第五四章 野球部なんて大嫌い
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
日本の高校野球部にとって最も重要な夏の大会は、基本的に府大会や県予選が七月頃に開幕する。地域によっては、それよりも早い六月中旬から下旬に予選が始まることもある。二年生が四月に三年生へ進級してから夏の大会までは、実際にはわずか三か月半ほどしかない。そのあとは、勝っても負けても、この夏が終われば引退し、次の世代の選手たちへチームを託すことになる。
だが実際には、七月から八月の夏休みに新旧チームが入れ替わる時期になると、新チームのメンバーはすでに集まり、強豪校では大まかなチーム編成も始まっている。ただし、それはあくまで暫定的なものだ。正式な大会メンバーを提出するまでは、野球部員全員に背番号を争う機会が残されており、それぞれが先発やレギュラーの座を狙っている。
もちろん、それは部員数の多い強豪校の話だ。阪海工のように部員が三十人ほどしかいない公立校では、一般的に三年生の出場する割合が高い。前監督の高橋も、これまでずっとその伝統を守ってきた。しかし今年は、三年生全員を大会登録メンバーに入れる伝統が変わる可能性があった。高橋監督が引退して顧問となり、代わって白井監督と片岡コーチがチームの中心になったからだ。
白井監督は、かつて名門・PL学園野球部の一員だった。PLの選手といえば、最も有名な下克上として、桑田真澄と清原和博の「KKコンビ」を語らずにはいられない。二人は三年生の先輩たちを押しのけ、一年生でありながら試合へ出場し、そのまま夏の甲子園優勝を成し遂げた伝説的なコンビだ。一方の片岡コーチも、同じように競争の激しい女子野球部で頭角を現した選手だった。女子野球は競技人口が少ないからといって、侮ることはできない。学校数が少ないからこそ、日本代表に選ばれる選手は、誰もが選りすぐりの実力者だった。
そのため今年の野球部内では、三年生でも大会に出られない可能性があり、代わりに一、二年生が背番号を手にするかもしれないという噂が、選手たちの間で囁かれていた。
「確かに、最近は一年生の間でもその話が出てる。でも、三年生はあまり心配してないみたいだ」
「えっ、本当? 三年生は心配してないの?」
学校の売店へ牛乳を買いに行った田中廉太は、金井栄郎と夏の大会メンバーについて話していた。
二年生になった二人は、普通科を選択していた。普通科は阪海工の中でも、一般的な進学を主な目的とした学科で、開設されたのはここ数年のことだった。阪海工が女子生徒の受け入れを始めたことに加え、近年、吹奏楽部の受賞歴を生かした生徒募集が成功し、多くの女子生徒が入学するようになったからだ。女子生徒の大半は吹奏楽部を目当てに入学しており、遠洋漁業や造船工業などの学科にはあまり興味を持っていなかった。そのため普通科が設置された。田中と栄郎は、その普通科では数少ない男子生徒だった。
中学生の頃、田中廉太と金井栄郎はどちらも野球部に所属していたが、特に親しかったわけではない。しかし高校二年生になり、偶然二人とも普通科を選んだことで、野球についても勉強についても、意外と話が合うことに気づいた。
「龍二兄ちゃんも、あまり気にしてないみたいだ」廉太は次兄のことを話した。
「そうなんだ。あっ、でも田中くんのお兄さんの龍二先輩は、もともとすごい選手だから、心配しないのも当然だよ」栄郎は言った。自分の兄を褒められ、廉太は少し誇らしく思ったものの、口ではつい皮肉を言ってしまった。
「あいつはバッティングだけだよ。投げたり捕ったりするのは、かなり普通のレベルだから」
二人は空いている場所を見つけ、そこで弁当を食べることにした。すると廉太はふと気になり、尋ねた。
「でも、本当に二年生が三年生に代わって出場するとしたら、俺たち二年生の中では誰だと思う?」
「二年生?えっと……そうだな……」
正座していた栄郎は箸を置き、考えながら言った。
「もし本当にコーチが二年生から選ぶなら、やっぱり宇治川じゃないかな?」
「だよな? 俺も宇治川だと思う。いろいろな事情がなければ、宇治川は今頃、別の強豪校で投手をやっていたかもしれないし。あっ、そう考えると、柴門玉里も可能性があるんじゃないか? 投手でも捕手でもないのに、バッテリーより目立つ遊撃手なんて、あいつくらいだろ」
「ああ、確かに。柴門くんのあの存在感は……」
田中の言葉を聞き、金井の頭には、柴門が髪をほどき、もう一度結び直していたときの姿が浮かんだ。普通の男子には見られない妖しく艶めいた笑みと、着物の襟元からのぞいていた白い肩の線。目の前にいる人物の本当の性別さえ、忘れてしまいそうになった。
あのときの柴門を思い出し、金井栄郎は一瞬、呆然とした。慌てて頭の中から奇妙な想像を追い払い、話を続けた。
「でも、柴門くんはたぶん受けないと思う。『アタシは二年生のままでいたいの!』とか言いそうだから」
「おお、それくらいわがままなことは言いそうだな! 確かに柴門らしい。金井、おまえは本当に柴門のことをよくわかってるよな。最近、野球部でも二人で練習してるところをよく見るけど、友達なのか?」
「あっ、あの、その……何て言えばいいのかな。友達っていうのは、少し……。どちらかといえば、指導する側と、される側みたいな関係かな? たぶん……僕はそう思ってる。友達とか、そういうのは……たぶん、その……」
二人が友達なのかと田中に尋ねられ、栄郎はひどく戸惑った。二年生の柴門玉里は観光科に在籍している。小学生、中学生の頃、金井栄郎と柴門は同じチームの一員だったが、よく考えてみれば、特に親しかったわけではない。それなのに、高校野球ではどうして柴門がこれほど自分を気にかけてくれるのか。正直なところ、栄郎自身も柴門との関係をどう説明すればよいのかわからなかった。
二人は生活圏が違い、放課後も一緒に帰らない。野球部の仲間を除けば、付き合っている友人たちも違っていた。
それでも祭りの日には、二人で一緒に花火を見た。
柴門は女物の着物を着ていた。野球部の男子であるはずなのに、その肌は花火と月明かりの下で、女子のように白く、ほのかに赤みを帯びていた。実家の酒類量販店の制服を着ていた栄郎は、その柴門の隣に立つ自分がやけに大きく、太って見えることを、なんだか申し訳なく感じていた。
「ああ、よかった!知ってるやつがいた!」
田中と金井が弁当を半分ほど食べ終えた頃、焼きそばパンとカツサンドを持った浅村蓮が、慌ただしく廊下から現れた。猿のような身軽さで廊下脇の低い柵を乗り越え、空いている場所を走って二人のもとへやって来る。断りもせず二人の間へ座ると、ほっとしたように息を吐いた。
「ちょっと隠れさせてくれ。あいつに付きまとわれて、もううんざりなんだ」
蓮は包装を破り、水を一口飲んではパンにかぶりつき、夢中で食べ始めた。
この前、コーチ室で長川誠と出くわしてからというもの、長川は蓮に目をつけたかのように、何度も何かを話そうと近づいてきた。長川誠は男子の制服を着て、男のような格好をしているため、妙な噂が立つことはないだろう。しかし、一年生が毎日のように二年生の教室まで人を捜しに来るなど、たまったものではない。そのせいで蓮は、長川誠から逃げ回ることになった。
三年も会っていなかったのに、再会した途端、ずっと俺につきまとうなんて。あいつ、いったい何がしたいんだ?
蓮は心の中でぼやいた。しかも流星は薄情にも、こう言った。
「長川の狙いはおまえだろ?蓮、それなら任せた!」
そう言い残すと、すぐに走って逃げてしまった。
あいつが俺に勝てるのは、逃げ足の速さだけだ。
蓮は腹を立てた。仕返しとして、今夜、流星の家に泊まったとき、あいつのひどい寝顔を写真に撮り、彼女へ送りつけてやろうと考えた。
それにしても、長川誠の狙いは宇治川のはずではなかったのか。それなのに、毎日俺につきまとうのはどういうつもりだ。まさか昔と同じように、自分では本人のところへ行けないから、また俺に言伝を頼んだり、宇治川を連れてこさせたりするつもりなのか。
ああ、本当に面倒な女だ。
「それにしても、おまえらは弁当があっていいよな」
パンとサンドイッチを食べていた蓮は、田中廉太と金井栄郎の弁当を羨ましそうに見つめた。その表情を見た二人は顔を見合わせ、弁当のおかずをいくつか蓮へ分けてやった。蓮は喜んで、鶏の唐揚げと牛肉団子を受け取った。
「蓮は昔から売店派だったのか? 弁当を持ってきてるところ、見たことないよな」田中は言った。
「弁当?やめとくよ。面倒くさい。それに、うちの親父が作る料理なんて期待できないし、自分で弁当を作るなんて、もっと無理だ」蓮はそう言いながら、他人の弁当のおかずをおいしそうに食べ続けた。そして気軽な調子で尋ねた。
「そういえば悪かったな。さっき、二人の話を邪魔したみたいだけど、何を話してたんだ?」
「三年生の代わりに、夏の大会メンバーへ入る可能性があるのは誰かって話だよ」
「ああ、最近、野球部でも確かにそういう噂が出てるな」
「蓮は、俺たち二年生の中なら誰が一番可能性が高いと思う?」
「うーん、俺だったら、たぶん……」
『南極』だろ?
「絶対に林先輩です!林先輩はあんなに小柄だけど、すごく強いんです!」
同じ昼休みの頃、野球部に所属する同じクラスの一年生たちも、似たような話題について話していた。誰が選ばれると思うかと聞かれた岩崎隼人は、当然のように『林友達先輩』の名前を挙げた。
突然感情が込み上げたような岩崎の反応に、一緒に昼食を食べていた建山千晴は最初こそ驚いた。しかし、ひとしきり興奮したあと、自分で顔を赤くして恥ずかしがっている岩崎を見ると、おかしくなって笑った。
「何だよ、岩崎。おまえ、本当に林先輩のことが好きなんだな」
「ち、違う!その、あの!俺はただ、林先輩がすごいと思ってるだけで……」
「愛、か……。舎弟の不器用な惚れ方なんて、こんなもんだよなあ、建山先生」神崎は弁当から竹輪を取り出して口にくわえ、わざとらしく言った。
「まさにその通りですわ、旦那」
「って、なんで急にヤクザみたいな口調になってんだよ!」岩崎は顔を赤くして言った。
そのとき突然、神崎が岩崎の後ろへ目を向け、慌てた表情で声を上げた。
「あっ、林先輩。こんにちは。ちょうど岩崎くんと、先輩の話をしていたところなんです」
「えええっ──!ち、違います、先輩!林先輩!俺、俺は別に……」
林友達が突然現れたと聞き、岩崎は緊張のあまり、その場から飛び上がった。しかし周囲のどこにも林先輩の姿はない。振り返ると、神崎と建山が地面に転がって笑っていた。
岩崎の顔はさらに赤くなった。神崎の胸ぐらをつかみ、怒りに満ちた目で睨みつけた。
「今日こそ絶対に殺してやる、この野郎!神崎条!」
岩崎が神崎条の胸ぐらをつかんでいるのを見て、理性を失ったのかと思った建山は、慌てて止めに入ろうとした。しかし神崎条はまったく動じることなく、そのまま岩崎に話しかけた。
「岩崎、寮生活はどうだ?」
「はあ?まあまあ……普通だけど……」
「ちゃんと林先輩に、野球の技術を教えてもらってるのか?」
「えっ……それは、ちょっと……」
「おまえの部屋、林先輩の隣だろ?歩いていって、扉を叩けばいいだけじゃないか」
「そ、そんなの迷惑だろ……って、おまえ!どうして俺が林先輩の隣の部屋だって知ってるんだ?」
「あっ、本当だ。俺はどうして知ってるんだろうな?」
「おまえ、やっぱり死ね!」
「この通りだ。勘弁してくれよ~」
この二人、本当にヤクザ映画ごっこが好きだな。
建山は、同じクラスになった二人の野球部仲間を見つめた。中学野球部で一緒だった仲間たちが全員別のクラスになり、初めはがっかりしていた。しかし今となっては、それも決して悪いことばかりではないように思えた。
※※※※
部活動の時間。三年生を除き、今日は一、二年生の合同練習が行われる日だった。主な内容は、打撃後の走塁と、塁上での進塁判断を組み合わせた練習だ。
片岡コーチは一年生を一人指名し、各選手の走塁タイムを計測させた。本塁から一塁へ走り、一塁を回って二塁へ向かい、その後はコーチの指示を見て、さらに進塁するかどうかを判断する。
練習中は、ヘッドスライディングやスライディングなどの危険な動作は禁止されていた。勝手に行った者には、三日間のフィジカルトレーニングが科される。説明しながら、片岡コーチは流星や南極たちの一団へ、まっすぐ視線を向けた。明らかに、この注意はあの問題児たちのために付け加えられたものだった。
走塁か。こういう瞬発力が必要な種目は、あまり得意じゃないんだよな。
友達はそう思いながらも、本塁付近のスタート位置へ立ち、走塁テストの準備を始めた。自分では得意ではないと言っているものの、友達のダッシュ力は、一、二年生の中でも中の上ほどの水準にある。
友達は、こうした瞬発力を競うことよりも、「いつ盗塁すれば刺されずに済むか」や、「どのタイミングでバントを仕掛ければ、仲間を進塁させられるか」を予想するほうが好きだった。それは台湾にいた頃、友人たちとテレビの前に集まり、台湾プロ野球を見ていたときの楽しみだった。
友達がそれを好きだったのは、盗塁のタイミングを予想して当てる確率が高く、馬耀から飲み物を何本も勝ち取っていたからだ。
「位置について……三、二、一、走れ!」
合図を聞いた瞬間、南極は勢いよく塁へ向かって飛び出した。かなりの速さだったが、隣から同時にスタートした選手のほうが一歩早く、先にベースを踏んだ。
「速い!」
友達は、南極が走り負けたのを見て驚いた。南極は熊のように大きな体をしているが、体力も、走るときの瞬発力も決して低くない。しかし隣を走っていた選手は、南極よりおよそ〇・五秒も早くベースを踏み、それでもほとんど息を切らしていなかった。
「やっぱり蓮だな」流星は言った。
「蓮は昔から走るのが速かった。中学の頃には、陸上部の先生から声をかけられたこともある。野球より、陸上のほうが蓮には向いてるってな」宇治川も言った。
結局、蓮は陸上部への入部を断った。ただ走り続けるだけでは、疲れるうえに退屈そうだから、というのが理由だった。
「ああ、負けちゃった」戻ってきた南極は、少し悔しそうな顔をしていた。
「自分では、かなり速いと思ってたのに」
「速いのは間違いないよ。でも、俺のほうがもっと速いんだ、南極」蓮は得意げな笑みを浮かべた。
その笑顔を見た南極は口を尖らせ、不満そうに言った。
「今の蓮、なんだかすごく殴りたくなる顔をしてない?」
「あいつに、殴りたくならないときなんてあるのか?」宇治川は言った。
「ない。あいつはいつでも、どこでも殴りたくなる。それに……おまえ、どうしてあんな写真を紬に送ったんだよ!」
流星は突然、蓮が自分の寝姿を盗撮していたことを思い出した。よだれを垂らし、パンツ一枚で眠っている写真だ。やはりこいつは、どうしようもなく殴りたくなる人間だった。
「俺はただ、おまえの本当の姿を早めに知ってもらっただけだよ。あっ、もしかして流星、おまえは彼女の前では格好つけるタイプなのか? へえ……それなら、やめたほうがいいと思うけどな?」蓮は意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
「そうだな。やめたほうがいい」宇治川も頷いた。
「蓮、この野郎!おい、宇治川!おまえはどっちの味方なんだよ?」
三人が集まると、結局いつもこうなる。
林友達は再び言い争いを始めた三人を見ながら、一年以上が過ぎた今では、自分もこの調子にすっかり慣れてきたように感じた。
そのとき、友達と南極は、片岡コーチが一年生たちに準備をするよう指示しているのを見た。次は一年生が走塁タイムを測る番らしい。
その光景を見て、友達はふと、以前一年生の岩崎から聞いた話を思い出した。
「日空、岩崎がこの前、俺たちに言ってたことを覚えてる? 長川誠のこと」
「ん?長川?ああ、あの話か。えっ!確かに少し関係がありそうだね」
友達に言われ、南極も岩崎が話していたことを思い出したようだった。
長川誠は、ずっとみんなにこう尋ねていたらしい。
「二年生の先輩たちは、走塁でどれくらい速く走れるの?」
チームで最も足の速い選手といえば、やはり浅村蓮しかいないだろう。
正確にいえば、三年生の中西先輩やエースの藤田先輩もかなり足が速い。しかし阪海工野球部で最も速い選手は誰かと聞かれれば、やはり蓮は先輩たちよりも速かった。
ただ、蓮は普段から面倒なことを嫌がり、基本的には本気で全力疾走しようとしない。野球に対する情熱も、ほかの選手ほど強くは見えなかった。自分は野球が普通に好きなだけだと、よく口にしている。しかし蓮はいつもそのような態度を取るため、適当に答えているだけなのか、本当にそう思っているのか、周囲には判断がつかなかった。
だが、長川がチームで誰が一番速いのかをそれほど気にしているのなら、その狙いは明らかに蓮ではないだろうか。
「おかしいな?」南極も同じ結論にたどり着いたようだった。
友達にも、まったく理解できなかった。蓮と流星の話によれば、長川誠が気にしている相手は宇治川のはずだ。それなのに、今はどう考えても蓮と関係している。
わからない。
友達と南極が、二人には不得意な男女の問題について考えている間にも、一年生の走塁テストはすでに半分ほどまで進んでいた。
ストップウォッチを持った片岡コーチは、タイムを記録している小林に尋ねた。
「今年の一年生の塁間を折り返す速さは、二、三年生と比べてどうだ?」
「現時点では、一年生と二、三年生の間には、やはり差があります。だいたい〇・五秒から一秒ほどです。ただし、折り返す回数が増えるほど差は大きくなり、中には三秒近く離される選手もいます。ですが、現在の野球部で繰り返し走っても速度を維持でき、最も速く走れるのは、二年生の浅村蓮です」
小林は眼鏡を押し上げ、観察した結果をコーチへ伝えた。
「あいつは、走ることに関してはやっぱり大したものだな」片岡コーチは言った。
「コーチ、一つ質問があります」小林は言った。
片岡は片手でストップウォッチを押しながら、走塁タイムを読み上げていた。小林もすぐに数字を書き込み、二人が会話していても、記録の仕事を疎かにすることはなかった。
小林は尋ねた。
「最近、野球部内で噂になっています。今回の夏の大会では、成績の良い一、二年生が三年生に代わって試合へ出場し、正式な登録選手になる可能性があるそうです。以前、藤田迅真先輩が田中央一先輩の控え投手だったときとは違い、本当に背番号を受け取るという話です。この噂は……コーチ、本当なんですか?」
「小林はどう思う?」片岡コーチは、逆に問い返した。
「俺は、選手たちを奮起させるための手段だと考えています」
小林は片岡コーチが読み上げた数字を書き続けながら、話した。
「正式な登録選手になれるかもしれない、あるいは登録から外されるかもしれないという噂を流すことで、一、二年生には真剣に野球へ取り組ませ、三年生の先輩たちには現在の水準を保たせ、さらに自主練習を強化させる。どう考えても……」
チーム全体の水準を上げるため、コーチがわざと流した噂にしか思えない。
「ああ、そうなの?私はその噂、初めて聞いたけど」
片岡コーチはそう言ったが、口元はわずかに上がっていた。
「えっ、長川?おまえ、どうして今頃……」
そのとき、走塁のゴール地点にいた片岡コーチと小林は、一年生のスタート地点が騒がしくなっていることに気づいた。
片岡は小林をその場に残し、いったん記録を中断させると、何が起きたのか確かめるため、自分で歩いていった。
近づいてみると、以前、柴門に男装を見破られた一年生の長川誠が、再び野球部のユニフォームを着て潮風球場へやって来ていた。呼び止めようとするほかの一年生部員たちをまったく相手にせず、そのまま走塁テストのスタート地点へ向かっていく。
「長川誠。」
名前を呼ばれ、長川が顔を上げると、片岡コーチが目の前に立っていた。
「この前、はっきり言ったはずだな。どうして今日、また突然グラウンドへ来た?」
「えっ、どういうこと?」
「さあ。長川は何日も見かけなかったのに、突然……」
長川の行動を見て、周囲の部員たちが小声で囁き始めた。
あのバカ。
二年生の集団にいた蓮は、長川が突然現れ、片岡コーチまで騒がせているのを見て、あの女が何をしているのかまったく理解できなかった。
そういえば、一年生たちはまだ、あいつが女子だということを知らないはずだよな?
それにしても、あいつは妙なタイミングを選んだものだ。よりにもよって、走塁テストの日に来るなんて……。
ん?
まさか、こいつ……。
「私も参加します。走塁テストに」長川は言った。
「だめだ。これは野球部のテストだ。グラウンドへの立ち入りを認められていない者が受ける必要はない。わかったら、早く自分から下がりなさい。みんなの迷惑になる」
片岡は、これ以上長川に時間を取られるつもりはなかった。そう言うと、次の選手に早く出てくるよう指示した。
岩崎隼人が小走りで前へ出た。先輩から偶然、長川の本当の性別を聞いてしまった岩崎は、自分より頭半分ほど小さく、短い髪をした長川を見た。
相手が女子だと知らなければ、少し顔立ちの整った男子だと思っていただろう。
「コーチ」
片岡コーチが背を向けて立ち去ろうとしたとき、長川が呼び止めた。そして振り返った片岡コーチと、その場にいる一、二年生の部員全員へ向かい、自信に満ちた表情で言った。
「私が勝ちますから」
「……小林!準備!」
片岡は長川を見ようともせずに言った。しかし、長川をスタート地点から追い出すこともしなかった。そのまま元の位置へ戻り、ストップウォッチを構えた。
岩崎が見ると、長川は自分と同じように走塁のスタート姿勢を取っていた。周囲の部員たちは再び騒ぎ始めた。
そこへ、ちょうどトイレから戻る途中、遠回りをして練習をさぼっていた三年生の村瀬智也が通りかかった。騒ぎが気になり、そのまま見物にやって来た。
「何かあったのか?」
村瀬はやって来るなり、寄りかかる相手を見つけ、小柄な林友達の上へ体を預けた。
「あっ、村瀬先輩。どうしてここにいるんですか?」友達は言った。
隣にいた南極は、突然現れた村瀬先輩を見て、率直に尋ねた。
「村瀬先輩、練習をしたくなくて、さぼってるんですか?」
「シーッ。余計なことを言うな、南極」
村瀬は手を振り、南極に黙るよう合図した。そして不満そうに言った。
「せっかく小便に行くって言って抜け出してきたのに。おまえらは知らないだろうけど、最近の佐久間は、大会が近づくほど鬼婆みたいに怖くなるんだ。それより、今は何が起きてる? なんだか面白そうじゃないか」
「一年生の長川誠が突然参加して、ここにいる全員より速く走れるって言ったんです」
「おお、おお!ずいぶん威勢がいいな。ははっ!面白いじゃないか」
友達が状況を説明すると、こうした騒ぎを誰よりも好む村瀬は、事が大きくなるのも構わず、続きを見物する気になった。さらに手を伸ばして南極まで引き寄せ、二人へ尋ねた。
「それじゃあ、俺のかわいい後輩たち。この勝負、どっちが勝つと思う?」
村瀬先輩に尋ねられ、友達と南極は顔を見合わせた。少し考えたあと、二人は声をそろえて答えた。
「岩崎?」
「いや、岩崎は勝てない」
しかし、すぐそばから誰かが口を挟み、岩崎は負けると断言した。
それは蓮だった。
「長川が勝つ」蓮は言った。
グラウンドに立った岩崎と長川は、カウントダウンに耳を澄ませた。「走れ!」という合図が出た瞬間、二人は同時にスタートを切った。
全力で走り始めた岩崎の目の前で、長川は一気に加速した。猫のような素早さで、岩崎の横を駆け抜けていく。
速い!
岩崎はそう思い、長川に引き離されまいと、さらに強く地面を蹴って前へ進んだ。二人の走塁テストは激しい競り合いとなり、それを見ていた一、二年生の選手たちも沸き立った。
もちろん、ゴール地点のベースで待っていた片岡も、そのことに気づいていた。しかし長川が乱入したテストを中止させるどころか、記録を担当する小林へ言った。
「小林、長川誠の走塁タイムも記録しておいて」
「はい」
勝てるという長川の言葉は、単なる強がりではなかったらしい。
片岡コーチが見守る中、岩崎と長川は互いに譲らないまま、ほとんど同時にゴールへ飛び込んできた。しかし最後には長川が岩崎を引き離し、〇・五秒の差をつけて、岩崎より一歩早くベースを踏んだ。
そのまま前へ歩き、大きく息を吸いながら呼吸を整える。その姿は、こうした走塁練習に慣れているように見えた。
「その短距離走の呼吸法は、陸上部だな」
「……そうです。私が通っていた女子中学校には、硬式も軟式も野球部がなかったので」
中学時代に所属していた部活動を一目で見抜かれ、長川誠も少し驚いた。やはりこの女性教師も、伊達に野球部のコーチを務めているわけではない。
隣では、岩崎隼人が息を切らしながら歩いてきた。走りで負けたのはこれが初めてだったが、長川がこれほど速く走れることに、岩崎はむしろ興奮していた。足早に長川の前へ進み、握手を求めて手を差し出した。
「長川、すごいな!本当に速かった!女子に走りで負けたの、これが初めてだよ」
「ん? 女子?」
そばでその言葉を聞いた小林は、すぐに小さなノートへ何かを書き込んだ。
岩崎の発言を聞き、女子である長川誠と片岡コーチは、二人そろって一瞬黙り込んだ。
「えっ……」
岩崎は突然、場の空気が悪くなったことに気づいた。どうやら口にしてはいけないことを言ってしまったらしい。
長川は険しい顔で岩崎を睨み、差し出された手を払いのけると、そのまま背を向けて立ち去った。
続いて岩崎は、片岡コーチに呼び止められた。
「今日の練習が終わって、グラウンドの整備も済んだら、コーチ室へ来なさい」
「えっ?は、はい」
まずいことになったと、岩崎は感じた。
「待ちなさい、長川」
片岡コーチは、立ち去ろうとする長川誠を呼び止めた。
「これで満足しただろう?もう野球部の練習を邪魔するのはやめなさい」
「やっぱりですね」
片岡コーチにそう言われても、長川には引き下がるつもりなどなかった。
「阪海工野球部は、走塁でも一人の新入生に負けるんですね。こんなチームで、本当に甲子園へ行けるんですか? コーチ」
「……長川。そんな子供じみた挑発をされても、大人から見れば、かわいいとしか思えないよ」
片岡コーチにそう言われ、長川の中で怒りが一気に込み上げた。すぐに言い返そうとしたところで、背後から聞き慣れた声が彼女を呼び止めた。
「おい、長川。おまえ、たった一人に勝ったくらいで、何を得意になってるんだよ?」
歩いてきたのは蓮だった。
もともと人の間に隠れていた蓮は、長川など相手にするつもりはなかった。しかしなぜか、自分が出ていかなければ、長川が収拾のつかない騒ぎを起こすような予感がした。
小学生の頃、少年野球クラブにいたときも、いつもそうだった。
長川は両腕を胸の前で組み、得意そうな顔をしている。
俺は子供の頃、いったいどんな悪いことをして、こんな女と知り合ったんだ?
そう思ったものの、長川が先ほど口にした言葉を、蓮は聞かなかったことにはできなかった。
「野球は走塁だけじゃない。そんなこと、おまえが誰よりもよく知ってるだろ?」
「知ってる。蓮に言われなくてもわかってるよ、バカ」
「俺をバカって言うのか? 勝手にグラウンドへ入ってくるやつも、たいして頭はよくないだろ! もう騒ぐのはやめろ」
「いいよ……。それなら……蓮……」
私と走塁で勝負して。
「どうして俺がおまえと勝負しなきゃいけないんだよ。これは試合じゃなくて、ただの練習だぞ」
「全力で走ったら、私に負けるのが怖いだけでしょう? 知ってるんだから。本当は野球なんて好きじゃないくせに。ただ暇つぶしになるし、流星たちと話すネタができるから、野球を続けてるだけでしょう。野球をしてなかったら、ラップも下手なくせにヒップホップを気取ってる、ただの格好つけた痛いやつじゃない!」
「おまえ、何だと!」
長川が遠慮なく自分のことを暴露したため、蓮は拳を握り締め、一歩前へ出た。長川へ殴りかかろうとしているように見えた。
その瞬間だけは、本気で長川を黙らせたいと思った。
だが気づけば、蓮の腕と体は何人もの部員によって強く押さえられていた。友達、南極、流星、さらには村瀬先輩までが、少し落ち着けと蓮を止めている。
蓮は目の前にいる長川誠を見た。
彼女は怯えた顔で蓮を見つめ、目には涙を浮かべていた。そのとき初めて、長川は年相応の女の子らしい表情を見せた。
やがて長川は、後ろから小走りでやって来る宇治川に気づいた。
宇治川は長川を見ると、まずため息をつき、それから彼女へ言った。
「長川、今は野球部の練習時間だ……」
「うるさい!野球部が何だっていうのよ!」
長川誠が突然、怒鳴り声を上げた。
この声……ん?
長川の声を聞いた村瀬先輩は、疑問を浮かべた。
「おまえたちの青春だけが青春だっていうの! 毎日、意味もなく忙しくしてるだけのバカばっかり! 足も遅い、投げる球もひどい、打つことだってできない! おまえたちだって、そんなに野球が好きには見えない! 野球以外に何をすればいいのかわからないから、そのまま続けてるだけでしょう! 野球部の人間なんて、みんな大嫌い! 特に蓮! 蓮が一番嫌い!」
長川は立て続けにそう言い放つと、目元に浮かんだ涙を手で拭い、そのまま一人で走り去った。
「おい!長川、長川!はあ、あいつ、何なんだよ!」
テレビドラマのヒロインのように走り去った長川を見て、蓮には彼女が何を考えているのか、まったく理解できなかった。
騒ぎが収まり、部員たちが解散しようとした、そのときだった。
背後から恐ろしい声が、その場にいる全員を呼び止めた。
一同はそこでようやく、この場で最も恐ろしい人物の存在を忘れていたことに気づいた。
「どうしたの? どこへ行くつもり? みんな」
片岡コーチは恐ろしい笑みを浮かべ、その場にいる全員を見渡していた。やがて、ひときわ鋭い視線を三年生の村瀬へ向けた。
「村瀬。三年生なら今は最も大切な時期のはずだけど、どうして二年生の選手たちに混ざっているのか、コーチに説明してくれる?」
「えっ……ええっと……その、ははは。どうしてでしょうね? その、俺……本当に申し訳ありませんでした!」
「今日の部活動が終わったら、全員コーチ室の前に集合!」
「はい!」
全員が頭を下げて謝っている間、林友達は、そばにいた小林がノートを閉じ、何事もなかったかのように、こっそりその場から立ち去るのを目撃した。
やはり情報収集と現場からの離脱は、専門家のほうが一枚上手だった。
最終的に、一年生の岩崎と、友達、南極、そして三年生の村瀬は、一週間、男子寮の浴場を掃除することになった。
ブラシを手にした岩崎は、小柄で上半身裸のまま短パンを穿いている林先輩を見つめた。その頭には、南極先輩がいたずらで作った泡の帽子が載っているが、本人はまったく気づいていない。
岩崎の胸は、何かに強く撃ち抜かれたように高鳴った。
林先輩は、やっぱり格好いいだけじゃない。かわいさまである、そんな格好よさだ。
そう考えると、この処分は少しも罰には思えなかった。
二年生の流星、宇治川、蓮は、一年生たちと一緒にグラウンド整備をすることになった。自分たちも一年生の頃には毎日のように行っていたため、蓮たちにとって大した負担ではない。むしろ一年生の後輩たちは、素早くグラウンドを整備するためのこつを、いくつも教わることができた。
「なあ、宇治川。今度また長川に会ったら、頼むからおまえが出ていって、少し説教してくれよ。次もコーチに罰を受けるなんて、俺は嫌だからな。自転車で帰ったら、もう夕方だ。これじゃ本屋にも寄れないよ」
着替えながら、蓮は不満を漏らした。
宇治川は蓮を見つめ、何か言いたそうな顔をした。しかし言葉が喉まで出かかったところで、再び飲み込んだ。
最後に、蓮へこう言った。
「おまえが言ったほうが、俺より効くかもしれない」
「俺が?冗談だろ。あのジャイアンの長川誠だぞ」
蓮は、宇治川が冗談を言っているとしか思えない顔で答えた。
しかし、そばにいた流星は言った。
「でも今日の長川、何だか変じゃなかったか? 蓮、おまえも思わなかった? 長川はわざわざ野球部へ来て、ずっと理由をつけておまえと喧嘩しようとしてたみたいだった。おまえ、目をつけられたんじゃないか?」
「そんなわけないだろ。あいつは、自分が女子だから野球部へ入れなくて、機嫌を悪くしてるだけだ……」
たぶん、そうだよな?
みんなにあれこれ言われたせいで、蓮自身も、どうしてなのかわからなくなった。考えないようにすればするほど、長川誠のことが気になってしまう。
そのせいで、今夜は流星の家へ行ってゲームをする気分にさえなれなかった。
もういい。今日は流星の家へ行くのをやめよう。
蓮はそう決め、一人で自転車に乗り、夕日の下を走った。
自宅のある古びたアパートへ戻ると、その前で自転車を止め、ふと後ろを振り返った。
道の向かいには、長川誠が暮らす美しく立派な新築マンションが建っていた。夕日を受けてきらきらと輝き、暖かな橙色と赤色に染まっている。
言葉では説明できない感情が、蓮の心の中に少しずつ広がっていった。




