第三章 喪失と約束
翌日――。
雄三のもとに、あまりにも突然すぎる報せが届いた。
ドアが乱暴に叩かれ、次の瞬間には開かれる。
「兄貴!開けるぞ!」
勢いよく入ってきた正和の顔は、血の気が引いていた。
「何だ?血相変えて」
ベッドに腰掛けたまま、雄三が顔を上げる。
「父さんと母さんが……名古屋に向かう途中、高速で事故に遭って……」
その言葉は途切れ途切れだった。
だが意味は十分すぎるほど伝わる。
「病院は何処だ!?」
思わず立ち上がる雄三。
だが正和は首を振った。
「即死だったって……」
その一言で、すべてが終わった。
「そんな……」
言葉が続かない。
現実が、まるで自分の外側で起きている出来事のように感じられる。
理解が追いつかないまま、時間だけが過ぎていった。
通夜と葬式は、気が付けば終わっていた。
雄三は長男として喪主を務めた。何をどうしたのか、自分でもよく覚えていない。ただ、求められる役割を淡々とこなしていただけだった。
すべてが終わった後、ようやく静けさが戻る。
そして同時に、ぽっかりと穴の開いたような空虚が残った。
唯一、自分を理解してくれていた存在が、もういない。
雄三は部屋の隅に座り込み、何も考えられずにいた。
そこへ、正和が声をかける。
「兄貴!いつまでもそうしてるわけにはいかないぞ。兄貴の時間は止まってるかもしれないが世の中の時間は流れてるんだ」
その言葉は冷たくもあり、現実そのものでもあった。
「そうだな。いつまでも落ち込んでるわけにはいかないな」
雄三はゆっくりと顔を上げる。
声に力はないが、わずかに前を向こうとする意思があった。
「そうだよ。それで、ちゃんと遺産の話をしよう」
「分かった」
短く答える雄三。
感情を挟む余地のない、現実的な話だ。
「会社は俺が継ぐ。それでいいな?」
「ああ。俺は会社の事は分からんし、お前は大学出てからずっと取締役として会社を見てきたんだ。お前が継げば誰も文句は言わないだろう」
迷いはなかった。
それが最も合理的で、誰にとっても都合が良い結論だった。
「物分かりが良くて助かるよ。当然、会社がらみの資産も全部俺が引き継ぐ。そうすると残りは現金が一億ほどだ。会社にも現金は必要だから二千万円はこちらでもらう。残りの八千万円は兄貴に渡す」
事務的な口調で淡々と告げる正和。
「相続税を引かれて七千万円か七千五百万くらいになるかもしれないが充分だろ」
「ああ、それで良い」
雄三はうなずく。
金額の多寡に対する実感は、あまりなかった。
「それから、この八千万円は遺産であるとともに、手切れ金だ。俺は今後一切、兄貴の面倒は見ないからそのつもりでいてくれ」
その言葉には、わずかな緊張が混じっていた。
「分かったよ」
雄三は静かに答える。
「どんなに困っても頼ってこないでくれよ」
「ああ。どんなに困ってもお前を頼ったりしないし会社にも迷惑はかけない。約束するよ」
短い沈黙が流れる。
「そうか。分かってくれて良かったよ。じゃあな、兄貴」
そう言って、正和は背を向けて歩き出す。
その背中に、雄三が声をかけた。
「でもな」
正和が足を止める。
ゆっくりと振り返る。
「お前は困ったら俺を頼って来いよ」
「え?」
一瞬、意味が理解できなかったような顔。
「俺はお前を頼らない。でもお前は困ったら俺を頼れ。その時俺に何ができるかは分からないが、本当に困ったら頼って来いよ。たった一人の兄なんだから」
雄三の声は、驚くほど落ち着いていた。
強がりでもなく、怒りでもなく、ただ事実を告げるような声音だった。
「兄貴……」
正和の表情が揺れる。
しばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「俺さ……母さんがあんな風だったから一緒になって兄貴の事、小馬鹿にしてたけど、兄貴が時々見せる頭の良さが妬ましかった。だから余計にあんな態度とってしまってた」
それは初めて聞く本音だった。
「俺はさ、努力して努力して努力して、父さんのお陰もあってやっと今の地位にいる。だけど、兄貴なら……その頭脳を良い方に活かせればたった一人で努力もせずに俺より良い地位にいけると思う」
言い終えると、正和は目を逸らした。
そしてもう一度だけ兄の方を見て、小さくうなずく。
それ以上は何も言わず、今度こそ背を向けて歩き出した。
部屋には再び静けさが戻る。
雄三はしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがてゆっくりと視線を落とし、ぽつりと呟く。
――後悔しない人生、か。
父の言葉が、今になって胸の奥に沈み込んでいく。
失ったものの大きさは、取り返しがつかない。
だが――。
これからどうするかは、まだ自分で選べる。
雄三は静かに息を吐いた。
その目には、ほんのわずかだが、これまでになかった光が宿り始めていた。




