第五九章 表裏一体表裏不一
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと台湾華語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
数週間後、阪海工を取材した記事が『野球郎』のウェブサイトへ掲載された。
記事の見出しは――
『メジャー級のインスラ! 公立の雄・阪海工を導くエース藤田迅真』
藤田先輩を中心に、阪海工野球部の三年生たちを紹介する記事だった。
内容は堅実にまとめられていた。
一時的に高校野球のインターネット掲示板でも話題になり、SNSでは高校野球を専門に扱うインフルエンサーたちが記事を共有し、それぞれ意見を交わしていた。
しかし、その盛り上がりは可もなく不可もない程度のものだった。
数日もすると、プロ野球の新しい話題に押し流され、ほとんど見かけなくなった。
あの日、谷口が二年生の林友達と日空南極へ行った取材については、記事の中でまったく触れられていなかった。
部活が終わったあと、更衣室で着替えていた二年生たちは、その理由を勝手に推測した。
おそらく日空南極の受け答えがあまりにも退屈で、記事にする価値がなかったから、丸ごと削られたのだろう。
その言い方に、南極は少し納得がいかなかった。
自分は最初から取材を受けるつもりなどなかった。
だから『野球郎』の記者も、自分と友達のことを記事に書かなかっただけだと、何度も強調する。
一方、友達は記事に載らなかったことへ安堵していた。
あのとき、南極が突然自分を記者の前へ押し出したため、腹を立てた友達は、南極について余計なことをいくつも暴露してしまった。
思い返せば、やはり自分は感情を抑えられていなかったのだと思う。
その場の勢いで、あんな子供じみたことをしてしまった。
「だったら、お前らの中に、取材を受けて立派に答えられるやつがいるのかよ!」
流星たちに散々からかわれ、南極は苛立ったように問い返した。
最初に騒ぎ始めた流星と蓮は、すぐに自分たちは取材など受けたくないと言った。
匿名掲示板で好き勝手に騒ぐ側で十分らしい。
田中廉太も、自分には無理だと答えた。
兄が取材を受ける前に準備していた姿を、実際に見たことがあるからだ。
話し方を練習し、失礼のない受け答えまで考えなければならない。
自分が兄のように振る舞えるとは、廉太には思えなかった。
「一般的な高校球児のイメージなら、宇治川君が向いているかもしれません」
隣にいた小林が言った。
「俺が?」
宇治川は意外そうな顔をし、首を横に振った。
「無理だろ。取材を受ける選手には、ある程度顔のよさも必要なんじゃないか? それに、見た人の記憶に残る特徴もいる。二年生で、顔がよくて、しかも印象に残るやつといえば……」
顔がよくて、印象に残る人物。
宇治川の言葉を聞いた榮郎は、彼とまったく同時に、ある人物を思い浮かべた。
二人はそろって、柴門玉里へ視線を向ける。
皆に背を向けていた玉里が、長い髪を手で払った。
その髪は、まるでシャンプーのCMのように艶やかに揺れ、光を放っている。
白い肌と整った横顔も相まって、本物の野球部員とは思えない姿だった。
まるでスポーツ漫画に登場し、女子から絶大な人気を集める王子様のようなキャラクターである。
正直なところ、阪海工の部員たちもスポーツ漫画を読むことはある。
しかし、顔がよく、肌もきれいで、競技の実力まで高い人物など、漫画の中だけに存在する幻想だと思っていた。
ところが柴門玉里は、まさにその姿のまま、彼らの目の前に実在している。
あまりにも反則だった。
「あいつ、女装も化粧もしなければ、たぶん学校一の美男子になれるよな」
宇治川が言った。
すると、背中を向けていた柴門が口を開く。
「聞こえてるよ。本人のいないところで悪口を言う、野球部のブサイクども」
「外見よりも先に直すべきなのは、彼の性格です」
小林が率直な事実を口にした。
「ええっ! 小林君、それはさすがに失礼だよ」
榮郎は、小林の容赦ない発言に冷や汗を流した。
「そんなこと、小林に言われなくても自覚してる。だから私も、取材なんて受けるつもりはないよ」
女子生徒用の制服へ着替え、髪を払った柴門玉里は、当然のことのように言った。
「監督たちだって、女装した男が記事に出て、野球部の取材内容が全部そっちへ持っていかれるのは困るでしょ? SNSにも、いちいち大騒ぎするおじさんやおばさんが絶対に湧いてくるし」
玉里は吐き捨てるように続ける。
「『オカマ』『変態』『素行不良』って、好き勝手に罵るんだよ。下手をしたら、野球部だけじゃなくて学校全体まで批判されるかもしれない」
着替えを終えた玉里は、いくつものチャームがついた鞄を肩に掛けた。
その姿は、野球部の男子部員にはまったく見えない。
買い物を終えて帰ろうとしている女子高校生そのものだった。
「日本って、何でも連帯責任にして、他人のことに首を突っ込みたがる社会だから。じゃあ、私は帰るね。バイバイ」
「あっ、柴、柴門君! その、少し待って! ま、待ってよ!」
柴門が立ち止まる様子を見せないため、金井榮郎は慌てて靴下を履いた。
学校指定の革靴を履き、野球バッグを背負うと、急いでそのあとを追いかけていく。
「あの二人、一緒に帰るくらい仲がいいのか? まさか柴門と金井って、付き合ってるんじゃないだろうな?」
廉太の言葉に、宇治川は一瞬、呆気に取られた。
「まさか。金井は、柴門が好きになりそうなタイプには見えないだろ。それに柴門は、あんな最悪な性格なのに、学校ではあいつに好意を持ってる男が大勢いるし」
「ろくでもない男ばかりに言い寄られてるから、金井みたいに真面目で、しかも実家に金のあるやつを選んだのかもしれないぞ」
廉太が言った。
「二人の想像を邪魔して申し訳ありませんが……一番大切なことを忘れていませんか?」
すでに着替えを終えていた小林は、眼鏡を掛けながら言った。
廉太と宇治川が、不思議そうに小林を見る。
小林は率直に指摘した。
「柴門君は男性です。女性の立場に置き換えて考えること自体が、少し違うのではないでしょうか」
その言葉を聞き、二人はようやく気づいた。
柴門玉里が女装している姿をあまりにも見慣れていた。
しかも、あの反則的なほど整った顔である。
そのため宇治川も廉太も、無意識のうちに柴門を女子として扱い、二人の関係を考えてしまっていたのだ。
「それなら、小林は柴門と金井の関係を何だと思う?」
廉太が尋ねた。
小林は少し考えたあと、答えた。
「……女王様と奴隷でしょうか」
「お前の考えが一番ひどいじゃないか!」
宇治川は、たまらず突っ込んだ。
谷口たちのように、高校生の選手を中心に扱うウェブメディアでは、編集者が原稿を書き終えたあと、取材先の学校へ内容を送り、何度も確認を受けることが多い。
学校側の了承を得て、初めてウェブサイトへ掲載できるのだ。
もちろん、阪海工も例外ではなかった。
白井監督は、谷口から送られてきた記事の草稿を確認していた。
しかし最初から最後まで、二年生への取材については一言も触れられていない。
書くほどの価値がないと判断したのか。
それとも、何か別のことを考えているのか。
白井は、谷口の草稿と、実際に掲載された記事を思い返した。
さすが、長年野球を扱ってきた老舗メディアの記者である。
文章は非常にうまかった。
見出しに「メジャー級」と書かれているところは、多少、読者の関心を引くために誇張しているようにも感じられる。
それでも内容は、チームを扱う視点も、各選手についての書き方も節度を保っていた。
藤田の投球が持つ魅力も、過剰に持ち上げることなく、十分に伝えている。
そういえば、片岡はどこで谷口という編集者と知り合ったのだろう。
まさか、またプロ野球選手である兄の人脈を使ったのだろうか。
白井は考えた。
現在、白井と片岡は、夏の大会へ登録するメンバーをめぐり、何度も会議を重ねている。
以前に比べれば、片岡の強硬な態度は少し収まっていた。
しかし白井が主張する「三年生全員を試合に出す」という方針については、今も認めていないようだった。
特に厄介なのは、片岡が一年生の岩崎隼人を試合へ出したがっていることだ。
岩崎が、かつて侍ジャパンU-15の投手に選ばれたことまで知っている。
それだけでも、片岡が岩崎について十分に調べていることはわかる。
しかし――片岡は岬阪で生まれ育った人間ではない。
地元の者でなければ、知ることのできない事情もある。
「普通の、野球が好きな生徒として扱えばいい。わざわざ何かを聞き出そうとしたり、特別に気を配ったりする必要はない」
以前、居酒屋で高橋前監督が白井にそう話したことがあった。
高橋は、あえて少しだけ事情を匂わせながら、すべてを語ろうとはしなかった。
それだけでも白井には、岩崎という生徒の家庭環境が単純ではないことを、おおよそ察することができた。
岬阪町の商業施設は、古い店と新しい店が入り交じる商店街に集中している。
町で唯一、繁華街と呼べる場所だった。
一方、工場や工業地帯に近い地域には、「寅壱」のような作業服を扱う量販店や、釣り具専門店、金物店などが点在している。
その中に、『高橋スポーツ』という名前のスポーツ用品店があった。
店を経営している老人の姓は、一年生の岩崎隼人と同じ「岩崎」である。
岬阪町のような小さな土地で、同じ岩崎という姓を持ち、しかも高橋前監督と昔から付き合いのある人物だった。
それだけの情報がそろえば、白井にも岩崎隼人と店主の関係は簡単に推測できた。
ひとり親家庭や、祖父母による養育そのものは、現在ではそれほど珍しいことではない。
しかし、スポーツ用品店の老人の身体には刺青がある。
若い頃、何かしら、まっとうではないことに関わっていたのは明らかだった。
もしそれが、岩崎がU-15代表に選ばれながら、強豪校へ進学できなかった理由なのだとすれば――。
岩崎の家庭問題は、現在もまだ続いているのかもしれない。
住民票は岬阪町にあり、店から学校までは四十分ほどで通える。
それでも岩崎は、あえて男子寮で暮らすことを選んだ。
その点を考えると、夏の大会や外部の取材など、人目に触れる場所へ岩崎を出すことについては、慎重に考える必要があると白井は感じていた。
さらに、阪海工野球部の最大の支援者である佐久間圭一の母親からも、遠回しに注意を促すようなことを言われている。
彼女は地方ホテルチェーンを経営する家の娘であり、現在は野球部の保護者会でも大きな影響力を持つ人物だった。
「保護者の立場から、あまり口を出すべきではないとは思っています。ただ白井監督には、各選手の家庭環境についても、少し気を配っていただいたほうがいいかもしれません」
佐久間の母親は言った。
「何かが起きてからでは、生徒本人にも学校にも、困ったことになりかねません。もちろん、これは保護者会の一員として、そして一人の母親としての意見にすぎません。最終的にどのように判断されるかは、すべて白井監督にお任せします」
校長からも、新しい指導体制のもとで、野球部に何らかの成果を出してほしいと期待されていた。
阪海工で最大規模の運動部である野球部や柔道部が結果を残せば、学業と部活動を両立する学校として、新しい印象を作ることができる。
そうなれば阪海工は、かつての「不良校」という悪評から、完全に抜け出せるかもしれない。
誰もが、あくまで助言として言葉を伝えている。
しかし、その一つ一つが白井にとっては大きな重圧になっていた。
高橋前監督も、長年このように、保護者と学校の間を調整し続けてきたのだろうか。
本当に大変だったのですね、高橋監督。
白井は深いため息をついた。
「今日は見に来ないのかと思った」
グラウンドで三年生の練習を見ていた片岡は、トレーニングウェア姿の白井が近づいてくるのを見て言った。
白井は片岡の隣に立った。
グラウンドでは、三年生たちが赤土と泥にまみれながら、練習を続けている。
「来ないわけがないでしょう。もう六月です。六月の終わりには、沖縄大会が始まりますから」
通常、夏の地方大会は沖縄から最も早く始まる。
それは全国の高校球児にとって、夏の選手権へ向けた戦いの始まりを告げる前触れでもあった。
「その頃には、私たちの夏も始まります」
白井は言った。
「何週間も続けて、三年生を私に任せていたでしょう」
片岡が尋ねた。
「私があの子たちのプレーを見続ければ、登録メンバーについて考えを変えるかもしれない。そう期待していたんじゃないの?」
「まさか。第一線を退いたばかりのあなたのほうが、大会を見据えた選手起用や調整には、私より向いていると思っただけです」
白井は答えた。
「もちろん、考えを変えてほしいという気持ちも、多少はありましたけどね」
白井は続ける。
「ただ、二人の指導者が意見を対立させたまま、この状態を続けることは、チームにとってよくないと思っています」
「それなら、私たちの問題をどうやって解決するつもり?」
「片岡、一つ取引をしませんか?」
「取引?」
「ええ、取引です」
白井はグラウンドを見たまま告げた。
「あなたが監督に就任してください。私は助監督兼部長に回ります」
片岡は、白井がまた選手たちの気持ちを持ち出し、自分を説得しようとするのだと思っていた。
しかし突然、阪海工野球部の監督を任せると言われ、片岡里子は驚いて白井を振り返った。
白井は、まだグラウンドを見つめている。
片岡は表情を引き締めた。
「白井修吾。監督の座を私に渡すことが、何を意味するのかわかっているの?」
「ええ。それでも、あなたには監督を務めるだけの能力があると思っています」
「馬鹿なことを言わないで。私が監督になれば、試合中、あなたはグラウンドへ出て指示を出せなくなるのよ」
「でも、あなたがグラウンドにいる」
白井はそこで初めて、片岡里子へ顔を向けた。
「選手たちのことも、あなたのことも、私は信頼しています。短期間で彼らをここまで成長させたのは、あなたです」
白井は続けた。
「トレーニングルームの整備も、合宿形式での強制入寮も、食事管理も、すべてあなたが提案し、実現させた。だから試合中の采配は、あなたに任せることが正しいと考えました」
「私が監督になれば、登録メンバーは……」
片岡は途中で言葉を止めた。
そして、すぐに白井の意図を理解する。
「なるほど。だから『取引』なのね?」
片岡が監督になれば、グラウンドで選手を指揮し、試合の勝敗を左右する采配を担うことになる。
しかし、高野連へ登録選手の資料を提出し、学校側の唯一の窓口となるのは、部長を務める白井だった。
つまり、夏の大会へ登録する二十人については白井が最終的に決定する。
その一方で、登録された選手の中から誰を先発させ、どのように交代させ、どの戦術を使うのかは、監督である片岡に任される。
片岡は、登録メンバーの決定権を手放さなければならない。
しかし代わりに、阪海工野球部を、自分が理想とする戦い方のできるチームへ鍛え上げる機会を得られる。
あまりにも大きな誘いだった。
白井が「取引」と表現した理由も理解できる。
「少し考える時間が必要です」
「今日中に答えを聞かせてください」
「随分と急ぐのね」
片岡は尋ねた。
「今日の、いつまで?」
「……三年生の練習が終わるまで待ちます」
白井が答えた。
「普段はまったく積極的に見えないのに、白井は突然アクセルを踏み込んで、暴走を始めることがあるわね」
「アクセルを踏むまでに、随分長い間、考えていますから」
「確かにね。それはつまり……私にも一緒にアクセルを踏めということ?」
「さあ。それを決めるのは、あなたでしょう?」
片岡監督。
※※※※
「突然、私を追いかけてきて、何の用?」
自転車を押していた柴門は、息を切らしながら駐輪場へ駆け込んできた榮郎を見た。
榮郎は激しく息をしながら、柴門を見つめる。
柴門は、自分が後ろから追いかけていることに気づいていたはずだ。
それでも一度も振り返らず、早足で駐輪場まで歩き続けた。
自転車を引き出してから、ようやく榮郎へ振り返り、どこか面白がるような表情を浮かべている。
少女のように美しい顔立ちも相まって、その姿は、高慢なお嬢様のように見えた。
「はあ、はあ……俺、柴門君に話があって……その、いろいろあって、だから柴門君に……」
「私に話?」
柴門玉里は興味深そうに尋ねた。
少し考えると、小悪魔のような笑みを浮かべる。
「まさか榮郎……私に告白するつもり?」
「えっ?」
息を切らしていた金井榮郎は、柴門の言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
思考が完全に停止する。
数秒間固まったあと、ようやく驚きの声を上げた。
「えええええ――っ!」
表情まで大げさに崩し、慌てて否定する。
「ち、違う! そういうつもりじゃない! その、俺にはそんな意味はなくて! 柴門君!」
顔が一瞬で真っ赤になった。
本当に面白い。
榮郎の反応を見た柴門は、楽しくなってきた。
しかし榮郎が、自分にはそのつもりがないと繰り返すのを聞くと、今度は傷ついた少女のような表情を浮かべた。
「そのつもりはないって……つまり、私には魅力がないってこと?」
「ええええっ! ち、違う! そうじゃなくて! その、柴門君は前からずっと、ずっと……」
ものすごくかわいい!
「えっ?」
「あっ」
「柴門君は、ものすごくかわいい!」
金井榮郎は、突然大声で言ってしまった。
榮郎をからかっていた柴門まで、呆気に取られる。
言った本人も、なぜそんな言葉が口から出たのかわからなかった。
駐輪場に立つ二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
榮郎は壊れた機械のように、その場で完全に停止している。
指一本動かさない。
先に沈黙を破ったのは、やはり柴門だった。
「私は、からかっただけなんだけど。そんな恥ずかしいことを、大声で言わなくてもいいでしょ?」
柴門は停止した榮郎へ近づき、その身体を強く揺さぶった。
「ほら、しっかりして、金井。ねえ! 自分であんなことを言っておいて、自分で固まらないで。魂を戻して、榮郎」
「えっ? ああっ! はい、はい! すみません。その、本当に申し訳なくて! とにかくごめんなさい。だから、すみません……」
「もういいから、謝るのをやめて!」
柴門玉里は苛立った声を上げた。
「結局、何を話したかったの?」
球場を離れた金井榮郎と柴門玉里は、二人でファミリーレストランへ入った。
柴門の母親が、金井家を通じて、他県でしか販売されていない数量限定の日本酒を注文していたらしい。
榮郎の実家は酒類の卸売業を営んでいる。
家族から頼まれた榮郎は、同じ部活に所属する柴門へ、すでに届いて代金も支払われている酒を、部活後に持ち帰ってほしいと伝えに来たのだった。
「そういうことだったんだ。悪かったね。母が、榮郎の家に迷惑をかけて」
柴門は表面上、榮郎へ謝った。
しかし心の中では、自分の母親へ文句を言っている。
こんなふうに都合よく、高校生の子供へ酒を運ばせるのはやめろと、何度も言ったはずなのに。
以前も、コンビニへ行くついでに煙草を買ってきてほしいと頼まれた。
まったく、あの女には親としての自覚があるのだろうか。
「つまり母は、部活が終わったついでに、私へ酒を持って帰らせたかっただけ?」
「うん。話を聞いた限りでは、そうみたい……」
「それだけ? ほかには何もないの?」
「た、多分、それだけだと思う……」
柴門は何度か確認した。
しかし最初から最後まで、本当に家族から酒を渡すよう頼まれただけらしい。
そのために、わざわざ榮郎へ伝言を頼んだのだ。
柴門はファミリーレストランのテーブルに置かれたティーフロートを見ながら、ため息をついた。
「それだけの話なら、わざわざファミレスに入る必要なんてなかったじゃない。まったく」
「あっ、本当にごめん」
柴門の不満を聞き、金井は反射的に謝った。
「ねえ、榮郎の家って酒屋なんだよね?」
柴門は小さなスプーンで、紅茶の上に浮かぶアイスクリームをすくいながら言った。
「そのせいなのかどうかは知らないけど、榮郎は何かあると、すぐに謝るよね。先生や監督を相手にしているなら、まだわかる。でも、少なくとも私たちは同級生でしょ? それにチームメイトでもあるんだから……」
柴門は榮郎を見た。
「謝る必要のないことで謝られると、かえって腹が立つんだよ」
そう言いながら、柴門はスマートフォンを操作し始めた。
そして、ぼそりと付け加える。
「飲み物を注文するときまで、店員さんに『同じものでいいです』って。何なの、それ……」
「そ、そうだね。本当にすみ――あっ……確かに、そのとおりだね」
危うく、また反射的に謝るところだった。
柴門玉里から鋭い視線が飛んできたため、榮郎は慌てて言い方を変えた。
正直なところ、柴門の推測は少し失礼ではある。
しかし完全に間違っているわけでもなかった。
実家が卸売業を営んでいるため、金井榮郎は幼い頃から、両親が大阪各地の酒場や、他府県の取引業者と交渉する姿を見て育った。
会話はたいてい――
「お手数をおかけします」
「大変申し訳ありません」
「いつもお世話になっております」
そのような商売上の決まり文句から始まっていた。
それを見てきた榮郎は、自分も同じように振る舞うほうが安全なのだと感じていた。
しかし突き詰めれば、やはり榮郎自身の性格による部分が大きい。
これまで榮郎がいじめられたり、何かひどい目に遭わされたりしたことはなかった。
それでも周囲から、こんなことを言われることは多かった。
「身体はあんなに大きいのに、男らしさが全然ない。もったいないな」
祖父に連れられ、甲子園球場で阪神タイガースの試合を初めて観戦したとき、榮郎は球場の雰囲気に夢中になった。
野球場には、自分が想像していた「男らしさ」が満ちているように感じられた。
おそらく、それが理由だったのだろう。
野球は榮郎の好きなものになり、自分から積極的に参加したいと思える競技になった。
「こういう性格だから、いつまでたっても野球がうまくならないのかもしれないね」
榮郎は苦笑した。
「それは関係ないでしょ?」
柴門が言った。
「野球のうまさと性格なんて、何の関係もないよ。榮郎は野球が好きだから、野球をしてるんでしょ? それに榮郎は、私の言ったことを勘違いしてない?」
「えっ? どういう意味?」
榮郎には、よくわからなかった。
柴門玉里はスマートフォンを置き、榮郎の顔を見た。
「私は、榮郎の性格に問題があるなんて言ってない。ただ、何でもすぐに謝るところが嫌いだって言っただけ」
柴門は続けた。
「それに最近は、朝の体力強化メニュー――あの『阪海地獄』にだって、きちんとついていけるようになったじゃない」
「う、うん」
柴門の言葉は、はっきりと榮郎を褒めたものではない。
それでも、なぜか胸の奥がわずかに高鳴った。
周囲から何を言われても、自分の意思で野球部に入り、美しさを保つことも諦めない柴門。
男子でありながら、女物の服を着ることを当然のように貫いている柴門。
金井榮郎が柴門から目を離せなくなったのは、彼の中にある、矛盾しているようで力強い性質に惹かれたからなのかもしれない。
榮郎は、自分に男らしさが足りないと言われることを、どこか仕方のないこととして受け入れていた。
しかし柴門は、少女のように美しくても、同時に格好いい一面を持っている。
その格好よさは、男らしく見えるかどうかとは関係ない。
自分のあり方を疑わない、その自信から生まれているものだった。
おそらく、それこそが――
柴門玉里という人間から、榮郎がいつも目を離せなくなる理由だった。
「榮郎、ティーフロートを一口も飲んでないよ」
「あっ、本当だ。ごめん……」
榮郎は答えた。
しかし、口にした直後、また反射的に謝ってしまったことに気づく。
気まずくなった榮郎は、顔を伏せ、慌てて飲み物に口をつけた。
柴門は特に気にした様子もなく言う。
「習慣なんて、そう簡単には変えられないからね。でも、それを変えられたら、野球も少しうまくなるかもしれないよ」
「えっ、本当に?」
榮郎は意外そうに顔を上げた。
「謝らないことと、野球がうまくなることに、何か関係があるの?」
「だって、謝るってことは、自分が間違っていたと認めることでしょ? 何となく『自分の負けです』って言ってるみたいじゃない」
柴門は答えた。
「でも謝らなければ、まだ負けを認めてないってことになる。私はね、榮郎って、本当は心の中では――」
とても負けず嫌いなんじゃないかと思う。
「えっ?」
柴門からそんなふうに評価され、榮郎は驚いた。
これまで榮郎の性格については、優しい、善良、親切だと言われることが多かった。
負けず嫌いだと言われたのは、これが初めてだった。
「私は、そういうところもいいと思うけどね」
柴門は笑った。
そしてティーフロートを一気に飲み干す。
グラスの中には、氷だけが残った。
今の「いい」は、何のことだろう。
金井榮郎には、柴門の言葉も、そのときに浮かべた笑みの意味も、よく理解できなかった。
「それより、榮郎はまだ時間がかかるの? 私の家はここから遠いから、暗くなる前に帰りたいんだけど」
「あっ、うん」
柴門に急かされ、榮郎はアイスクリームを食べる速度を上げた。
「ねえ、こうしていると、私たちってデート中の高校生カップルみたいじゃない?」
柴門は手の甲を頬へ添え、上半身をテーブルのほうへ傾けた。
あまりにも艶めかしい仕草だった。
とても野球部の男子がする動作には見えない。
榮郎は口に入れたアイスクリームを、危うく喉に詰まらせそうになった。
「私をあまり待たせないでね」
「は、はい。できるだけ急ぎます……」
最終的に柴門は榮郎の家まで行き、注文していた酒を無事に受け取った。
酒の瓶を鞄へ押し込み、そのまま帰っていく。
柴門の姿が見えなくなってから、榮郎はようやく心の底から息をついた。
これほど長い時間、柴門と二人きりで過ごしていると、ずっと心臓が激しく動き続けている。
まるで有酸素運動をしているようだった。
けれど――。
金井榮郎は、柴門玉里と一緒にいると、いつもからかわれ、ときには叱られることを思い返した。
少し厳しい目を向けられたり、失望したような顔をされたりすることもある。
それでも、不快に感じたことは一度もなかった。
野球の技術がそれほど高くない自分に対しても、柴門は意識しているのかいないのか、いつも大切なことを言ってくれる。
宇治川たちが言っていたとおり、柴門玉里は本当に、漫画に登場する王子様のような人物だった。
「あのきれいなお姉さんも、お兄ちゃんのチームメイトなの?」
「えっ? それは……」
柴門が帰ったあと、榮郎よりも何歳も年下の妹が尋ねた。
女物の制服を着て、少女のように美しい柴門を見たため、女性だと思い込んでいるらしい。
「お兄ちゃんの野球部って、男の子しか入れないと思ってた。女の子も入れるの?」
「えっと……柴門君は、少し特別で……」
「男の子よ」
榮郎がどう説明すればよいのか迷っていると、夕食を運んできた母親が、台所からあっさりと答えた。
その表情には、柴門を奇妙に感じている様子など少しもなかった。
「男の子だって、女の子みたいに自分をかわいく着飾ってもいいのよ」
「そうなの? でも、お父さんはかわいい格好をしてないよ」
榮郎の妹が言った。
「ははは。お父さんが榮郎の友達みたいな格好をしても、かわいくはならないだろうな。多分、怖くなるだけだ」
そのとき、金井家の父親も得意料理を手に、台所から出てきた。
料理を食卓へ置きながら言う。
「初めて見たけど、榮郎の柴門というチームメイトは、本当に大したものだな」
「お父さんも、そう思う?」
榮郎は夕食の茶碗や箸を並べるのを手伝いながら答えた。
「柴門君は女の子の格好をしてるけど、野球ではすごく優秀な遊撃手なんだよ」
「そういえば榮郎、野球部のほうは大丈夫なの?」
母親が尋ねた。
「保護者会の田中さんから聞いたんだけど、新しく来た片岡コーチは、かなりの実力至上主義らしいじゃない。少し心配で」
榮郎には、母親が心配する理由がわかっていた。
小学生の頃に少年野球クラブへ入ってから現在まで、榮郎は目立った成績を残したことがない。
試合の大半を、ベンチに座って過ごしてきた。
そんな息子のために、母親は嫌な顔一つせず、保護者会の活動へ何度も参加してくれている。
そのことを考えるたびに、榮郎は母親へ申し訳ない気持ちを抱いていた。
「その……俺も、一応少しは成長してると思う。多分だけど……」
「あっ、でも、お兄ちゃんはグラブを直したり、ユニフォームを縫ったりするのがすごく上手だよ! そういうのは評価されないの?」
まだ野球のルールを理解していない妹が、無邪気な目で言った。
自分をかばってくれたことは、榮郎にもありがたかった。
しかし、正直に答える。
「残念だけど、それは試合では役に立たないんだ」
「ええっ! どうして?」
「野球の試合であって、裁縫の大会じゃないからな。さあ、料理も全部並んだし、食べよう」
父親が言った。
「いただきます!」
金井家の全員が、そろって声を上げた。
※※※※
阪海工野球部では、毎週日曜日の午後が休みと決められていた。
午前中の朝練、体力強化、技術練習を終えれば、午後からは各選手が自由に過ごせる。
男子寮へ戻ってウエイトトレーニングをするか、グラウンドに残って自主練習を続けるかも、自分で決めることができた。
ただし、グラウンドでの自主練習は、基本的に三年生が優先して使う。
二年生の友達は、男子寮へ移動してウエイトトレーニングを行うことを選んだ。
その日は、二年生全員が週に一度、男子寮へ入ることのできる機会でもある。
三年生や指導者たちに見張られていないため、普段よりも空気が緩み、誰もがのびのびとしていた。
しかし、二年生たちが気を抜きすぎないよう、白井監督は、すでに男子寮で暮らしている南極と友達へ、ほかの二年生を管理するよう言いつけていた。
そう説明する白井監督の顔を見て、友達はすぐに気づいた。
白井は、南極に管理を任せられるとは最初からまったく期待していない。
話している間、ほとんど友達の顔だけを見ていたからだ。
「欸?馬耀,你王貞治盃有上場!幹,真的假的!這不是很猛嗎(えっ? 馬耀、お前、王貞治杯に出たのか! くそっ、マジかよ! すごいじゃん)!」
部屋の中から、途切れることなく台湾華語が聞こえてくる。
南極と二年生たちは廊下に集まり、扉の隙間から室内をこっそり覗いていた。
男子寮では、夜十時を過ぎると電子機器の使用を禁止されている。
そのため友達は毎週、休日になるとノートパソコンを使い、知り合いとビデオ通話をしていた。
相手が家族のときは、日本語と台湾華語を交ぜながら話している。
しかし南極にはまったく理解できない言葉だけを使い、しかも友達が興奮した表情を見せているとき。
それは台湾で一緒に野球をしていた、昔のチームメイトと話しているときだった。
「南極、友達は何を話してるんだ? 通訳してくれよ」
蓮が尋ねた。
「俺だって台湾華語は話せないよ。何を言ってるのか、全然わからない」
南極は答えた。
蓮に言われるまでもなく、南極自身が誰よりも、友達と昔のチームメイトが何を話しているのか知りたかった。
あんなに楽しそうな表情で、いったい何を話しているのだろう。
「台湾に詳しい小林を連れてくれば、友達が何を話してるのかわかるかもしれないぞ」
流星が提案した。
チームの中でも、台湾の物事へ異常なほど強い関心を持っている小林を呼んでくるつもりらしい。
「小林は台湾のものに執着してるだけだ。台湾語まで理解できるとは思えないけどな」
宇治川が言った。
しかし南極は、すぐに振り返って訂正する。
「友達が今話してるのは台湾華語だよ。台湾語じゃない」
「何か違うのか?」
よくわからないまま訂正された宇治川は、困惑した。
「でも、友達があんなふうに、俺たちには全然わからない言葉をずっと話してるのって、何だか格好いいよな!」
流星が言った。
「流星が『流星語』を話してるとき、俺と宇治川も同じ気分だよ。でも、別に格好よくはない」
蓮が答えた。
二人は、その場でにらみ合った。
「そういえば南極、友達の台湾の友人が何て名前なのか、知ってるのか?」
宇治川が尋ねた。
「うん。確か、マヤオって名前だったと思う」
南極は答えた。
「真央?」
「魔王?」
「マヨネーズ?」
「お前たち……後ろの二つは人間の名前なのか?」
「真央」と言った宇治川は、友人たちが口にした「魔王」と「マヨネーズ」に力を失った。
「もう一人、福定っていう友達もいたと思う。今、友達がどっちと話してるのかはわからないけど」
風鈴っていう友達?女の子なのか?
宇治川は考えた。
不貞?何だ、その縁起の悪い名前は。
蓮は思った。
フーディン!格好いい!ポケモンなのか?
流星は目を輝かせた。
「とにかく、友達に直接聞けばいいよ!」
しばらく考えた南極は、結局、本人に尋ねることが一番早いという結論に達した。
宇治川たち三人は、南極がそこまで直接的な行動に出るとは思っていなかった。
止める暇もなく、南極が扉を開く。
扉に身体を寄せていた三人は、そろって室内へ倒れ込んだ。
大きな音が響き、ビデオ通話中だった友達が振り返る。
「お前ら……」
台湾の友人との通話を終えた友達は、床に倒れている三人の盗み聞き犯を見た。
「普通に部屋へ入ってくればいいだろ。何でそんなにこそこそしてるんだよ。台湾の友達にも笑われたじゃないか」
友達は呆れたように続ける。
「お前らがいつもそんなことばかりしてると、台湾の人たちに、日本人は全員変人だと思われるぞ」
「それで友達、何を話してたの?」
友達のベッドへ腰を下ろした南極が尋ねた。
盗み聞きをしたことについて、まるで反省している様子がない。
「日空もだよ。まず、盗み聞きしたことを反省しろ」
「ええっ! でも、盗み聞きしてたのは流星たちだよ。俺はやってない!」
南極は、自分だけは無実だと主張した。
「南極、お前! 俺たちを裏切るのか!」
「今になって自分だけ関係ないふりをするなんて、卑怯だぞ!」
流星と蓮が不満の声を上げる。
宇治川は片手で一人ずつ、二人の顔を鷲掴みにした。
「お前ら二人とも、うるさい。少し黙ってろ」
「馬耀とは、台湾で五月に行われる『王貞治杯』の話をしてたんだ」
これ以上騒ぎが大きくならないよう、友達は先ほどの会話について説明した。
台湾の高校野球では、五月に大きな大会が行われる。
年に一度開催される『大甲媽祖盃王貞治全國青棒錦標賽』――大甲媽祖杯・王貞治全国高校野球選手権大会である。
台湾の野球協会が主催し、「世界のホームラン王」と呼ばれた王貞治の野球界への功績を称えるため、一九九九年に創設された大会だった。
この大会が重要なのは、台湾の高校年代にあたる代表選手の選考を兼ねているからである。
ここで評価され、台湾代表の資格を得ることは、プロ野球を目指す高校球児にとって、大きな足掛かりの一つになる。
ちなみに大会名に大甲媽祖の名がついているのは、大甲媽祖側が大会を支援しているためであり、媽祖と野球そのものに直接の関係があるわけではない。
選手の参加方法も、日本の高校野球とは異なっている。
学校単位で出場するのではなく、各地域の県や市を代表する選抜チームとして戦うのだ。
友達の友人である馬耀は、新北市にある鶯歌高商野球部の生徒だった。
例年、新北市代表は強豪校の穀保家商を中心に編成され、そこへほかの学校の優秀な選手を加えていた。
しかし今年は、その構図に大きな変化が起きたらしい。
穀保家商が高校野球から撤退して野球部を解散し、所属していた選手たちが別の学校へ移ったため、新北市内の高校野球勢力が一気に組み替わったのだ。
その影響もあり、友達と同じアミ族出身である余馬耀は、まだ二年生でありながら王貞治杯の舞台に立つことができた。
それは同時に、二年生の馬耀が、台湾の多くの三年生選手と互角に競えるほどの才能を持っているということでもあった。
「それなら、俺たちが日本代表になれば、友達の友人と対戦できるのか?」
流星が尋ねた。
「そ、それはかなり難しいと思う……」
友達は考えながら答えた。
日本代表に選ばれることは、甲子園へ出場すること以上に難しい。
馬耀のように、打撃を専門に磨いてきた強打者は、どのチームでも得点を生み出す中心選手として必要とされる。
阪海工でいえば、現在の田中龍二先輩に近い役割だった。
それにしても、馬耀の打ち方は――。
友達は考え、流星を見た。
少し似ている。
どちらも、感覚や直感を頼りにボールを打つ打者だ。
しかし、あれから一年以上が経っている。
馬耀の打撃フォームや考え方も、すでに変わっているかもしれない。
ああ、くそっ。
今の馬耀が、どんなふうに打っているのか見てみたい。
今年の王貞治杯の試合映像は、インターネットで探せば見つかるだろうか。
「友達、何を考えてるの?」
友達が急に黙り込んだことに、南極が気づいた。
「うん。実は馬耀から、最近、福定も投球練習を始めたって聞いたんだ」
「えっ、前に友達が話してた、もう一人の背が高い友人?」
「うん。福定は、もともと投手じゃなかった。でも監督は、福定をリリーフとして使いたいらしいんだ。それに福定は、中学生の頃に投手を経験したこともあるから」
友達は少し考え込んだ。
「でも、ずっと守ってきた慣れたポジションを離れて、急に投手へ変わることが、本当に本人にとっていいことなのかな?」
「それは、本人がどう考えるかによるだろうな」
宇治川が答えた。
「チームを勝たせるために、選手のポジションを変えようと考える指導者は確かに多い。でも、昔からずっと一つのポジションを続けてきた選手も大勢いる。投手は、その代表みたいなものだ」
宇治川は続けた。
「ただ、俺も流星も蓮も、友達だって、これまでにいろいろなポジションを経験してきた。そのうえで今のポジションに残っているのは、結局、自分に合っていると思ったからだろ?」
「それなら、投手しかやりたくない俺って、かなりまずいんじゃない?」
南極が言った。
自分はエース投手になることばかり考え、ほかの守備位置について一度もまともに考えたことがないと、今になって気づいたらしい。
「南極は例外だよ」
宇治川は口ではそう言った。
しかし心の中では、別のことを考えていた。
南極は、その例外的な存在だからこそ、自分が最も望んでいるポジションを守り抜くことができるのかもしれない。
「ポジションか……」
友達は宇治川の話を聞き、考え込んだ。
「俺が自分で選べるなら、やっぱり投手を離れたくはないな」
友達は、自分には投手が最も合っていると思っている。
しかし成長が行き詰まっていることも、ほかの投手たちとの競争で十分な力を示せていないことも理解していた。
そのため、どうすれば投手としての居場所を守れるのか、何度も考え続けている。
「自分が投手じゃなくなったら、何となく負けたような気分になるんだよな」
宇治川が言った。
「一度でも投手を経験した人間なら、みんな少しはそう思うんじゃないか?」
「うん。確かにそうかもしれない」
友達は南極を見た。
「日空も、負けたくないんだろ?」
すると南極は、太陽のように明るい笑顔を見せた。
「もちろん! 俺は阪海工のエースになりたい!」
「よくそこまで堂々と言えるな。でも、南極はそういう性格だからな」
宇治川が言った。
「ただ、俺が話したかったのは、そういうことじゃないんだ」
俺たちはみんな、グラウンドで自分に最も合っているのは、このポジションだと思っている。
そして実際に、自分の意思でそのポジションを選んできた。
だが、もしほかの人たちの考えが、自分たちとは違っていたら?
そのとき、どうする?
「どういう意味?」
友達には、宇治川が遠回しな言い方をしているように感じられた。
何を言おうとしているのか、よくわからない。
「つまり……」
宇治川は言った。
もし監督が、俺に最も向いていると思うポジションと、俺自身が最もやりたいポジションが違っていたら。
チームが勝つために――
お前たちは、どちらを選ぶ?
「…………」
宇治川が問いかけたあと、友達も南極も答えなかった。
三人の二年生投手は、そのまま沈黙する。
その日の休日自主練習は、最後まで微妙な空気を残したまま終わった。




