澱む彼の感情
夜桜の下を歩きながら、
ふと彼は思った。
——たまには、昼の桜も見てみたいものだな。
仕事ばかりの毎日で、
季節をゆっくり眺める余裕なんて
ずっとなかった。
卒業式のときも、
校庭の桜が咲いていたはずだ。
あの日、
彼女のハンカチを返せないまま
卒業してしまった。
探していただろうか。
いや、そんな素振りは見えなかった。
むしろ——
俺のことなんて、覚えているだろうか。
胸ポケットの封筒が、
歩くたびに小さく揺れる。
自分はきっと、
彼女を見たらすぐにわかる。
10年経っても、
あの横顔を忘れたことはない。
今度こそ想いを伝えたい。
そう思っている。
でも、あともう少し足りない。
まだ“親の脛をかじってる”と思われるかもしれない。
そんな不安が、
胸の奥に黒い影を落とす。
夜桜はこんなにも綺麗なのに、
心の中は澱んだままだ。
そして、
一番怖いことが頭をよぎる。
——もし彼女が、
もう誰かと付き合っていたら。
結婚していたら。
その瞬間、
胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
耐えられない。
そんな未来だけは、
どうしても想像したくなかった。
夜桜の花びらがひとひら、
彼の肩に落ちた。
その淡い色とは裏腹に、
彼の感情は静かに、
深く沈んでいく。




