どす黒い感情
午後のオフィス。
書類をめくる音とキーボードの打鍵音が混ざる中、
彼はひとり、落ち着かない呼吸をしていた。
——美桜。
偶然だ。
偶然であってほしい。
でも、田島のスマホに表示された名前は
あまりにも鮮明だった。
彼は席を立ち、
営業フロアへ向かう。
“たまたま通りかかった”ように見せかけて、
田島のデスクの前で足を止める。
「田島、さっきの資料の件だが」
自然な声を装う。
探りを入れているなんて悟られたくない。
田島は振り返り、軽く笑う。
「部長、どうしました?
あ、今日ちょっと早めに上がりたいんすよね。
本命のほうの予定が急に空いたんで」
胸の奥が、
じわりと熱くなる。
「……そうか」
「はい。美桜は今日、残業らしいんで。
あいつ、俺にそこまで期待してないっすよ。
暇なときだけ会う感じで」
暇なときだけ。
その言葉が、
彼の中の何かを静かに軋ませた。
——美桜が、そんな扱いを受けている?
信じたくない。
でも、確かめたい。
彼は深く息を吸い、
自然を装って尋ねた。
「……田島」
「はい?」
「その……美桜って、苗字は?」
田島は特に警戒もせず、
あっさり答えた。
「え? 水瀬っすよ。
水瀬美桜」
その瞬間、
彼の胸の奥が、
一瞬だけ冷たくなる。
——一致した。
珍しい名字。
忘れようがない名字。
10年前、
文化祭の準備で彼女が落とした
“MM” の刺繍入りのハンカチ。
あのときのイニシャル。
あのときの名前。
全部が一気に蘇る。
「……そうか。仕事に戻れ」
短く言って、
彼は踵を返した。
背中に田島の軽い声が追いかけてくる。
「部長って、恋愛に厳しいっすよね〜」
違う。
厳しいんじゃない。
彼女が、そんな扱いを受けるなんて許せないだけだ。
偶然じゃない。
もう、偶然では済まされない。
そして——
とんでもなくどす黒い感情が、
胸の奥からせり上がってきた。
仕事中に、部下に対して、
こんな感情を抱くなんてありえないのに。
それでも止められなかった。




