第六章 最初の依頼人
二週間ほど経ったある日。
雄三は引っ越しを終えたばかりの事務所で、段ボールを開けては中身を取り出し、また別の場所へ移し替えるという作業を繰り返していた。
ビルの入り口には「田所探偵事務所」の看板を取り付けてもらい、ドアにも同じ表札が掛かっている。
机や応接セットなどの大きな家具はすでに配置済みだが、私物や細かな備品はまだ箱の中だった。
雑然とした室内を見回しながら、雄三はふと手を止める。
(人は一人では生きていけないというが、まさにその通りだな。結局、事務所も弁護士も親父の威光があってのもので俺の力じゃない)
静かな部屋に、自分の思考だけが響く。
父に一人前になった姿を見せることは、もうできない。
恩返しも――。
(この後悔だけは許してくれるだろ……親父……)
小さく息を吐いた、その時だった。
ドアをノックする音が響く。
こんな場所に、こんなタイミングで訪ねてくる相手など心当たりがない。
営業か、勧誘か――。
面倒くさそうにドアを開ける。
そこに立っていたのは、予想とはまったく違う人物だった。
「あの……こちら田所探偵事務所さんでしょうか?」
長身で整った顔立ちの女性。落ち着いた雰囲気と、どこか知的な印象。
雄三は一瞬言葉を失い、慌てて姿勢を正す。
「あ、はい。そうです」
「私、夏野和泉と申しますが、相談に乗って頂きたくて……」
初めての依頼人。
その事実に、雄三の中で何かが一気に動き出す。
「どうぞどうぞ!」
必要以上に明るい声が出た。
「お掛けになって下さい。今、お茶入れますね」
そのまま慌てて給湯室へ駆け込む。
直後――。
ガラガラ、ガッシャーン。
何かが盛大に崩れる音が響いた。
少しして、苦笑いを浮かべた雄三が顔を出す。
「ちょっと缶コーヒー買ってきますね」
そう言うが早いか、慌てて事務所を飛び出していく。
取り残された夏野は、静かに周囲を見回した。
(大丈夫かしら……事務所選び失敗したかも……)
整理されていない荷物、今しがた響いた物音、そして落ち着きのない対応。
不安は、むしろ強まっていく。
ほどなくして、雄三が缶コーヒーを両手に抱えて戻ってきた。
テーブルに並べる。
「お好きなものをどうぞ」
カフェオレが二本、普通、微糖、無糖が一本ずつ。
雄三は迷いなくカフェオレの一本を手に取り、開ける。
夏野は「頂きます」と一言添えて微糖を選んだ。
「すみませんね。初めての依頼だし、事務所開いたばかりで荷物の整理もできてなくて」
ぎこちない笑顔。
(――一応、話だけして他をあたってみよう)
夏野はそう心の中で決める。
「ちなみに、以前は何をされたんですか?」
探るような質問。
「えーと……その……自宅警備員を少々……」
(自宅警備員って引き籠りでしょ?ニートだったって事?)
内心で即座に評価が下る。
「少々というのは、どのくらいですか?」
「えー……十五年ほど……」
(完全にダメだわ……コーヒー頂いちゃったし、形だけ話して他を探さなきゃ)
結論はほぼ出ていた。
「それで相談というのは?」
形式的に話を進める。
「実はストーカーに付きまとわれ困ってるんです」
その一言で、空気がわずかに変わる。
「相手は分かってるんですか?」
「それが分からなくて……」
「警察へは?」
「行ったんですが、『実害がないと動けない』とか『自意識過剰なんじゃないですか』とか、そんな感じでまともに対応してくれないんです」
わずかに悔しさが滲む声。
「警察らしいお役所仕事ですね。実害が出てからじゃ遅いのに」
雄三の口調が、少しだけ変わる。
「ええ。それで探偵の方なら相手を調べて止めさせてくれるんじゃないかと思いまして……」
「分かりました。では先ず、どの様に付きまとわれているのかお教えください」
その返答は迷いがなかった。
夏野はスマートフォンを取り出し、画面を開いて差し出す。
「先ずはメールなんですが……」
「拝見しても?」
「どうぞ」
雄三はスマートフォンを受け取り、画面をじっと見つめる。
「おはよう。今日はいつもより一本早い電車だったね。何かあったの?何かあったのなら相談に乗るよ。遠慮しなくて良いからね」
読み上げる声は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
「行動を観察してますね。これが一番新しいメールですか?」
「いえ。取ってある中で一番古いもので一週間ほど前の物です。それ以前は気持ち悪くて消してしまってたんで」
「こういうのは証拠になりますから消さない方が良いですよ」
「警察の方にも同じことを言われて、それから消さない様にしてます」
「最初は挨拶程度だったんですが、段々と服装とか職場とか……それから自宅周辺の事になって……」
雄三は画面をスクロールする。
「一番最近のは……『昨日、仕事帰りに君の後をつけてる男がいたから天誅を下しておいたよ。こうやって僕は君を守ってるのに気付いてくれないんだね。僕の愛に。僕たちは運命の赤い糸で結ばれているんだ。運命からは逃げられないよ』か。他に後をつけてくるような男がいたんですか?」
「いえ。同じマンションに住んでいて帰りの時間がいつも同じくらいになる男性が、通り魔に刺されたって聞いたんで、その事だと思います」
その言葉に、雄三の目がわずかに細くなる。
「ダークテトラッドじゃなければいいが……」
「何です、それ?」
「自己愛症、権謀術数主義、精神病質の三つの特性の総称がダークトライアド。これに加虐性欲が加わったのがダークテトラッドです」
淡々とした説明だった。
「ダークトライアドでも充分危険ですが、これにサディズムが加わることによってより攻撃的になり、この特性を持っているとすれば、いずれはあなた自身に危害を加えようとするはずです。サディズムが無ければ怪我や命の危険はほとんど有りませんが、サディズムの特性を併せ持っていてそれが表面に出てくれば命の危険もあります」
「そんな……」
夏野の顔から血の気が引く。
その瞬間、雄三はまっすぐに彼女を見た。
「大丈夫。貴女は私が必ず守ります」
先ほどまでの頼りなさは、そこにはなかった。
静かで、しかし確信に満ちた眼差し。
夏野は一瞬、言葉を失う。
(この人……信頼できる人かも……)
ほんのわずかだが、心の中の評価が変わる。
この出会いが――。
すべての始まりだった。




