第四八章 決め球はフォークボール
台湾出身の陸坡と申します。
この小説は、もともと中国語で執筆したものをAI翻訳を通じて日本語に変換しています。そのため、不自然な表現や誤った言葉遣いなどがあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。
「アウト!」
主審を務める向陽高校の田中栄監督がコールし、向陽の4番打者がバッターボックスから下がった。
今日は合同合宿の三日目、そして今回のメインイベントである阪海工と向陽高校の二年生同士による練習試合の日だ。両校とも人数が少なく、一年生に審判を任せるには荷が重いため、向陽高校の田中監督が主審を務め、阪海工の白井先生と高橋元監督も塁審としてアシストしている。両校の残りの指導陣はそれぞれのベンチで指揮を執り、阪海工側は片岡先生が主導していた。
田中監督が二塁付近にいる阪海工の白井先生を見ると、白井先生は頷いてジェスチャーを返し、向陽高校のランナーの二塁盗塁成功を確認した。もともと一塁ランナーを進塁させる戦術だったとはいえ、向陽の4番が出塁できなかった事実に、向陽高校野球部の多くの選手がどよめいた。外野の芝生席で試合を観戦している一年生たちも驚きを隠せなかった。
「嘘だろ、佐藤先輩がバットに当てることすらできずに三振するなんて」
「これが激戦区・大阪の野球部の実力なのか?」
「佐藤先輩……」
一年生の小早川も驚き、佐藤先輩を三振に仕留めた阪海工のピッチャーを食い入るように見つめた。一体何者なんだ? 向陽の二刀流として期待されている佐藤先輩を、あんなにあっさりと打ち取るなんて。
向陽高校は和歌山県の学校だ。公立校でありながら古豪として伝統ある野球名門校だが、地元トップの強豪校というわけではなく、彼らの目標は常に和歌山の名門私立校だった。自分たちと同じ公立の強豪である『箕島高校』のほか、和歌山の公立校のトップランナーといえば常に『市立和歌山高校』であり、地元の私立強豪と互角に渡り合える公立の星である。
言ってみれば、和歌山は県立や公立の野球強豪校がひしめく激戦区だ。市立和歌山高校のほかにも、ランキングに食い込んでくる『和歌山東高校』や、和歌山県ナンバーワンの進学校である『県立桐蔭高校(旧制和歌山中学)』など、向陽を脅かす存在は多い。これまで向陽はこうした地元の公立校との熾烈な競争に明け暮れており、他府県の公立校にまで気を配る余裕などなかった。
公立校同士の潰し合いが激しいことに加え、近年夏の甲子園の切符を何度も手にしている私立の強豪『智辯和歌山』の存在があるからだ。夏の甲子園優勝三回という圧倒的な実績に加え、秋季大会や春のセンバツでも一目でわかるほどの輝かしい成績を残しており、まさに『和歌山の魔王』と呼ぶにふさわしい。特に、あの有名な野球スター・鈴木イチローが不定期で特別指導に訪れているという事実は、和歌山のみならず、日本中の高校球児たちから羨望の的となっている。
「藤田先輩! ナイスピッチング!」
「先輩、早く点取り返してくださいよ!」
小早川は、阪海工の一年生たちの応援の声に気づいた。
同じ斜面の芝生に座っているとはいえ、両校の生徒たちはごく自然に二つのグループに分かれていた。ホーム校の余裕なのか、二列にきっちり座っている向陽高校の生徒に比べ、阪海工の生徒たちは全体的にかなりリラックスしており、マイペースにすら見えた。ノートを取っている者、雑談している者、中には鏡を取り出して化粧直しをしている者までいる。……ん? 化粧直し?
小早川が自分の見間違いかと疑い、もう一度よく見ようとしたその時。目の前にいる『ハム君』こと廣瀬一睦が、他のメンバーとは違い、またしても落ち着きなく隣の阪海工一年生たちをジロジロと見つめていることに気づいた。もし佐藤先輩から「ハム君から目を離すなよ。向陽高校野球部が他県の人たちや監督に変な印象を持たれないように見張ってろ」と特別に言われていなければ、小早川だって変態みたいに廣瀬をガッチリとホールドし、そのバタバタと暴れる両足を自分の脚で絡め取って固定するなんて真似はしたくなかった。だが、そうでもしないと、この男は絶対に! 確実に! 100パーセント! こっそり阪海工の陣地に抜け出して、他校の生徒にちょっかいを出しに行くのだ。
「ハム君、いい加減にしろよ? 先輩たちを応援しないどころか、全然試合見てねぇじゃねーか」小早川は呆れ果て、両手で廣瀬の頭を阪海工側から強制的にグラウンドの方向へ向け直した。
「俺たち勝ってるし」廣瀬は不満げに呟いた。
「何が『俺たち勝ってるし』だ! たった1点リードしてるだけだろ。お前、少しは真面目に見ろ」
そう言って小早川は怒りながら廣瀬の目を無理やりこじ開け、両脚で廣瀬の体を絡め取り、自分の胸元にガッチリと固定して、このハムスターがこれ以上悪さをしないようにした。
「ねぇ、小早川〜、お願いだから放してよ。5分だけ、いや4分、ううん……4分50秒だけでいいから、ちょっとあっちに行って……」
「何分だろうがダメだ! 廣瀬、これ以上合宿の練習を舐めた態度取るなら、今日の試合が終わった後、佐藤先輩たちに突き出すからな」
「ええーっ! それはひどすぎるだろ!」佐藤先輩たちの名前を出され、廣瀬は即座に反応し、体をよじって抗議した。「絶対に嫌だ! 佐藤先輩、俺に一緒に『ハム太郎とっとこうた』を歌って踊れって言うんだもん。超恥ずかしいじゃん! 絶対嫌だ!」
「あのな、この前グラウンド整備の当番を完全に忘れて、練習後にさっさとコンビニに行ってアイス食ってたのはどこのどいつだよ? しかも、呆れてる佐藤先輩たちにコンビニで呑気に挨拶までして。完全に自業自得だろ」
「だからってハム太郎の歌を踊らせる罰はやりすぎだろ! あんなの拷問だよ! 俺の傷つきやすい小さな心がダメージを受けたんだ!」
小さな心だと? その言い訳を聞いて、小早川は危うく廣瀬の首を絞めそうになり、ホールドする力をさらに強めて言った。「朝のウォーミングアップのリズム体操を、ハム太郎の応援歌に変更されただけだろ! お前がやらかした罰としては妥当なもんだ!」
以前、先輩に呼ばれてみんなの前で歌と踊りを披露させられた罰ゲームを思い出し、「ハム君」こと廣瀬は途端に青ざめた。しかしどうしようもない。小早川は廣瀬よりも少し小柄だが、向陽野球部一年生の中ではウエイトトレーニングの記録保持者であり、彼が力ずくで抱え込んだ廣瀬を押さえつけることなど造作もないのだ。
こうして廣瀬は大人しくなり、先輩たちの練習試合を眺めるしかなかった。通り過ぎるチームメイトたちは、今日のハム君がやけにおとなしいのを見て不思議に思っていた。もしかして、腐ったひまわりの種でも食ったのか? と。
今回の練習試合は「7イニング(7局)制」で行われていた。これは最近、日本高野連が国際大会のルールに歩調を合わせるため、高校野球の公式戦において従来の9イニング制から7イニング制への移行を本格的に議論し始めていることに対応したものだ。
しかし、球児たちの間では賛否両論の様々な声が上がっていた。なにしろ「高校野球といえば9回まで」という伝統的な概念は、ファンの心に根付いているだけでなく、球児たち自身にとっても長年当たり前だと思ってきた野球の形だからだ。「9回裏の逆転劇」こそが、高校野球がこれほどまでに熱狂を生む最大の理由でもある。
だが、台湾からやって来た友達にとっては、逆にこの「7イニング制」という新制度の方が馴染み深いものだった。
「へぇ、台湾って7イニング制でやってるのか? 全然知らなかった」
「マジかよ、野球って言ったら9回までやるもんだろ? 台湾は違うのか?」
今日の練習試合が7イニング制で行われていることから、阪海工の一年生たちの間でもこの話題で持ちきりになっていた。誰が言い出したのか「台湾では7回までしかやらないらしいぞ」という噂が広まり、結局みんなで先輩の試合を真剣に見つめていた友達のところへ確認にやって来たのだ。
「確かに、台湾では7イニング制の大会が多いかな。『黒豹旗』とか『玉山杯』、『王貞治杯』とか……」
友達は少し考えながら指折り数え、台湾では本当に7回制の大会が主流であることに改めて気づいた。しかし、台湾にいる友人・馬耀たちが出場していた「木棒聯賽(高校野球リーグ・木製バットの部)」をつい最近終えたばかりだと思い出した。その大会は日本と同じ9イニング制だった。
「でも、絶対7回ってわけじゃないよ」友達は付け加えた。
「ほら見ろ! やっぱり9回の大会もあるんじゃんか。蓮のやつ『台湾は全部7回制だ』なんて嘘教えやがって」
「お前がバカなんだよ、流星。友達がいっぱい7回制の大会の名前挙げたのに、全然話聞いてなかっただろ?」
「お前ら二人ともバカだろ。なんでそんなくだらないことで言い争ってんだよ」
宇治川は呆れてため息をついた。彼からすれば、7回だろうが9回だろうがどうでもいい。決められたイニング数の中で「どうやって勝利を掴むか」の方がずっと重要なのだ。
「だってさぁ、『9回裏の逆転サヨナラ勝ち!』って響きの方がカッコイイだろ? なあ、友達、南極もそう思うだろ?」
「野球漫画だと大抵そうだな。主人公のチームが最後の最後で逆転するんだ」南極がそう答えると、流星は同志を見つけたかのように声を弾ませた。
「だろだろ! 野球っつーのは、9回の逆転劇があってこそカッコイイんだよ!……あっ! あああああっ! 見ろーーっ!」
「ヤバい! 打たれた!」向陽高校の小早川が叫んだ。
向陽と阪海工、両校の一年生たちがワイワイと騒いでいたその時。カキィン!という快音が響き渡り、一年生全員の視線が一斉にグラウンドへと釘付けになった。芝生に座っていた者たちも思わず立ち上がり、身を乗り出して打球の行方を追った。
ボールはグラウンドの隅にポトリと落ちた。ホームランではないものの、向陽高校の外野手が必死に打球を追う姿を見れば、それが文句なしの長打(ツーベース以上の当たり)であることは明らかだった。
この一打を放ったのは、阪海工の主砲である田中龍二でも木村陸斗でもなく、堅実な日下や川原でもなかった。誰も予想だにしなかった、チームのムードメーカーで楽天家の「中西亮太」だったのだ。
8番打者である中西本人でさえ、自分がこんな当たりを打てるとは思っていなかったらしく、一瞬ポカンとしてから慌てて走り出した。幸いにも打球は深く飛んでおり、向陽の外野手が処理に手間取っている間に、ビハインドを背負っていた阪海工のランナーが二人生還。捕手の佐久間がホームを踏み、一気に1点を勝ち越す逆転劇となり、ベンチからは割れんばかりの歓声が上がった。
「よくやった! 中西!」
ベンチにいる村瀬智也が叫ぶと、二塁ベース上の中西もそれに気づき、おどけたポーズで応えた。どうやら、さっきのタイムリーヒットを打ったことで、彼自身も興奮のあまりテンションがおかしくなっているようだ。
「中西っ! 少しは大人しくしてなさい!」
次の瞬間、片岡先生が二塁上で調子に乗っている中西に向かって大声で一喝した。中西はビクッと飛び上がり、慌ててベースの上で直立不動になり、90度のお辞儀をして謝罪のポーズをとった。
(あの阪海工の二年生……うちのハム君と完全に同じ人種だな)
ベース上で謝っている中西を見て、向陽のエース投手・佐藤は心の中でそう思った。それにしても、自分の球があんな風に弾き返されるとは予想外だった。最初の二打席では、この中西という選手をストレートと変化球のコンビネーションであっさりと三振に切って取っていたのだから。この一打に驚いたのは自分だけでなく、キャッチャーの健三(向陽高校2年捕手・有村健三)も同じだろう。あそこまでクリーンに打たれるとは夢にも思っていなかったはずだ。
やはり、田中監督の言っていた通りだ。
向陽が和歌山の名だたる強豪校を相手に結果を出している公立校だとはいえ、「和歌山のトップクラス」という現状の立ち位置に満足していれば、全国の激戦区に放り込まれた時に厳しい戦いを強いられることになる。今日、大阪の公立強豪である阪海工を相手にしているのが良い例だ。
大阪という超激戦区以外にも、兵庫、神奈川、千葉など、全国には伝統ある野球の激戦区が数多く存在する。佐藤は自分たち和歌山のチームが他県に劣っているとは思っていないが、大阪の一つの公立校を相手にここまで苦戦を強いられているという現実は重い。
それはつまり、エースである自分も、そして他のチームメイトたちも……。
まだまだ努力する余地が山ほどあるということだ。
「佐藤……」
痛打を浴びた直後、向陽高校のキャッチャー・有村健三がマスクを外してマウンドへ駆け寄り、佐藤の状態を確認しに来た。佐藤は「問題ない」と答えたが、有村は念押しするように何度も確認を重ねた。これはすべてのキャッチャーに共通する職業病のようなものかもしれない。ピッチャーの状態がどうなのか、いつも心配で確認せずにはいられないのだ。まるで、夫の帰りが遅いのを問い詰める妻のように。
「悪い、あいつなら絶対にフォークボールは打てないと思ってたんだ」と有村が言った。
「いや、俺の投げた球も少し甘かった」
佐藤は、先ほどの投球でほんの少し指先が滑り、理想的な軌道から外れてしまったことを認めた。有村が小走りでホームベースへ戻っていく後ろ姿を見ながら、佐藤はふと思い返した。自分と有村は、小学生の頃からずっと一緒に野球をしてきた仲だ。ただ、あの頃の有村はキャッチャーではなかったし、自分もまさか、チームの勝敗を背負う「エース投手」になる日が来るとは想像もしていなかった。
そんな感傷を振り払い、佐藤は深呼吸をして自分のリズムを整えた。そして阪海工の9番打者・吉岡大河に対して、捕手の有村との見事なコンビネーションで、あっさりとツー・ストライク・ワン・ボールまで追い込んでみせた。
痛恨の長打を浴びて逆転された直後だというのに、全く動じることなく安定したピッチングを続ける向陽のエース・佐藤。その姿は、阪海工の捕手である佐久間の目を引いた。佐久間が振り返って藤田を探すと、藤田はすでに食い入るようにマウンドの佐藤を見つめていた。
「藤田」
「ああ、見てるよ。すげぇな、まだ6回裏のこの局面で……」
藤田はじっとマウンドを見つめたまま、佐久間に尋ねた。
「圭一。あの佐藤ってピッチャー、得意なのは『昔ながらのフォークボール』じゃないか?」
「お前も気づいてたのか?」友達が少し驚いたように言った。
グラウンドの脇で試合を見つめていた友達は、まさか球種という概念すら持っていないはずの南極から、突然こんなことを聞かれるとは思ってもみなかった。
「なぁ。なんで向陽のピッチャーの球は、ホームベースの近くで急にストンと落ちるんだ?」
そばで友達と配球について議論しようとしていた宇治川も、南極のその言葉を聞いて驚いた。友達が気づいたというのなら宇治川もそこまで驚かなかっただろう。しかし、野球を始めてまだ一年、試合のルールや知識をすべて覚えたのもたった半年前という日空南極が、本来なら球種の違いなど分かるはずもないのに、向陽高校の投手が投げるフォークボールの軌道をハッキリと見抜いていたのだ。
「だって、俺もボールを投げる時、指からすっぽ抜けるとたまにああなるからさ」
南極は、なぜ友達と宇治川がそんなに驚いた顔をしているのか分からないという風に言った。
「南極、あれは『フォークボール』だよ。現代の野球において『最強の』決め球なんだ」と友達が教えると、隣で宇治川も頷いて補足した。
「今、メジャーリーグや日本のプロ野球のピッチャーの多くがこの球種を投げている。ピッチャーの手を離れた時はストレートのような軌道だけど、打者の手元で急激に沈むんだ。だからバッターはミートするのが難しくて、まるでボールがバットの直前で消えたように感じるんだよ」
「マジで!? すげぇなそれ! 俺もその球投げてみたい!」
南極は目を輝かせて興奮気味に言った。
さっきまで7回制か9回制かで騒いでいた一年生たちも、試合のテンポが急に変わったことで、それぞれの打者の攻め方や投手の球種について真剣に研究し始めていた。ここで、選手それぞれの好みや、攻撃寄りか守備寄りかというプレースタイルの傾向が明確に表れてくる。
「ただ投げる時にすっぽ抜けて落ちただけの球と、ちゃんと狙って投げるフォークボールは別物だと思うけどな」宇治川が冷静に突っ込んだ。
それを聞いて南極があからさまにガッカリした顔をしたため、友達はフォローするように言った。
「でもさ、日空。あの球が急に落ちたって軌道に気づけただけでも、すごくすごいことだと思うよ」
「そうか!?」
友達に褒められ、南極はさっきまでの落胆が嘘のようにパァッと笑顔になり、嬉しそうに友達を見つめた。
(まるでご主人様に飼い慣らされた大型犬だな……)
宇治川は心の中でそう思った。以前、日空と友達に「いずれお前たち二人は、阪海工のエースの座を争うライバルになるんだぞ」と釘を刺したことがあるが、どうやらこの二人の間には「エース争いの危機感」など微塵も存在しないらしい。
だが、それが悪いことだとも思えなかった。もし自分が流星や蓮とポジションを争うことになったら、きっと自分も彼らと同じようにバチバチのライバル関係にはなれないだろう。かつて名門校への進学を諦めた時点で、自分の中にあるその「人の良さ(甘さ)」を、宇治川自身が一番よく理解していたからだ。
二年生同士の練習試合は、最終的に阪海工が1点差で辛くも逃げ切った。逆転のタイムリーを放った中西が最大の立役者として讃えられたのは言うまでもない。
一方、1点差で惜敗した向陽高校の田中監督は、選手たちを厳しく責めることはしなかった。ただ「野球の勝負にはこういうこともある。実力も運もすべて含めて試合の一部だ」と語り、常に冷静な判断でピッチングを組み立てたエースの佐藤の働きを高く評価した。
しかし、選手たちにとっては午前中の練習試合よりも、合宿三日目の午後から行われる予定の方がずっと楽しみなイベントだったかもしれない。なにしろ、中日ドラゴンズの現役プロ野球選手・片岡和義から直接指導を受けられるのだ。こんな機会は、多くの高校球児にとって一生に一度あるかないかの千載一遇のチャンスである。
昼休みの時間帯からすでに、大部屋の若い選手たちの間には期待と興奮が満ちていた。阪海工の寮の大部屋では、流星や蓮たちがふざけて枕投げをして遊んでいる傍らで、友達が南極にフォークボールの握り方を教えていた。
「人差し指と中指を大きく開いて、親指は下。こうやって、ボールを両側から挟み込むんだ」
「こうか?」
「そうそう。なんだ、ちゃんと握れるじゃん」
友達は、南極の大きな手がフォークボールの握りを作っているのを見て少し驚いた。初めてフォークボールの握りを試すようなぎこちなさがなく、むしろその握り方にとても慣れているように見えたのだ。不思議に思った友達が尋ねた。
「日空、お前昔からその握り方でボール投げてたのか?」
「うん。俺、いつもこの握り方で投げてるよ」
「えっ? ……『いつも』なのか?」
南極の言葉に友達は耳を疑った。普通、監督やコーチが投球フォームを教える際、最初から初心者にフォークボールの握りを教えることなどあり得ないからだ。指を大きく開いてボールを挟んで投げるこのフォームは、指の股の関節に極めて大きな負担をかけるだけでなく、リリース時に肘の靭帯を痛めるリスクが非常に高い。
友達は手が小さいものの指が長いため、なんとかこの握りはできる。しかし、威力の高いフォークボールを投げるにはかなりの筋力が必要で負担が大きいと感じていた。それでも、打者を打ち取るための有効な変化球の一つであることに違いはない。
南極がいつもボール球ばかり投げるのは、投球フォームの乱れや体の柔軟性不足が原因だと思っていた。だが、まさか南極が『最初からずっとフォークボールの握りでストレートを投げようとしていた』なんて、想像もしていなかったのだ。
あまりにも常識外れな答えに、友達は思わずもう一度聞き返した。
「本当に、ずっとその握りで投げてたのか?」
「ああ。黒川軍曹が教えてくれたんだ。エースピッチャーなら絶対に投げられなきゃいけない、必殺の握り方だって!」南極は満面の笑みで答えた。
当時、南極観測基地にいた頃のことだ。自衛隊員や研究員たちは、南極が野球好きであることを知っていたため、日本から基地に戻る際、この氷の閉ざされた世界で暮らす少年のために、野球に関するお土産をよく買ってきてくれた。その中には野球の漫画やアニメ作品も含まれており、幼い日空南極はアニメの投手が投げる「魔球」に強く憧れるようになった。そして、時折遊んでくれる自衛隊員に「魔球の練習に付き合って」とせがむようになったのだ。
「もしかしたら、ペンギンたちも魔球の秘密の技を隠し持ってるかもしれない!」
無邪気なリトル南極がそう言うと、来る日も来る日も基地の中に閉じ込められている自衛隊のお兄さんたちは大笑いし、魔球を習いたがるこの少年をからかって遊んでいた。
「リトル南極、お前本気で魔球を覚えたいのか?」
黒川軍曹もその噂を聞きつけてやって来た。
一番よく遊んでくれる黒川軍曹の姿を見るなり、南極はピョンピョンと跳ねながら駆け寄り、「すごい魔球を覚えたい! そしたらバッターを全員三振にできるから!」と目を輝かせた。黒川軍曹は、日々成長していくこの少年の頭を優しく撫でた。かつては自分の腰の高さにも満たなかったのに、今ではもう顎のあたりまで背が伸びている。
「よし、じゃあ本物の魔球を教えてやろう。日本のすごいピッチャーたちがみんな投げてる魔球だ。魔球が投げられるようになる秘密の握り方を教えてやる」
「ほんと!? やるやる! 教えて!」
その時、黒川軍曹が南極に教えた握り方こそが「フォークボールの握り」だった。南極は、指を大きく開いてボールを挟むこの投げ方を「ずいぶん変な持ち方だな」と思った。だが、なんといっても「魔球の秘密」だ。誰も思いつかないようなこの奇妙な握り方こそが、最強の球を投げる秘訣に違いないと信じ込んだのだ。
黒川軍曹がフォークボールの握りを教えたのは、ほんの遊び心からだった。彼自身、かつて防衛大学校の野球部でプレーしていた経験があり、当然他の隊員よりも変化球の投げ方に詳しかった。魔球に熱中する少年に、現実世界の「魔球」を教えて喜ばせようとしただけなのだ。
だが、軍曹の予想を遥かに超えて、南極はその日以来、来る日も来る日もこの握り方だけでボールを投げ続けることになった。
南極が楽しそうに「自分の魔球」について語るのを聞いて、友達の頭の中で一つの仮説が急浮上した。
南極の異常なまでの制球難。そして、ボールの行く先が全くコントロールできない理由。
それは、彼が常にフォークボールの握りで全力投球していながら、ボールをリリースする「正しい感覚とタイミング」を知らなかったからではないか? だからこそ、あんなにも激しい暴投を連発していたのではないか?
他にも様々な要因があるだろう。しかし、誰よりも南極の投球を間近で見続けてきた友達は、この日空南極という少年の内に秘められた……。
底知れぬ恐ろしい「野球の才能」の片鱗を、またしてもまざまざと見せつけられたのだった。
「おお、フォークボールの握りじゃん。すげぇ、めっちゃ綺麗に握れてる!」
「え?」「えっ!」
「やあ、また会ったね、ユウタくん。それに……えっと、大熊さん」
どこからともなく現れた向陽高校の一年生、廣瀬一睦が、こっそりと友達と南極のそばに忍び寄り、声をかけてきた。しかし、またしても二人の名前を間違え、訂正されてから再びペコペコと謝った。
何度もわざわざ友達に会いに来るこの他校の野球部員に対して、いつも友達のそばにいる南極は困惑していた。大阪桐蔭の神谷蒼士のように、明確な勝負欲を剥き出しにして近づいてくる相手なら、南極もどう対応すべきか分かる。しかし、この「ハム君」と名乗る廣瀬一睦からはそういう気配が全く感じられない。なぜ友達に目をつけたのか、その目的が全く読めないこの男の存在は、南極にとって余計に不気味で捉えどころがなかった。
その時、南極の目の前で廣瀬が両手を伸ばし、ヒョイッと友達の体を持ち上げて言った。
「おっ、友達くんって、見た目より結構がっしりしてる(質量がある)んだね」
その瞬間、南極の中で強烈な不快感が一気に沸点に達した。
「お前、何やってんだ! ハム君!」
南極が思わず声を荒らげようとした瞬間、思いがけず背後から別の怒声が飛んできた。
振り返ると、そこには見慣れない顔があった。向陽高校の別の生徒らしい。
昼休みに廣瀬が大部屋にいないことに気づいた小早川は、「あいつ、またかよ」とイライラしていた。最初は放っておこうと思ったが、監督とのミーティングを終えて休憩に戻ってきた佐藤先輩と有村先輩にたまたま鉢合わせてしまった。挨拶を交わすついでに、小早川は「ハム君がまた他校の部屋に入り浸っている」と愚痴をこぼしたのだ。
「ははっ、あのハムは本当に元気いっぱいだな。人見知りってものを全く知らない」有村が笑って言った。
「先輩、笑い事じゃないですよ。廣瀬が他校に失礼なことでもしたらマズいじゃないですか」
「いいじゃないか、他校の選手とたくさん交流するのは良いことだぞ」
「有村先輩、ハム君を甘やかしすぎですって」
有村の言葉に小早川は呆れ果てた。有村先輩はグラウンドでは常に厳しい表情を見せているが、プライベートではこんなにも大雑把で放任主義なのだ。監督がキャプテンの重責を佐藤先輩に任せたのも頷ける。
「まあ、小早川の心配も無理はない。ハム君が悪さをしないとは思うが、言うことを聞かずに勝手にうろつく後輩には、少し教育が必要だな」
佐藤は少し考えてから言った。
「よし、合宿所に戻ったら、朝練の時にあいつ一人に『ハム太郎とっとこうた』の歌とダンスを連続でやらせるか」
「おっ、それいいな!」有村も賛成した。
「佐藤先輩、有村先輩、ふざけないでくださいよ」小早川がため息をつくと、佐藤は彼の肩をポンと叩いて言った。
「大丈夫だ、小早川。廣瀬はああ見えても、善悪の区別はちゃんとつくやつだ。お前もそんなに心配するな」
「でも……」
「どうしても心配なら、お前が直接連れ戻してこいよ」有村が笑いながら言った。「午後の集合時間までまだ40分もある。あのデカいハムスターを捕まえるには十分な時間だろ?」
そんな経緯があり、小早川は阪海工の男子寮の大部屋へと足を踏み入れた。見知らぬ顔が並ぶ中、部屋の隅にいる廣瀬一睦をすぐに見つけたのだが、なんと廣瀬は他校の生徒を突然持ち上げているではないか。驚いた小早川は慌てて駆け寄り、一喝したのだ。
「あっ、小早川? そうだ友達くん、紹介するよ。こいつは小早川、うちのチームのファーストだ」
「今は紹介してる場合か! お前、一体何やってんだよ! ……あ、自分は小早川と言います。よろしくお願いします」
「えっ……あ、こんにちは。林友達です」
「俺は日空。よろしく」
訳の分からない状況のまま、友達はまた一人、向陽高校の一塁手・小早川牧と知り合いになった。
「小早川、頼むから後で一緒に戻るから待っててよ! 佐藤先輩たちのミーティングの隙を突いて、やっと抜け出して……じゃなかった、やっとここに来れたんだからさ。せめて友達くんと話し終わるまで待って」
「あのな、廣瀬……」小早川は真剣なトーンで言った。「こういうことは、他の人に話したってどうしようもないんだ。ただ迷惑をかけるだけだぞ。それに、彼だって吉田じゃないんだから……」
「えっと、ハム君は一体俺に何を言いたかったの?」
「友達?」
口を挟もうとした南極を友達は手で制し、何度も自分に会いに来てくれた廣瀬の目を真っ直ぐ見て尋ねた。
「これだけ何度も来てくれるってことは、きっとすごく大事な用なんだろ?」
俺に言いたいことって、一体何なんだ?
「そ、それは……」
林友達からの予想外のド直球を受け、廣瀬は一瞬たじろぎ、照れたように目を泳がせた。自分から言おうとしたくせに、どうしても口に出すのが恥ずかしいらしく、隣の小早川に助けを求めるような視線を送った。
しかし、そのSOSサインを見た小早川の心の中には、怒りの炎が燃え上がっていた。
(全部お前が勝手にやったことなのに、なんで俺に助けを求めるんだよ!? このハム君、マジで自分のことを人畜無害なハム太郎だとでも思ってんのか? 先輩たちがチームのペットみたいに甘やかすから、こんなに調子に乗るんだ!)
「……少し申し訳ないのですが、林くん。廣瀬と二人きりで少し話してもらえませんか?」小早川が言った。
「え? 二人きりで?」友達が聞き返すと、隣で廣瀬がブンブンと激しく頷いていた。
「俺たちの前だと、こいつ恥ずかしがって言えないみたいなんです」小早川は深いため息をつきながら言った。
二人きりか。友達がそう思っていると、先ほどから自分の両腕を掴んでいた南極の手が、さらにギュッと力を込めたのを感じた。まるで友達が他校の変人に拐われてしまうのを恐れているかのようだ。
友達は南極を見上げ、自分よりずっと太く逞しいその腕を軽くポンポンと叩いた。なぜかそれだけで、自分の意思が南極に伝わるような気がした。南極は少し身を屈め、友達の耳元で囁いた。
「友達、本当にハム君と二人きりで話すのか? お前、あいつに食われちゃうかもしれないぞ」
「何言ってんだよ。ただ話すだけだって」
南極がただのデタラメを言っていると分かっていながらも、友達は思わず吹き出してしまった。そして言った。
「それに、ハム君の顔を見てみろよ。何かすごく深刻な悩みみたいだし、野球の相談かもしれないだろ?」
「じゃあ俺も行く」
「戻ったら全部教えるから」
結局、友達は廣瀬と二人で大部屋を出ていくことになった。友達は「あまり人が来ない場所を知ってる」と廣瀬に伝え、階段の隅にある自動販売機のスペースへと向かっていった。
「…………」
残された小早川は、自分に向けられた強烈な『恨み』の視線を感じていた。
その視線の主は非常に大柄で、まるで南極にいる巨大なホッキョクグマ(シロクマ)のように逞しかった。その眼差しに晒され、小早川は本能的な恐怖を感じた。
(超怖ぇぇぇ! ハム君のお世話なんか焼くんじゃなかった!)
しかし、廣瀬のことも、吉田のことも……。
(……吉田が野球をやめたこと、気にしてるのはお前だけじゃないんだぞ。バカハム)
小早川は心の中でそう呟いた。




