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第二章 後悔しないために

 五年前――。

田所雄三、三十歳。無職の引き籠り。

 父・田所源蔵は二十八歳で株式会社田所建設を立ち上げ、一代でそこそこ大手にまで伸し上げたやり手である。現場上がりの叩き上げで、荒っぽさは残るものの、仕事に関しては徹底していた。

 源蔵は三十二歳の時に片山薫と結婚し、やがて男児が生まれる。夫婦ともに加山雄三のファンだったことから、名前は雄三と名付けられた。

 しかしその幸福は長く続かなかった。

母の薫は、雄三が三歳の時にくも膜下出血で急逝する。享年三十一歳であった。

 それから二年後、源蔵は三上敦子と再婚する。ほどなくして雄三の弟、正和が生まれた。

 源蔵は亡き前妻の忘れ形見である雄三を可愛がったが、敦子は自分の息子である正和のみを溺愛し、雄三には露骨なまでに冷淡だった。おもちゃも菓子も、買い与えられるのは正和だけ。雄三には何も与えられなかった。

 やがて雄三にADD(注意欠陥障害・ADHDの不注意優勢型)の兆候が見え始めると、その扱いはさらに露骨になる。叱責は増え、無視される時間も長くなった。

居場所は、次第に家の中からも削られていった。

 高校に進学した雄三は、半年ほどで通学をやめる。やがて部屋に閉じこもるようになり、一年で中退した。

 それから三十歳まで――。

 源蔵から小遣いをもらいながら、外に出ることもなく、ずっと引き籠りを続けている。

部屋のカーテンは昼間でも閉められたまま。時間の感覚は曖昧になり、昼夜の区別すら希薄だった。

 そんな部屋のドアが、ノックもなく開いた。

「雄三、入るぞ」

源蔵がいつものように遠慮なく踏み込んでくる。

「何?」

ベッドの上で寝転んだまま、雄三が顔だけを向ける。

「雄三。まだ、仕事する気にはなれんのか?」

まっすぐな問いだった。

「ああ」

短く、素っ気ない返事。

だが源蔵はため息ひとつつかず、話を続ける。

「しかし、このままという訳にもいかんだろう。俺が生きてるうちはいいが、年齢的に考えれば俺の方が先に死ぬんだ。そしたら、どうする?五十代、六十代になって弟に養ってもらうつもりか?正和だってその頃には家庭もあるだろうから、そういう訳にはいかないんだぞ」

「分かってるよ。でも、この年まで職歴も無く、学歴も無い俺に何ができるって言うんだ」

言い返しながらも、その言葉に力はない。

「それも、お前が選んだ人生だろ。今から定時制や通信制の高校で高卒の資格を取ったっていいじゃないか」

「今更……」

雄三は目を逸らす。

だが源蔵は言葉を重ねる。

「お前は頭は良いんだから、それを活かすのも良いだろう」

「頭なんか良くないよ。学校の成績だって良くなかったし」

即座に否定する雄三に、源蔵は静かに首を振った。

「学校の勉強が出来る・出来ないと頭の良し悪しは違うんだよ。お前の母さんは、学校の勉強はあまりできなかったが頭は良かった。お前はそういうところは母さんに似たんだよ」

その言葉に、雄三の視線がわずかに揺れる。

源蔵は一歩だけ部屋の中へ進み、ゆっくりと続けた。

「お前の人生だ。お前が好きなように生きれば良い。だけどな……後悔はするな」

その声音には、いつもの豪放さはなかった。

「俺はな、お前の母さんとは三年しか一緒にいられなかった。でもお前の母さんと結婚したことを後悔してはいない。お前という子供が生まれてきたこともな」

雄三は何も言えず、ただ父を見ている。

「高卒の資格を取る気が無いなら、高卒の資格なんて無くて良かったと思う人生を送れ。高卒の資格を取る気があるなら高卒の資格を取って良かったと思う人生を送れ。三十過ぎまで引き籠りで良かったと思えるような人生を送れ」

 源蔵はそこで一度言葉を切り、少しだけ笑った。

「お前が何かしたいなら、俺が生きてる内なら俺が力を貸してやる。とにかく後悔しない人生を送ってくれ」

「親父……」

雄三の口から、思わずその言葉が漏れる。

「明日から敦子と一緒に名古屋へ出張だ。一週間で帰ってくるから、それまでよく考えてみてくれ。それじゃあな」

そう言って踵を返しかけ、ふと思い出したように振り返る。

「あ、そうそう。会社はともかく、家には盗られるようなもんもないし、自宅警備員は、もう必要ないからな」

軽口を叩きながら、源蔵は笑って部屋を出て行った。

ドアが閉まる音が、やけに静かに響く。

 しばらくして、雄三はゆっくりと体を起こした。

視線は、何もない床をぼんやりと彷徨う。

「確かに、ずっとこのままって訳にはいかないな……何か考えてみるか……」

小さく呟いたその言葉は、誰に聞かせるでもなく、部屋の中に消えていった。

だがその時、ほんのわずかに――。

止まっていた時間が、動き出していた。

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