ越しの日、澪は最後まで泣かなかった。俺の方が半分泣きそうになっているのを見て、「ユウは泣き虫だなあ」と笑って、それから「また会えるよ、絶対」と言い残して、車の窓の向こうに小さくなっていった。
――もう三年も前の話だ。
連絡先は交換していたはずなのに、いつの間にか途絶えていた。中学に上がって、お互いに新しい生活に慣れていくにつれて、メッセージの頻度は減っていって、そのうち既読すらつかなくなった。よくある話だ、と自分に言い聞かせて、俺はその写真立てを机の隅に追いやったまま、今日まで過ごしてきた。
――なのに、どうして今朝に限って、あの写真が目に留まったんだろう。
妙な胸騒ぎを振り払うように鞄を摑んで、俺は家を飛び出した。
*
「なあ聞いたか、今日転校生来るってよ」
教室に着くなり、真っ先に話しかけてきたのは、隣の席の大西健人だった。中学からの数少ない友人で、こういう噂話をいち早く仕入れてくるのが妙に得意な奴だ。
「転校生? この時期に珍しいな」 「だろ? しかも噂じゃ、他校でもかなり有名だった美人らしいぞ。俺、廊下でちらっと見た一年の連中が騒いでるの聞いた」
健人は興奮気味にまくし立てながら、スマホの画面を見せてくる。SNSの誰かの投稿らしきスクリーンショットには、「今日から転校してくる子、マジで芸能人レベルらしい」というコメントが並んでいた。よくある尾ひれのついた噂だろう、と俺は半分聞き流していた。
クラスのあちこちでも、似たような話題で持ちきりだった。
「え、今日来るの? どのクラスだろ」 「うちのクラスって噂だけど」 「マジで? 楽しみすぎるんだけど」
女子たちの黄色い声を横目に、俺は机の中から教科書を取り出す。可愛いとか可愛くないとか、正直どうでもいい。どうせ自分には縁のない話だ。そう思っていたはずなのに、なぜか今朝見た写真立てのことが、頭の片隅から離れなかった。
朝のホームルームが始まって数分後、担任の田村先生が少し慌てた様子で教室に入ってきた。
「えー、急な話になるが、今日から転入生が来ることになった。本来なら学期の切り替わりで、とは思っていたんだが、事情があって今日からになる」
教室のざわめきが一段と大きくなる。先生は黒板にチョークを走らせた。
「雨宮澪さん。仲良くしてやってくれ」
その四文字が目に飛び込んできた瞬間、俺の手からシャーペンが転がり落ちた。カラン、という乾いた音が、やけに大きく耳に響く。
――まさか、な。同じ名前の他人だろう。
そう自分に言い聞かせながらも、心臓が変な音を立て始めているのが分かった。健人が「お前どうした、顔色悪いぞ」と怪訝そうにこちらを見てくるのにも、まともに答えられない。
廊下側の扉が、静かに開いた。
逆光になった廊下の光を背にして立っていたのは、記憶よりもずっと大人びた、けれど確かに見覚えのある輪郭だった。癖のあった猫っ毛は今では綺麗に伸ばされ、あの頃は日焼けで真っ黒だった肌も白くなっている。けれど、意志の強そうな目の形と、まっすぐ前を見据える立ち姿だけは、記憶の中の彼女と寸分違わなかった。
「雨宮澪です。よろしくお願いします」
教室中から、小さくどよめきが起こった。想像していた以上だった、というようなざわめき。健人でさえ、隣で「……本当に芸能人じゃねえの、あれ」と呟いている。
澪は静かにお辞儀をすると、顔を上げて教室をゆっくりと見渡した。その視線が一瞬、確かに俺の上で止まった。
――気づいてる。絶対に。
そう確信した俺は、思わず小さく手を挙げかけた。心臓が痛いくらいに脈打っている。三年分の言葉が、喉の奥でせめぎ合っていた。
けれど。
澪の視線は、何事もなかったかのように、すっと窓の外へと逸れていった。表情ひとつ変えないまま。まるで、初めて訪れた教室の景色の一部を眺めるみたいに、あまりにも自然に。
上げかけた手を、俺はそのまま机の下に戻すしかなかった。
「雨宮さんの席は……ちょうど相馬くんの後ろが空いてるな。そこに座って」
田村先生の一言に、教室中の視線が今度は一斉に俺に集まった。「知り合いなの?」「顔赤くない?」というひそひそ声が飛び交う。俺はどう答えていいか分からず、曖昧に首を横に振ることしかできなかった。
澪は迷いのない足取りで教室の中を歩いてくると、俺の後ろの席の椅子を引いて、静かに腰を下ろした。すぐ後ろから、あの頃と少しも変わらない、ほのかに甘い匂いがした気がして、うなじのあたりがぞわりとする。
振り返りたい衝動を必死に堪えて、俺は黒板に視線を固定した。授業が始まっても、先生の声はほとんど頭に入ってこなかった。
*
放課後、廊下の掲示板の前で澪を見つけた俺は、深呼吸を一つしてから、意を決して声をかけた。
「あの……雨宮、だよな。俺、相馬だけど。覚えて――」 「初めまして」
澪はまっすぐに俺の目を見て、はっきりとそう言い切った。優等生が浮かべるような、教科書通りの他人行儀な微笑みを添えて。
「え……」 「相馬くん、だっけ。転校してきたばかりで色々分からないこと多いから、これからよろしくね」
あまりにも自然な口調に、一瞬、本当に人違いだったのかと自分を疑いそうになる。けれど、目の前にいるのは間違いなく、あの雨宮澪だった。喋り方の癖も、瞬きのタイミングも、昔のまま何一つ変わっていない。
「……そう、か。うん、こちらこそ」
それだけ言うのが精一杯だった。澪はにこりと微笑むと、それ以上は何も言わずに、鞄を持って昇降口の方へ歩いていってしまう。
健人が横から肩を小突いてきた。
「お前、あの子と知り合いなのかと思ったけど、違うんだな。なんかガチガチに緊張してたじゃん」 「……いや、まあ」
うまく言葉にできないまま、俺は曖昧に濁した。人違いだったのか、それとも、澪の方が本当に俺のことを忘れてしまったのか。もやもやとした感情を持て余しながら、俺は健人と別れて下駄箱へ向かった。
靴を履き替えていると、ふいに背後から声がした。
「――ねえ、ユウ」
振り返ると、誰もいなくなった昇降口の陰から、澪が顔だけひょいと覗かせていた。さっきまでの他人行儀な微笑みは綺麗さっぱり消えていて、代わりに、昔よく見た悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「……澪?」 「学校では、他人のふりしてて。いいよね?」
三年前のあの日から時間が止まっていたみたいに、澪は昔と同じ呼び方で、昔とまったく同じ調子で言った。
「な、なんでだよ。ちゃんと説明しろよ」 「今はまだ秘密。そのうち分かるよ」
俺が何か言い返すよりも早く、澪はくるりと背を向けて、今度こそ本当に走り去っていく。廊下の角を曲がる直前、ちらっとこちらを振り返って、悪戯が成功した子どもみたいに笑ってみせた。
残された俺は、しばらくの間、下駄箱の前から動けなかった。
――なんなんだよ、あいつ。
口ではそう呟きながら、頬が緩むのを止められない自分がいた。三年間、途絶えていたはずの時間が、今この瞬間、確かに動き出したのを感じる。
夕焼けに染まる通学路を一人歩きながら、俺はさっきの澪の顔を何度も思い出していた。学校では他人のふり。二人きりだと、昔のまま。
その理由を知るのはもう少し先の話になるのだが――三年ぶりに戻ってきた幼馴染との、ちょっとおかしな「秘密の関係」が、こうして静かに始まったのだった。
第2話 二人だけのルール
あの日から一夜明けても、俺の頭の中はちっとも整理がついていなかった。
布団の中で何度も昨日の光景を反芻する。教室での他人行儀な微笑み。下駄箱の陰で見せた、悪戯っぽい笑顔。「学校では、他人のふりしてて。いいよね?」――あの一言の意味を、朝までかかっても俺は答えに辿り着けなかった。
結局、寝不足のまま制服に着替え、いつもより十分早く家を出た。歩き慣れたはずの通学路が、今日はやけに長く感じる。
教室に着くと、既に異様な空気が漂っていた。窓際の一角に、数人の男子が集まっている。その中心にいるのは、当然のように雨宮澪だった。
「雨宮さん、LINE交換してもらってもいい?」 「連絡先、俺も欲しいんだけど」
澪は困ったように笑いながら、それでいて誰にでも分け隔てなく愛想よく応じている。転入初日にしてこの人だかりか、と俺は少し呆れながら、それでいて胸の奥がちりちりと焦げるような感覚を覚えて、慌てて自分の席に着いた。
――なんだよ、この気持ち。
自分でもよく分からない感情に蓋をするように、俺は鞄から教科書を取り出す。
「おはよ、悠人。お前、今日心なしか目の下真っ黒だな」
隣の席に座った健人が、開口一番そんなことを言ってくる。
「……うるさい。ちょっと寝不足なだけだ」 「ふうん? 昨日の転校生のことが気になって眠れなかった、とかじゃないよな」
冗談めかした健人の言葉に、俺は思わず肩を跳ねさせてしまう。健人は目ざとくそれを見逃さなかった。
「お、なんだその反応。もしかして脈ありか?」 「違えよ。変なこと言うな」
むきになって否定する俺を見て、健人はニヤニヤと笑いながら「まあいいけどさ」と肩をすくめた。誤魔化せているのかどうか、自分でも自信がない。
朝のホームルームが始まり、澪が教室に入ってくる。俺の後ろの席に座る彼女の気配を、今日はやけに意識してしまう自分がいた。振り返りたい気持ちを抑えて、俺はノートを開いた。
一限目は現代文だった。教科書を音読する順番が回ってきて、俺がたどたどしく読み終えると、後ろから小さく紙が滑り込んできた。
折りたたまれたメモ用紙。開いてみると、見覚えのある丸っこい文字で、こう書かれていた。
『相馬くんの音読、昔から変わってないね』
思わず息を呑んだ。振り返りそうになるのを堪えて、俺はもう一度メモに視線を落とす。「昔から」――その一言が、教室で交わした他人行儀なやり取りとはまるで違う温度を持っていた。
どう返事をすればいいのか分からないまま、授業時間が過ぎていく。結局、何も書き返せないまま一限目が終わった。
*
昼休み、購買にパンを買いに行った帰り、渡り廊下の陰で澪と鉢合わせた。周りに人影はない。
「――昨日のメモ、読んでくれた?」
小声で聞かれて、俺は頷いた。
「読んだけど……お前、教室ではあんな他人行儀にしてたくせに、何考えてんだよ」 「教室じゃ、ね」
澪はいたずらっぽく笑って、人差し指を口元に立てる。
「今はこうやって、二人きりならいいの。これが、私が決めたルール」 「ルールって、勝手すぎるだろ」 「文句ある?」
澪は悪びれもせずに、俺の顔を覗き込んでくる。近い距離に、思わず一歩後ろに下がってしまった。三年前までは、こんな距離感、当たり前だったはずなのに。
「――理由、聞いてもいいか。なんで、そんな面倒なことしてるんだよ」
俺が真剣に尋ねると、澪の表情から、一瞬だけ悪戯っぽい色が消えた。
「……それは、まだ言えない」 「澪」 「本当に、まだなの。ちゃんと話すから、少し待ってて」
その声には、さっきまでの軽い調子とは違う、確かな重みがあった。何か事情があるのだと、鈍い俺でもさすがに気づく。それ以上追及するのは躊躇われて、俺は黙って頷くしかなかった。
澪はふっと表情を緩めると、いつもの調子に戻って言った。
「その代わり、一つだけ提案があるんだけど」 「……なんだよ」 「今日の放課後、あの公園に来てくれない?」
あの公園。それが、二つの家の間にあった、あの小さな児童公園のことだと分かるのに、時間はかからなかった。俺たちが毎日のように遊んで、指切りをして、色んな約束を交わした場所。
「まだ、あるのか。あの公園」 「うん。引っ越す前と、たぶん何も変わってないよ」
澪の声が、少しだけ柔らかくなった。
「久しぶりに、行ってみたくて。ユウと一緒に」
その一言に、三年間ずっと閉じ込めていた何かが、静かに疼くのを感じた。
「……分かった。行くよ」 「ほんと? やった」
澪はぱっと表情を輝かせると、昼休み終了のチャイムが鳴る直前、「じゃあ、また放課後にね」と言い残して足早に去っていった。残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
午後の授業は、案の定、まったく頭に入ってこなかった。窓の外の空を何度も見上げては、放課後までの時間の長さにやきもきする。
六限目の終わりを告げるチャイムが鳴った瞬間、俺は誰よりも早く鞄をまとめていた。健人が「今日はやけに帰りが早いな」と茶化してくるのを軽く受け流し、教室を飛び出す。
昇降口で靴を履き替えながら、ふと窓の外に目をやると、校門の前で澪が誰かと立ち話をしているのが見えた。相手は同じクラスの、爽やかな雰囲気の男子だった。澪は困ったような愛想笑いを浮かべながら、それでも丁寧に対応している。
その光景に、胸の奥がまたちりちりと焦げるのを感じた。
――俺には見せない顔を、あいつは学校中の人間に振りまいてるんだな。
そんなことを考えている自分に気づいて、内心で舌打ちする。情けない話だ。まだ何も始まっていないのに、もう嫉妬している。
澪がようやく男子と別れて、こちらに気づいて小さく手を振ってきた。校門を出たところで待ち合わせて、二人並んで、あの公園へと続く懐かしい道を歩き出す。
夕焼けに染まる住宅街を歩きながら、澪はぽつりと言った。
「ねえ、ユウ。今日、話すね。私が学校で他人のふりをしてる、本当の理由」
その声のトーンに、俺は思わず隣を歩く澪の横顔を見た。夕日を受けたその横顔は、いつもの悪戯っぽい笑みではなく、どこか覚悟を決めたような、真剣な表情をしていた。
三年間の空白を埋める話が、今、始まろうとしている。




