第10話 保科さんの来訪
「距離を置く」と決めてから、一週間が過ぎた。
教室での他人行儀な空気にも、放課後の事務的なやり取りにも、少しずつ「これが今の俺たちの形なんだ」という妙な慣れが生まれ始めていた。それでも、夜に届く澪からの短いメッセージだけは、以前と変わらず続いている。
『今日、内装の布地、無事に発注できたよ』
『了解。備品のほうも、来週には届く予定』
業務連絡のような文面の端に、時々小さなスタンプが添えられる。それだけで、繋がりが完全に切れたわけではないのだと安心できた。
*
放課後、視聴覚室で行われた実行委員の定例会議のあと、資料を片付けていると、廊下の向こうから聞き覚えのない靴音が近づいてきた。顔を上げた瞬間、心臓が跳ねる。
保科さんだった。
紺色のパンツスーツに身を包んだ彼女は、迷いのない足取りでまっすぐこちらへ歩いてきて、澪の隣で立ち止まった。
「澪。少し時間いい?」
「保科さん……どうしたんですか、学校まで」
澪の声にも、明らかな緊張が滲んでいる。保科さんは澪に何か耳打ちしたあと、ふと視線をこちらに向けた。
「――相馬くん、だったよね」
名前を覚えられていたことに、俺は内心で驚いた。
「は、はい。相馬悠人です」
「澪から少し話は聞いてる。実行委員、頑張ってるみたいね」
思いのほか穏やかな口調に、身構えていた分だけ拍子抜けする。だが、保科さんの目はまっすぐにこちらを見据えていて、値踏みされているような緊張感は変わらなかった。
「澪は今、大事な時期なの。オーディションの結果次第で、この先の活動の形が大きく変わる。だから、変な噂で足を引っ張られたくない――それは、前にも澪から聞いてるかもしれないけど」
「……はい。聞いてます」
「でも」
保科さんは一拍置いて、続けた。
「澪が『距離を置きたい』って自分で決めて、その上でまだ、あなたのことを大事に思ってるのは、見てれば分かる。だったら、大人が頭ごなしに引き離すより、二人でちゃんと折り合いをつけるほうが、多分うまくいく」
予想外の言葉に、俺は思わず澪の顔を見た。澪も驚いたように目を丸くしている。
「保科さん、それって……」
「勘違いしないで。応援してるわけじゃないから。ただ、変に隠し事をして、こっちの管理が及ばないところで噂が広まるほうがよっぽど困る、ってだけの話」
そう言いながらも、口元にはわずかに柔らかい色があった。三年前の澪が、いつも「厳しいけど、根はすごく優しい人なの」と話していたのを、俺はふと思い出す。
「文化祭が終わるまで、って澪が決めたんでしょう。だったら、それまでは大人しくしてなさい。その代わり――」
保科さんは澪に向き直った。
「それが終わったら、ちゃんと自分の頭で考えて、自分の言葉で説明しなさい。私に、じゃなくて、澪自身の生き方として」
「……うん。分かった」
澪は小さく、でもしっかりと頷いた。保科さんはそれ以上多くを語らず、軽く会釈だけして、来た時と同じ迷いのない足取りで去っていった。
残された俺たちの間に、しばらく沈黙が流れる。
「……びっくりした」
「私も。あんな風に言ってくれるとは思わなかった」
澪は小さく笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「保科さんね、昔からそうなの。厳しいことしか言わないようで、いざという時はちゃんと味方でいてくれる」
「なんか、分かる気がする」
「――ユウも、そういうところあるよね」
からかうような口調に戻った澪を見て、俺はようやく肩の力が抜けるのを感じた。
*
その夜、スマホにいつもより長いメッセージが届いた。
『今日はありがとう。保科さんに、変な誤解されなくて良かった』
『別に何もしてない。ただ立ってただけだ』
『それでも。ユウがちゃんとしてる姿、保科さんに見てもらえて嬉しかった』
照れくさくなって、しばらく返信に悩む。結局、素直な言葉を選んだ。
『文化祭終わるまで、あと少しだな』
『うん。それまでの辛抱、あとちょっとだけ頑張ろうね』
小さなハートのスタンプが返ってくる。距離を置いているはずなのに、こうしてまた一歩、何かが近づいたような夜だった。
文化祭本番までは、まだ一か月以上ある。準備期間はこれからが本番だ。だが保科さんの来訪をきっかけに、俺たちの間に流れる空気は、確かに何かが変わり始めていた。
第10話まで読んでくださって、ありがとうございます!
ついに保科さんが学校に登場。厳しいだけじゃない、大人の距離感での気遣いを見せてくれました。次話では、いよいよ文化祭準備が本格化し、リハーサルを通して悠人と澪が人前で協力せざるを得ない場面を描く予定です。
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