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第四章 最初の一歩

 ここ数年、近所のコンビニと両親の葬式以外で外出することのなかった雄三が、一人で新宿の街中を歩いていた。

 人の波が絶えず流れる雑踏の中、場違いな感覚を覚えながらも足を止めない。

見慣れない景色。騒音。匂い。すべてがどこか遠い世界のように感じられる。

 部屋に閉じこもっていると気分が滅入る。

そして何より――何かをやらなければならない、という思いがあった。

 七千万円あれば、家賃の安い田舎に引っ越して慎ましく生活すれば、働かなくても生きていけるかもしれない。

だが、それではきっと――。

死ぬ時に後悔する。

父の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。

――後悔はするな。

その一言が、雄三を長年閉じ込めていた檻の鍵を、静かに外していた。

 目的もなく歩いていると、ふと一枚の広告が目に入った。

雑居ビルの壁に貼られた、色褪せた紙。

「興信所……所謂探偵ってやつか……人の秘密を探って暴く仕事……」

しばらく立ち止まって見つめる。

「……面白そうだ」

その言葉は、思考というより直感に近かった。

 雄三はそのまま足早に帰宅すると、すぐにパソコンを立ち上げて調べ始める。

「日本では資格なしで開業可能。でもその代わりに何の権限も持たない」

画面をスクロールしながら呟く。

「探偵業としての届け出は必要……一般人と同じ権限なのに届け出は必要なのか……」

さらに調べる。

「民間資格があるのか。まぁ、必要なら後で取ればいいか」

画面の情報を一通り確認し終えると、雄三は椅子にもたれかかった。

やるべきことが、初めて具体的な形を持った瞬間だった。

 翌日。

雄三は父の知り合いの不動産屋を訪ねることにした。

新宿の一角にある大きなビルの前で足を止める。

「株式会社アーバンエステート……ここだな。こんなに大きな会社だっけ?」

記憶の中にある“横山地所”とは、規模がまるで違っていた。

中に入ると、すぐにスタッフの一人が対応する。

「いらっしゃいませ」

「社長の横山さんにお会いしたいんですが……」

「お約束は有りますか?」

「いえ……田所建設の田所源蔵の息子だと言って頂ければわかると思うんですが……」

一瞬、スタッフの表情が変わる。

「田所建設の……!分かりました。少々お待ちください」

スタッフが奥へと消えていく。

 しばらくすると、記憶の中よりもずっと年を重ねた男が現れた。

「おお!源蔵さんの息子さんっていうから次男坊の方かと思ったら雄三君か」

「はい。お久しぶりです」

「随分、大きくなったね。縦にも横にも」

「はは……」

軽口に苦笑する雄三。

「源蔵さんの件……残念だったね……会社の方はどうなるんだい?」

「はい、弟が継ぎます」

「そうか、それは良かった。それで雄三君は今何やってるんだい?」

「それが今、何もやってないんです。それで今度、探偵事務所を開こうと思って……」

その言葉に、横山は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑みを浮かべた。

「場所は?」

「新宿辺りが良いかなと思ってるんですが……」

「それなら丁度良いのがあるよ。そこに掛けてちょっと待っててくれるかな」

雄三が椅子に座ると、スタッフがお茶を運んでくる。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

湯気の立つ湯のみを手に取りながら、雄三は落ち着かない様子で周囲を見回す。

 しばらくして、横山が一枚の図面を持って戻ってきた。

「ほら、これなんかどうだい?」

机の上に広げられる図面。

「ここに机置いて、こっちに応接セット。ここはパーテーションかカーテンで仕切っても良いと思う。こっちの部屋は物置かなんかにして、給湯室もトイレもある。書類棚を置くスペースも十分にある。古いし大きくは無いが探偵事務所にするなら充分だと思うよ」

図面を見つめる雄三の目に、初めて具体的な“未来”が映る。

「そうですね。ここにユニットシャワーとか設置しても大丈夫ですか?ここで暮らせば家賃は一軒分だけで済みますし」

「良いよ。好きなように使って。ここはウチの持ち物件だから。家賃も格安にしてあげるよ」

「良いんですか?」

思わず聞き返す雄三に、横山はゆっくりとうなずいた。

「横山地所と言う小さな不動産屋が、今アーバンエステートなんてこじゃれた名前になってここまで大きくなったのは源蔵さんのお陰なんだ。源蔵さんにはもう恩返しは出来ないからその分、雄三君と次男坊に恩返しさせてもらうよ」

「ありがとうございます」

自然と頭が下がる。

「このまま契約していくかい?」

「では、そうさせてもらいます」

「じゃあ、今契約書持ってくるからちょっと待ってて」

その言葉を聞きながら、雄三はもう一度図面を見つめた。

そこにはまだ何もない。

だが確かに、自分の居場所になるはずの空間が描かれていた。

事務所の契約を済ませた雄三は、その足で信濃町へ向かった。

――次に会うべき人物の顔を、思い浮かべながら。

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