第五七章 その日、突然の土砂降り
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと台湾華語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
五月は、春から夏へと移り変わる、過ごしやすい季節だ。
近年は気候の変化も激しくなっているが、暑さが近づくこの時期でも、海に面した岬阪町では、潮風やにわか雨によって気温が下がることがある。
日中も、日差しさえ強くなければ、海から吹く風が心地よい。夕方が近づくにつれて、その風には涼しささえ感じられた。
今日の潮風球場は、朝からいつもより厚い雲に覆われていた。
午後になる頃には雲が幾重にも重なり、空は青灰色に染まっている。遠くからは、低く響く雷鳴も聞こえてきた。
白井監督は、グラウンドに出してある用具を倉庫へ片づけるよう部員たちに指示した。野球部全員で阪海工の体育館へ移動し、今日の部活は急遽、室内でのフィジカルトレーニングへ変更されることになった。
三年生は自分たちの用具を片づけると、片岡コーチと一緒に先に学校へ戻った。
一年生と二年生は、グラウンドの後片づけを終えてから向かう。野球部の一年生たちは、トレーニング用具をしまい、野球バッグを背負うと、二人、三人と連れ立って駐輪場へ歩いていった。
「えっ、うそだろ? 林先輩って外国人だったの? マジで!」
「どうりで、林先輩の話し方って、ほかの人と少し違うと思ってたんだよ。てっきり関西出身じゃないからだと思ってたけど、まさか外国人だったなんて」
数人の一年生部員が、二年生の先輩について話していた。
阪海工野球部では、一年生の多くが、上級生と同じ中学校の野球部に所属していた。
中学を卒業したあと、近隣で通学できる範囲にあり、野球部があって、学力的にも無理なく進学できる高校となると、阪海工くらいしか選択肢がなかったからだ。
そのため、阪海工野球部の先輩と後輩は、特別親しいとはいえなくても、ほとんどが同じ土地で育っており、昔から互いのことを知っている。
しかし、ときどき林友達のように、素性をよく知られていない部員も現れる。
台湾出身の生徒が日本の公立高校に通い、しかも野球部へ入っているという例は、このあたりでは極めて珍しかった。
「じゃあ、お前らは林先輩がどこの人だと思ってたんだ?」
自転車を固定ラックから引き出しながら、建山千晴が興味深そうに尋ねた。
「沖縄」
「北海道」
二人のチームメイトが、それぞれまったく異なる答えを口にした。
それを聞いた建山は、眉をひそめた。
「おい、その二つ、一つは南で、一つは北だぞ。いくらなんでも違いすぎるだろ!」
こいつらは、ただ思いついた地名を適当に言っているだけではないのか。
建山は、自分のチームメイトを疑い始めた。
「林先輩みたいな顔立ちなら、どう見ても沖縄の人だと思うだろ?」
建山と話していた北沢が言った。
「あんなに顔が『濃い』のは、沖縄の人くらいだって。味噌豚骨ラーメンみたいにさ」
「どういう意味だよ。北沢の食べ物にたとえる説明は、誰にも通じないからな」
建山には、北沢実叶大がどうして何でも食べ物にたとえたがるのか、まったく理解できなかった。
今度は、すぐそばで自転車を引き出していた栗原に尋ねる。
「栗原は、どうして北海道だと思ったんだ?」
「北海道には先住民族がいるだろ? あれ、何ていったっけ……ヒンナヒンナ族」
「北海道なら、アイヌ民族だよ」
「えっ…………ええっ! そうなの? じゃあ、さっきのヒンナヒンナって何?」
「知るかよ!」
栗原悠輔は、建山に指摘されてから少し遅れて、自分が勘違いしていたことに驚き始めた。
その反応に、建山は思わず突っ込みを入れる。
ちなみに「ヒンナヒンナ」とは、食べ物を得られたことへの感謝や、料理のおいしさを表すアイヌ語の言葉である。
「まったく、俺が知るわけないだろ……」
建山は、自分のチームメイトには、まともな人間が一人もいないのではないかと思い始めた。
高校へ進学してからも阪海工野球部へ入るような人間は、どいつもこいつも個性が強い――そんな噂は以前から聞いていた。
しかし、いくら個性的でも、度を越しているのは困る。
そう考えると、別の中学校から来た岩崎は、まだずいぶんまともに見えた。
建山は、別の駐輪場で自転車を出している岩崎と神崎の姿を見つけた。
声をかけて、一緒に学校まで戻らないかと誘おうとしたが、近づいたところで神崎条の声が聞こえてきた。
「岩崎君……さっき、自分の水筒を林先輩に貸して飲ませてたよね?」
「うん。それがどうした?」
岩崎隼人が振り返ると、神崎条は自転車にもたれながら、一目で何か企んでいるとわかる笑みを浮かべていた。
嫌な予感がした岩崎は、自分のスポーツボトルをしっかりと握りしめる。
用心深く蓋を開け、水を飲もうとしながら、神崎を目で牽制した。
「先に言っておくけど、神崎には絶対に俺の水筒を貸さないからな」
「それはわかってるよ。でも、俺が言いたいのはさ。林先輩が飲んだあと、その水筒で岩崎君も水を飲んだら……」
それって、先輩と間接キスしたことになるんじゃない?
「ぶっ――げほっ、げほげほっ!」
神崎が言い終えた瞬間、岩崎は口に含んでいた水を勢いよく吹き出した。
激しく咳き込む岩崎を見て、神崎条は笑いながら言った。
「あーあ、林先輩のキスが全部無駄になっちゃったね……」
「げほっ、げほっ! 神崎、お前っ!」
水にむせたせいなのか、それとも今の言葉を聞いたせいなのか、岩崎の顔は真っ赤になっていた。
怒った岩崎が神崎を捕まえようと手を伸ばしたが、神崎はとっくに遠くまで逃げている。
その一部始終を目撃した建山は、何も言わずに自転車を押して球場を出た。
今見たものは、すべて見なかったことにしよう。
やはり阪海工野球部を選ぶような人間は、ほかの中学校から来た者まで、まともではないらしい。
潮風球場を出た建山は、自転車にまたがってしばらく走った。
すると道の途中で、自転車を路肩に止めている二年生の林友達先輩と日空南極先輩を見つけた。
先ほど北沢と栗原が話していたことが気になり、建山は林先輩の顔をいつもより注意深く観察してみる。
そのまま自転車で二人の横を通り過ぎながら、数秒間じっと見つめてみた。
結局、沖縄の人らしい顔なのか、北海道の人らしい顔なのかはわからなかった。
しかし建山は、それとは別のことに気づいた。
林先輩の顔って、なんだかアライグマみたいだな。
建山はそう思った。
どうやら、チームメイトたちを変人扱いしていた建山も、それほどまともではなかったらしい。
男子寮には、中古の自転車が何台も置かれている。
歴代の先輩たちが置いていったものや、近隣住民が使わなくなって譲ってくれたものらしい。
古い自転車ばかりとはいえ、無料で使えることは、寮で暮らす男子生徒たちにとってありがたかった。
ただし、年季が入っているため、走っている途中で突然故障したり、何かしらの問題が起きたりすることもある。
「どう、友達?」
南極は腰を曲げ、友達の手元を覗き込みながら尋ねた。
友達は自転車のそばにしゃがみ込み、南極の自転車から外れたチェーンを直すことに集中していた。
「日空、自転車をちゃんと押さえてて。倒れたらチェーンを戻せないから」
先ほど走っている途中で、南極の自転車は後輪のチェーンが突然外れ、そのまま挟まって動かなくなってしまった。
どうすればいいのかわからない南極が、道端に立ち尽くしていると、少し先を走っていた友達が引き返してきた。
自転車の状態を確認した友達は、南極には理解できない台湾語を口にした。
「喔,落鏈仔啊喔(チェーンが外れたんだ)。」
友達はそう言うと、南極に自転車を逆さにして、しっかり押さえるよう指示した。
中古自転車の汚れたチェーンに触れることも気にせず、変速機のプーリーケージを前方へ押し、チェーンを緩ませる。
隙間に挟まっていたチェーンを慎重に引き出しながら、南極に説明した。
「日空、ここを見て。このチェーンが外れて緩んでるだろ? だから、まず隙間に挟まってる部分を見つけて、引っ張りやすいように緩める。それから外れたチェーンを、もう一度チェーンリングとギアに掛け直すんだ。ちゃんと歯に合わせて、ペダルを回せば……ほら、見て!」
説明しながら、友達は隣にいる南極を振り返った。
南極はまったく理解できていない顔で、友達の手の中にあるチェーンを不思議そうに見つめている。
その表情は、大柄な高校生のものには見えなかった。
大切な玩具が壊れてしまい、どうすればいいのかわからず困っている子供のようだった。
友達には、それがどこか新鮮に感じられた。
学校の勉強でも日本語でも、普段は友達が南極に教えてもらうことのほうが多い。
まさか野球以外でも、こうして自分が南極に何かを教える場面があるとは思わなかった。
いい顔だな。
自転車の直し方を説明しながら、友達は思わず南極の顔を見つめ、そんなことを考えた。
しかし、そう思った直後、南極に対してこんなことを考えるのは、少しおかしいのではないかと気づく。
何がおかしいのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、このまま南極の顔を見つめていたら、自転車を直す手がどんどん遅くなってしまいそうな気がした。
外れていたチェーンを友達が掛け直すと、ペダルの回転に合わせてチェーンリングが動き、チェーンを再び巻き取っていく。
南極は一瞬、呆気に取られた。
次の瞬間には目を大きく見開き、驚きの声を上げる。
「すごい! 友達ってすごいな! 自転車が直った!」
「台湾にいた頃も、自転車がよく壊れてたからね。そのとき、自転車屋のおじさんが直し方を教えてくれたんだ。まさか、ここで役に立つとは思わなかったけど」
友達は笑った。
その両手はチェーンの油で真っ黒になり、頬にも黒い油汚れがついていた。
二人は再び自転車に乗り、学校の体育館を目指して走りだした。
自転車を並べて走りながら、友達は台湾の中学校に通っていた頃の話をした。
友人たちと一緒に自転車で出かけたとき、途中で野犬の群れに追いかけられたという、少し情けない思い出だった。
しかし、南極はどこか上の空だった。
彼の頭の中は、先ほど友達が小さな身体を折り曲げ、自分のために自転車を直してくれていた姿でいっぱいになっていた。
修理に集中している友達の横顔。
手が汚れても、うっかり頬に油がついても、まったく気にしない様子。
額から汗を流しながら、懸命にチェーンを直していた姿。
その場で見ていたときも、今こうして思い返しているだけでも、身体の奥から熱がじわじわと広がっていく。
ほんの数分で自転車を直してしまった友達は、本当に格好よかった。
南極は、そのときの友達の表情や仕草を、何度も繰り返し思い浮かべた。
今日は海から風が吹いている。
それでも、夏へ向かって一気に高まっていく蒸し暑さを、抑えることはできなかった。
空は太陽が見えないほど厚い雲に覆われているのに、南極は野球着の胸元が熱く、息苦しく感じた。
しかし、この感覚は天気のせいではない。
絶対に友達のせいだ。
南極はそう思い、ぽつりと口を挟んで、友達の話を遮った。
「友達は、野球選手をしながら、自転車屋の店主にもなれるね」
「は? 急に何を言いだすんだよ。俺を過労死させる気か、日空」
友達は苦笑した。
そのとき、一滴の水が友達の鼻先に落ちた。
友達は思わず空を見上げる。
白と青を残していた厚い雲は、いつの間にか暗い灰色へと変わっていた。
さらに、いくつもの雨粒が落ち始める。
「まずい。雨が降ってきた」
友達が言った。
二人はペダルを踏む足に力を込め、一気に自転車の速度を上げた。
どうにか雨脚が強まる前に学校へ到着すると、駐輪場に自転車を止め、バッグを頭の上に掲げながら阪海工の体育館まで走った。
ほかの野球部員たちも同じように、雨が本降りになる前に、次々と体育館へ駆け込んでいった。
公立高校の野球部では、雨が降ったときに使える室内練習場がなければ、その日は練習を休みにするしかないこともある。
体育館や室内スペースがあったとしても、普段そこを使用している部活動と利用範囲を調整し、改めて使用許可を取らなければならない。
しかし、阪海工野球部では、雨が降ったからといって休みになることはほとんどなかった。
指導者たちは、基本的に部員を「戦術組」と「体力強化組」の二つに分け、それぞれ別の練習を行わせる。
「田中君、今日は野球部の練習はないの?」
「廉太、こんなに早くからコーラス部に来て、疲れない?」
休憩中だったコーラス部員たちは、野球着姿の田中廉太が突然体育館へ現れたことに気づいた。
廉太と同じクラスで、普段から親しくしている数人の部員が、すぐに彼の周りへ集まってくる。
阪海工の体育館は、普段からコーラス部がよく使用していた。
体育館は声がよく反響し、舞台や階段も利用できるため、合唱の練習には非常に適している。
吹奏楽部や軽音楽部が音楽室を使用しているとき、コーラス部は体育館へ移動し、コンクール本番を想定した合唱練習を行うのだ。
阪海工コーラス部は、創部当初、男子だけで構成された男声合唱部だった。
現在では女子部員の受け入れを始めてからすでに数年が経っている。今も男子部員が多数を占めているものの、男女比は七対三にまで変化していた。
そんな阪海工コーラス部には、初代部員たちにまつわる伝説がある。
当時の部員は、八割近くが不良少年だったという。
彼らは歌うことに興味を持ってコーラス部へ入ったものの、昼間は学校で合唱の練習をし、夜になると他校の不良たちと集団で喧嘩をしていた。
そしてコンクール当日、全員が顔に傷や痣をつけたまま舞台へ上がり、歌い終えた彼らは、最終的に銀賞を獲得したらしい。
阪海工コーラス部内で代々語り継がれている伝説だが、真偽のほどは定かではない。
「ああ、違うんだ。外で雨が降ってきたから、それで……」
田中廉太は説明した。
歌うことが好きな廉太は、野球部の練習がない日や、急遽部活が休みになったときには、よくコーラス部へ来て一緒に歌っていた。
正式な部員ではないため舞台に立つことはできなかったが、コーラス部の顧問は、廉太が練習に加わることを歓迎している。
歌い方にはまだ多少の粗さがあるものの、声そのものはとてもよいと褒められたこともあった。
「龍二、廉太ってコーラス部じゃ人気者なんだな」
コーラス部員たちに囲まれている廉太を見ながら、木村陸斗が言った。
木村は田中家と昔から親しく、チームメイトである田中龍二が、先ほどからずっと弟の様子を見ていることにも気づいていた。
「龍二、廉太が歌ってるところ、聞いたことある?」
「……知らねえ。覚えてない」
龍二は答えると、バットを構えた。
一気に振り抜く。
バットが空気を切り、鋭い音を立てた。
傍から見れば、ごく普通の素振りにしか見えないだろう。
しかし、中学生の頃から一緒に野球をしてきて、現在も寮で同じ部屋に暮らしている木村には、龍二が何かを隠していることがすぐにわかった。
「聞いたことあるんだろ? どうして知らないふりをするんだよ」
「うるせえな。今はそんな話をしてる場合じゃないだろ」
図星を突かれた龍二は、照れくささを隠すように、わざと苛立った口調で答えた。
その様子を見て、木村はため息をつく。
「お前も兄貴みたいに、弟思いのいい兄ちゃんって態度を素直に出せばいいのに」
「絶対に嫌だ! 誰があいつなんか心配するかよ。そんなの気持ち悪いだろ!」
龍二は激しい口調で言い返した。
しかし、二度目に振ったバットは、最初のときほど焦っていなかった。
スイングの軌道も、本来の滑らかな形へ戻っている。
「弟思いの、いいお兄ちゃん」
「だから気持ち悪いって言ってるだろ! 黙れ!」
木村がもう一度からかうと、田中龍二の感情はすぐに爆発した。
それでも、バットを振る動作には少しの乱れもなかった。
白井監督がコーラス部の顧問や、体育館を使用するほかの部活動と調整した結果、野球部は体育館のおよそ半分を使えることになった。
ただし、三年生だけは片岡コーチに連れられ、別の場所へ移動していく。
一年生たちは、片岡と一緒に体育館を出ていく三年生を不思議そうに見つめていた。
何をしに行くのか、まだ知らなかったからだ。
「片岡……」
白井が片岡コーチを呼び止めた。
片岡は何も言わなかった。
しかし、三年生の列にいる中西と吉岡へ一瞬だけ視線を向けると、体育館に残る一年生と二年生の姿も見回した。
それから白井に告げる。
「心配しないで。ひとまず、今はこのままでいいわ。ただし白井、あとで話し合わなければならないことは、まだたくさんありますから」
含みを残したその言い方で、白井にはわかった。
先発メンバーの件について、片岡里子はまだ諦めていない。
「林先輩、三年生の先輩たちは、どこへ行くんですか?」
人見知りをしない神崎は、さっそく林友達のところへ質問しに行った。
しかも岩崎まで一緒に引っ張ってくる。
そのとき友達は、宇治川や南極と投球フォームについて話し合っていた。
友達は神崎を見る。
話を中断されたことに腹を立てた様子もなく、すぐに答えた。
「ああ、そうか。お前たち一年生は、雨の日の部活は初めてだもんな。室内練習の日、三年生はいつも座学――野球ミーティングをやるんだよ」
それは、高校の運動部ではよく行われる戦術学習だった。
通常は監督やコーチが選手たちを教室へ集め、映像を見せながら実際の試合で起きた事例を解説し、グラウンド上のさまざまな状況を想定させる。
たとえば、野球部でよく出される状況問題がある。
一死一、二塁で、一点を追う場面。
攻撃側は送りバントを選び、走者を二、三塁へ進めるべきか。
それとも、二塁走者がタイミングを見計らって三盗を狙うべきか。
一方、守備側は走者へ牽制を入れるのか。それとも、どのような守備を敷いて併殺を狙うのか。
選手たちは互いに状況を分析し、動き出すタイミングやサインを決め、プランAとプランB、それぞれの対応方法を考える。
指導者が、実際の試合で起きた事例を映像で見せることもある。
強豪校の中には、対戦相手の学校や注目選手を分析するだけでなく、相手捕手の配球傾向や、投手の癖まで細かく調べる学校もあった。
練習量や身体能力に大きな差がない場合、最後に勝敗を分けるのは、試合中の対応力と戦術の柔軟性になる。
それは選手の能力だけではなく、指導者の判断力も試すものだった。
「今日は雨が強すぎるけど、小雨くらいだったら、球場に残って雨天を想定した練習試合をすることもあるよ」
「えっ、それじゃ全身びしょ濡れになるじゃないですか。俺は嫌だなあ」
友達の説明を聞いた神崎は、いかにも嫌そうな態度を大げさに見せた。
それから岩崎のそばへこっそり近づき、耳元で囁く。
「岩崎君も、あそこに混ざりたいんじゃないの? 林先輩たちと一緒に、投球の話をしたいんだろ?」
「えっ、ええっ? そ、そんなの急すぎるよ! それに、まだ監督から何も言われてないし……」
岩崎隼人は神崎の言葉に動揺し、しどろもどろになった。
そのとき、白井監督の声が体育館に響いた。
二年生にはそのまま練習を続けるよう指示し、一年生には集合をかける。
神崎と岩崎は、慌てて一年生の列へ戻っていった。
三年生は試合の戦術について話し合い、二年生はトレーニング器具を使って、それぞれの状態やフォームを調整する。
それでは、球場から室内へ移動してきた一年生は何をするのか。
答えは明らかだった。
室内へ移っても、体力と瞬発力を強化するメニューは変わらない。
友達たちが一年生だった頃も同じだった。
シャトルラン、素早いサイドステップ、ウエイトを持ったスクワット、柔軟運動にストレッチ。
どれ一つとして省かれることはない。
全メニューを一通り終えるだけでも、少なくとも一時間はかかる。
体育館の端で素振りをしていた金井榮郎は、今の一年生たちが、去年の自分と同じように体力強化メニューで追い込まれ、激しく息を切らしている姿を見た。
すると、当時のことを思い出したくないという気持ちが湧いてくる。
榮郎自身、あの体力強化メニューには、散々苦しめられたからだ。
しかし、榮郎が感じることになる重圧は、一年生の練習風景だけではなかった。
体育館の舞台から、コーラス部による各声部の整った歌声が響き渡った。
その瞬間、野球部の一年生と二年生は、そろって舞台へ視線を向けた。
榮郎も例外ではなかった。
バットを握った手が下がりかける。
しかし次の瞬間、その手首を誰かに掴まれ、もう一度持ち上げられた。
柴門玉里だった。
玉里は榮郎の腕を元の位置へ戻すと、不機嫌そうに注意した。
「打撃練習中に気をそらすな。球場の外から応援の声が聞こえるたびに、いちいち振り向くつもりか?」
阪海工野球部は、すでに何年も甲子園へ出場していない。
試合でも強豪校のように、吹奏楽部による大規模な応援が行われることはなかった。
普段から応援の音に慣れている学校と比べれば、阪海工の選手たちが突然の大音量に敏感で、集中を乱されやすいのも無理はない。
白井監督がコーラス部の顧問と話している姿を見たときから、柴門は薄々気づいていた。
コーラス部を音楽室へ戻さず、野球部と一緒に体育館を使わせているのは、おそらく白井監督が、一年生と二年生を早いうちから球場の応援音に慣れさせようとしているからだ。
金井のように、少し大きな音が聞こえただけで集中力を失ってしまえば、完全に相手の思うつぼである。
阪海工コーラス部の力強い歌声は、野球部員たちがグラウンドの外から聞こえる大音量に慣れるための訓練として、ちょうどよかった。
「どこを見ている! 練習中に気を抜くな! 交代!」
白井監督の声が飛んだ。
「二年生も集中しろ! 特に田中廉太、お前だ! 真面目にやれ!」
廉太は先ほど、コーラス部の歌声に気を取られていた。
白井監督の大声で注意され、ようやく少し意識を練習へ戻す。
「厄介だな。それにしても、これは想像以上だ」
柴門玉里が呟いた。
「えっ? 柴門君、何か言った?」
玉里に姿勢を直された金井榮郎は、コーラス部の大音量と体育館に響く反響音のせいで、玉里が何を言ったのか聞き取れなかった。
そして、それこそが柴門の予想していたことだった。
仮に、阪海工が後攻で守備についているとする。
相手校には、大編成の応援楽団と応援団がいる。
その迫力に圧倒されるだけなら、まだ大きな問題ではない。
しかし、応援の音が選手同士の声までかき消してしまうとすれば、互いの会話に頼ることはできなくなる。
単純で覚えやすい身振りやサインを使い、グラウンドにいる仲間が互いの意図を素早く理解し、すぐに反応できるようにする必要がある。
柴門玉里は、二人の指導者が何を考えているのか理解していた。
それでも、この音量はあまりにも大きすぎる。
だが、もし本当に機会をつかみ――たとえ奇跡的にでも甲子園へ出場できたなら。
そのとき、阪海工野球部の彼らが向き合わなければならないのは、まさにこの問題なのかもしれなかった。
体育館の窓の外では、岬阪町一帯に降り続く雨が、弱まる気配をまったく見せていなかった。
まさに土砂降りとなったその頃、一台の国産小型乗用車が、山沿いの海岸道路を大雨の中で走っていた。
フロントガラスへ絶え間なく打ちつける雨を、二本のワイパーが懸命に左右へかき分けている。
車に乗っているのは、高校野球専門メディア『潜入!野球郎ジャーナル』の大阪エリアを担当する編集者・谷口と、契約カメラマンの安藤だった。
二人は今、潮風球場へ向かっていた。
「谷口先輩、阪海工の球場って、本当にこんなところにあるんですか?」
「ナビは、こっちへ行けと言ってるけどな」
谷口の車が山の中腹へ向かってどんどん上っていくことに、安藤は疑問を抱き始めていた。
しかも突然の大雨である。
まさかこれは、狸に化かされて、山の中で同じ道を延々と走らされているのではないか。
安藤が本気でそう考え始めたとき、谷口が言った。
「見えたぞ」
「えっ、どこですか?」
安藤が前方へ目を凝らす。
大きいが、どこか簡素な造りの球場が、激しい雨の向こうに浮かび上がっていた。
車のヘッドライトが球場脇の壁を照らし、それが幻ではないことを証明する。
安藤は目を丸くした。
「本当に球場がある……すごい場所ですね」
「でも、これだけ雨が降っていて、本当に選手たちは練習しているんでしょうか?」
安藤はそう言いながら、首から下げた一眼レフカメラを手に取った。
窓の外の雨を見つめ、ぼそりと呟く。
「こんな天気じゃ……いい写真は撮れないな」
濡れているうえに暗く、しかも大雨が降っている。
こんな悪条件の中で、高校球児らしい青春の輝きと躍動感を、どうすれば写真に収められるだろう。
安藤が真剣に考えていると、突然、車内に不気味な立体音響のメロディーが流れた。
「うわっ!」
驚いた安藤が身体を跳ねさせる。
その隣では、谷口が何事もなかったようにスマートフォンを取り出していた。
「もしもし?」
「もう! 谷口先輩、その着信音は変えたほうがいいって、前にも言ったじゃないですか」
谷口の電話が鳴るたびに驚かされる安藤は、たまらず文句を言った。
しかし谷口は、今は黙っているよう手で合図する。
安藤は助手席で、小声のまま不満をぶつぶつと漏らすしかなかった。
「そうですか、なるほど……わかりました。いえいえ、こちらが急に時間をお願いしたんですから、仕方ありませんよ……そうですか。承知しました。はい、それでは、またあとで」
通話を終えると、谷口は安藤に説明した。
「雨のせいで、阪海工野球部は学校の体育館へ移動したそうだ。今から引き返せば、部活が終わる頃には間に合う。そこで何人かの選手に話を聞けるだろう」
「よかった。雨の中で撮影しなくて済みますね」
安藤は、ほっと息をついた。
しかし来た道を引き返す途中、阪海工の校舎から潮風球場まで続く長い上り坂が目に入った。
「それにしても、ここの生徒たちって、毎日この坂を上って球場へ通ってるんですか? ああ――私なら絶対に無理。球場へ行くだけでこんな坂を上らないといけないなんて、考えただけで疲れます」
雨水が山腹の斜面を、いくつもの浅い流れとなって滑り落ちていく。
山の木々や葉を激しく打つ雨音が、周囲に轟いていた。
海と山に挟まれた阪海工周辺では、それが雨の日の日常風景だった。
車窓から眺めるだけなら、山と海の広がる景色は美しく、写真に残す価値もある。
しかし地方の強豪校でもない阪海工のために、わざわざ大阪府の最南端まで来るほどの価値があるのか、安藤にはやはり理解できなかった。
「そういえば、『吉田珈琲』の吉田さんにしても、谷口先輩にしても、阪海工には妙なこだわりがありますよね。私には、まったくわからないんですけど……」
安藤自身、毎年甲子園の試合を見ている。
この仕事では、未来のスター候補と呼ばれる高校球児たちの写真を撮影することも多かった。
「確かにな」
谷口は小さく笑った。
「でもな、安藤。この仕事を長く続けて、毎年高校野球を見ていると、ときどき予感がするんだよ。今は誰からも注目されていない学校や、まったく期待されていない選手が、いつか甲子園で――あるいは日本のプロ野球や、アメリカのメジャーリーグで、突然輝き始めるんじゃないかってな」
谷口は続けた。
「そんな選手を、ほかの誰よりも早く見つけ出す。それが、俺たちみたいな野球おやじが、この仕事を続ける楽しみなんだよ」
「でも『野球郎』の編集長、いつも言ってますよね。谷口先輩はベテランなのに、売り上げにつながらない、手間ばかりかかって報われない仕事ばかりしてるって。今回の取材費だって、ほかの案件の半分も出てないじゃないですか」
「いやあ……そこは難しいところだな。それでも阪海工の記事は、編集長も通してくれただろ?」
「前回の大阪桐蔭戦では、阪海工の藤田迅真投手が確かにいい投球を見せましたからね。でも谷口先輩が本当に気にしているのは、藤田迅真とは別のことでしょう?」
安藤は谷口と仕事を組むようになってから、すでにそれなりの時間が経っていた。
この年配の編集者が、いつも表向きの目的とは別に、本命を隠していることくらい理解している。
学校の警備員に案内され、二人は車を校内の駐車場へ入れた。
谷口は不慣れな運転で二度、三度と車を切り返し、ようやく駐車を終える。
二人は会社から支給された傘を開いた。
傘には、マスコットキャラクターの「野球郎」が大きく描かれている。
その傘を差し、体育館へ向かって歩き始めた。
「藤田のことも気にはなる。だが、それ以上に、吉田のやつがあとから教えてくれた情報が引っかかっているんだ」
谷口は傘を差したまま、校内の案内板で体育館の方向を確認した。
雨のせいで薄暗くなった校内を歩いていく。
同じように傘を差し、撮影機材を背負って隣を歩いていた安藤が尋ねた。
「幼い頃から南極で育った、世界的な女性南極研究者――日空博士の息子のことですか?」
「よく知ってるじゃないか!」
「私も写真を学ぶために何度か海外へ行きましたから。当時、国外で報じられていた関連ニュースも、それなりに知っています。今はただの契約雑誌カメラマンですけどね」
安藤は少し得意そうに答えた。
安藤が言っているのは、南極の母親である日空博士のことだった。
世間では日空博士を、日本を代表する南極研究の第一人者として扱うことが多い。
しかし実際には、彼女よりも前に日本人女性の南極観測隊長が存在し、国から功績を認められた女性研究者も複数いた。
そう考えれば、日空博士はむしろ後発の研究者である。
ただし研究対象は、それまでの研究者たちよりも広範囲に及んでおり、国際的な知名度も、これまでに挙げた研究成果も極めて大きかった。
それほどの人物でありながら、日空博士は日本政府から贈られる賞を、これまで何度も辞退してきた。
長年、日本の南極観測基地を中心に活動している一方で、国際社会では、南極条約協議国会議の議長候補に名を連ねる資格を持つ人物でもある。
一つの国家や組織に収まらない立場にいる研究者なのだ。
現在は「南極点の崩壊」を阻止することと、「地球温暖化の可逆性」を主な研究テーマとし、複数の国から研究支援を受けていた。
「つまり、日空博士の知名度を利用して話題を作ろうとしているんですか?」
安藤が尋ねた。
「野球しか頭にない臭い爺さんに、南極の女性博士を使って話題を作るなんて芸当ができると思うか? 勘弁してくれ。俺は『週刊文春』のゴシップ記者じゃないぞ」
谷口が言った。
安藤は、それもそうかと考え直す。
谷口のような野球一筋の年配男性が女性の南極研究者に興味を持つとすれば、地球温暖化を心配しているからではない。
せいぜい、博士が美人だったからという程度の理由だろう。
しかし、それならなおさら、なぜ谷口が日本で野球をしている日空博士の息子を気にしているのか、安藤にはわからなかった。
「身長百九十二センチ。身体能力は抜群。しかも一年生で野球部へ入った時点から、時速百五十キロのストレートを投げられたらしい。一年生だぞ、安藤! そんな高校球児がいると聞いたら、興奮するだろう?」
「確かに、それはそうですね」
谷口の熱弁に、安藤は冷静な口調で答えた。
しかし、南極研究者の息子だからという理由よりも、今の情報のほうが、谷口を阪海工まで足を運ばせた理由としては、はるかに納得できた。
体育館が近づいてきたところで、二人は首から教職員証を下げた男性教師を見つけた。
阪海工の白井監督だった。
今回の撮影について事前に連絡を取り、受け入れを承諾した人物でもある。
谷口と安藤は名刺を差し出し、あらかじめ白井へ送って確認を取っていた撮影内容と、簡単な取材の流れを改めて説明した。
「ここは学校ですから、取材を受ける野球部員以外の生徒については、できるだけ顔が映らないようにしてください。また、許可していない校内施設を撮影したり、こちらを通さず生徒へ直接話しかけたりすることも控えてください。その点は、くれぐれもお願いします」
白井は、『潜入!野球郎ジャーナル』の二人へ注意事項を説明した。
日本では、学校内での撮影や、未成年の生徒と外部の人間が接触することについて、厳しい規則が設けられている。
今回の内容は、野球部員への簡単なインタビューと学校内での撮影にすぎない。
それでも白井と片岡は、校長や担当主任へ企画内容を説明し、取材を受ける生徒の保護者からも同意を得なければならなかった。
二人とも、『潜入!野球郎ジャーナル』が高校野球を長年扱ってきた老舗のウェブメディアであることは知っている。
しかし現在は、独立系メディアや配信者、それに一部の行き過ぎた高校野球ファンが、学校を通さず選手と個人的に接触しようとする例も少なくない。
そのため、指導者と学校側も警戒せざるを得なかった。
「うわっ、『野球郎』だ」
「どこ? どこにいるんだ? あっ、本当だ! 三年生の先輩たちを取材しに来たのかな?」
「俺の写真も撮ってもらったら、サイトのトップページに載せてくれるかな?」
体育館にいた阪海工野球部の一年生たちは、廊下にいる白井監督と、取材に来た二人をこっそり覗き見ていた。
このような場面を見るのは初めてだったため、誰もが興奮している。
二年生たちも取材について話してはいたが、一度は似たような経験があるため、一年生ほど浮き足立ってはいなかった。
「たぶん、藤田先輩を取材しに来たんだろう」
宇治川が言った。
「藤田先輩はチームのエースだから、それならわかる。でも、白井監督が取材を受け入れたことのほうが意外だな」
隣にいた柴門も言った。
過去に卒業した三年生たちも、外部から取材を受けることはほとんどなかった。
白井監督は練習の妨げになるという理由から、地方紙による隊長や投手への数分程度の簡単な取材を除き、ほぼすべて断ってきたからだ。
いったい何が、白井監督の考えを変えたのだろう。
「どうせ片岡コーチの方針だろ」
蓮が言った。
それを聞いた流星は、友達のほうを向く。
「そうなのかな? 友達はどう思う?」
「さあ、わからないけど……って、待って! どうしてまた俺に聞くんだよ?」
友達は、何の前触れもなく流星から話を振られた。
「僕も蓮と同じ考えです」
小林が同意した。
小さなノートを開き、眼鏡を押し上げながら説明する。
「こういったウェブメディアと関係を作っておけば、強豪校でなくても、記事としてウェブサイトに名前が載り、少しは注目を集められます。それによって阪海工の知名度が上がるなら、学校にとっても野球部にとっても悪いことではありません」
「それって、どういうこと?」
廉太が尋ねた。
隣にいた榮郎が少し考えてから答える。
「たとえば記事を見て、今も野球に関心を持っている卒業生が、野球部を支援してくれるかもしれない。栄養補助食品や練習用具を送ってくれたり、寄付をしてくれたりとか。そうなれば選手の練習環境もよくなるし、野球部の財政状況も少しは改善できるだろ?」
「おおっ! それなら潮風球場にも、ドームみたいな雨よけの屋根がつくのか?」
南極が目を輝かせながら尋ねた。
「そ、それは少し難しいかもしれないな……日空君」
榮郎は困ったように笑った。
「それより、監督が戻ってきて叱られる前に、入口に集まっている一年生たちを呼び戻したほうがいいんじゃないか?」
宇治川が言った。
友達はその言葉を聞き、体育館の入口へ目を向けた。
確かに一年生たちは、もうほとんど体力強化メニューを続けていない。
全員が興味津々といった様子で、廊下の取材陣を覗き込んでいる。
真面目な岩崎でさえ、今回ばかりは好奇心に勝てなかったらしい。
「友達、行くの?」
隣にいた南極が尋ねた。
「うん。ひとまず注意したほうがいいかな。あいつらが俺の言うことを聞くかどうかは、わからないけど」
友達は苦笑しながらも、一年生たちのもとへ歩いていった。
身長は百六十四センチほどしかない。
二年生になった現在でも、友達は一年生を含めた阪海工野球部員の中で、最も小柄な選手だった。
南極は歩いていく友達を見ると、自分もその後ろについていった。
友達が一年生たちへ声をかけ、体力強化メニューへ戻るよう注意しようとした、そのときだった。
突然、白井監督が姿を現した。
一年生部員たちは驚き、いっせいに元の練習場所へ逃げ帰る。
その場には、友達と南極だけが取り残された。
二人は気まずそうに、白井監督と向き合った。
白井が自分と南極をじっと見ていることに気づき、友達は口ごもりながら説明しようとする。
「し、白井か、監督……あの、俺は……」
「友達は練習へ戻りなさい。それから、そこの南極――日空南極。君は少しこちらへ来なさい」
白井監督は言った。
「あの二人の取材者が、まず君に話を聞きたいそうだ」
ええええ――っ!?
南極を取材したいと聞いた野球部員たちは、声こそ上げなかったものの、全員が一斉に振り返った。
目を大きく見開き、友達の隣に立つ南極を見つめる。
南極だけが不思議そうに首を傾げた。
「俺を取材するの?」
どうして?




