第十二章 歪んだ献身
夜の病院は、昼間とはまるで別の建物のようだった。
白く均一だったはずの壁や床は、静寂の中でどこか冷たく沈み、足音一つで均衡が崩れそうな緊張を孕んでいる。
その静けさの中に、一つの影が紛れ込んでいた。
建物の外から見上げた時点で、もう確信はあった。
彼女はここにいる。あの男も、同じ場所にいる。
胸の奥にじわりと広がる感情は、焦りでも怒りでもない。
もっと静かで、もっと粘ついたものだった。
(やっと見つけた)
思考は澄んでいる。むしろ、これまでで一番冴えているとさえ思えた。
ここに至るまでのすべては、この瞬間のためにあったのだと、疑いなく信じている。
ポケットの中で指先が触れる金属の感触が、現実をはっきりと形にする。
それは単なる道具でしかないが、同時に“意思”を実現するための媒介でもある。
(間違っていない)
内側で声がする。
(これは必要なことだ)
彼女は分かっていない。
自分がどれだけ危うい場所に立っているのかも、誰が本当に守っているのかも。
あの男は違う。
近づき、言葉をかけ、信用を得て――奪う。
それが分かる。
分かってしまう。
だから、排除しなければならない。
それだけの話だ。
夜間出入口を抜け、院内へ足を踏み入れると、消毒液の匂いが鼻を刺した。
白い光に照らされた廊下は人気がなく、遠くで機械音が一定のリズムを刻んでいる。
その無機質な環境は、かえって都合が良かった。
感情が入り込む余地がない。だからこそ、自分の中の論理だけが際立つ。
歩きながら、頭の中で状況を整理する。
彼女はあの部屋にいる。
あの男も、動けない状態でそこにいる。
逃げ場はない。
(終わらせるだけだ)
それは決して衝動ではない。
むしろ、長い時間をかけて磨かれてきた結論だった。
廊下を曲がる。足音は極力抑え、重心を流すように移動する。
夜の病院は音に敏感だ。余計な注意を引く必要はない。
視界の端にナースステーションが入るが、今は無人だった。
巡回のタイミングも、位置も、すべて計算のうちにある。
そのこと自体が、どこか心地よい。
(完璧だ)
そう思う。
自分のやっていることに、一切の迷いがないことが、何よりの証明だった。
ポケットからナイフを取り出す。
折りたたまれた刃を展開すると、金属が小さく鳴った。
その音さえも、この静寂の中ではやけに鮮明に響く。
だが、不思議と不安はなかった。
むしろ、その鋭さが頼もしく感じられる。
(これで守れる)
彼女を。
誰にも奪わせない。
そう考えた瞬間、胸の奥にわずかな高揚が生まれる。
それは恐怖ではない。躊躇でもない。
むしろ、達成を目前にした静かな期待に近いものだった。
廊下の奥に、目的の扉が見えてくる。
プレートには、無機質な文字が並んでいる。
患者名――田所雄三――
――面会謝絶――
その言葉に、わずかに口元が歪む。
(意味がない)
そう思う。
本当に必要な者を拒む理由にはならない。
ドアノブに手をかけると、冷たい感触が伝わる。
ゆっくりと力を込め、音を立てないように回す。
扉がわずかに開く。
中は暗い。
しかし、気配はある。
(いる)
確信が深まる。
ゆっくりと足を踏み入れる。
その瞬間。
視界が一気に白く弾けた。
照明が点く。
同時に、背後と左右から気配が立ち上がる。
「動くな!」
低い声が重なる。
「しまった!罠か……」
男が舌打ちする。
思考は一瞬で整理される。
だが、それでも足は止まらない。
ここまで来て、止まる理由がない。
ナイフを構える。
視線の先――ベッドの上の影。
あの男。
排除すべき対象。
それだけは、何があっても揺るがない。
一歩、踏み出す。
その動きに、迷いはなかった。
その正面。
ベッドの上で、ゆっくりと上体を起こす男。
腹にはまだ包帯。
だがその目は、はっきりと獲物を捉えていた。
「待ってたよ。水上龍樹」




