三話『突然のプロポーズ』
◆ノエル・イノセンス視点◆
飛竜は私へ飛びかかろうとしたまま、その身を横たえた。
剣を振り下ろしたあとの残心にも似た、戦闘で気を張っていた気持ちの冷却をする時間。密かに強ばっていた身体から意識して力を抜き、棒立ちではあるがリラックスしていく。
「…………」
その後は、静かに目を閉じて祈りを捧げる。飛竜という、人類へ害をなす存在であれ……やはり、一個の命だ。
その尊さを踏みにじった張本人が私だとしても、私は冥福を祈る。
――ザッ、ザッ
……そんな風に静かに祈っていたのだから、いくら背後からとはいえ、その足音にはすぐに気がついた。
足音は一人分、異形種のものでなく、紛れもない人間のもの。体格まではさすがにわからないが、足音を殺すといったこともなく、むしろあえて無警戒に足音を立てているようにも思える。
「――――」
私は振り返った。
「――あなたは」
思わず、ポツリと言葉が零れた。
――そこにいたのは、私が仕える国の第三王子である、ノワール・ブランシュ・ハイラキア殿下。
苦々しい、とも言える感情が胸に広がる。……なにせ私は、この人と結婚することになるのだから。
政治の事情ということらしい。詳しくは知らないし、知りたくもないが。とにかく私はこの国の王子と血縁にならなくてはいけないらしく、その相手に選ばれたのがこの第三王子である。
こう言ってはなんだが、彼はあまり評判がよくない。その評判を伝え聞かせてくれるのがティファニー一人だけ、という些か信頼にかける情報源だが、実際に言葉を交わしたことのあるティファニーがそう言うのだ。
私は式典で顔を見知っているだけで、恐らく向こうからは知られていない。だが、警戒心はどうしても先立った。
「いえ、御身は……」
だがしかし、身分差を理解しているのならそれ相応の対応がある。私は騎士、それも平民。対する相手は国王直系の王子だ。
――考えを巡らせながら、私は騎士礼をしようとする。選ぶのは最敬礼。地面に膝をついて跪く、最上位の敬礼である。
なにが目的だろう? 私とノワール殿下は結婚することになっており、言わば拒否権のない婚約のようなものだ。正式に受けてはいないものの、婚約者と言っても過言ではない。
だが事前に聞いていた人となり、まして場所が場所だ。飛竜と救世主が戦っている現場に王子が来るとは、なんの冗談だろう。なにか目的があるに違いない。
……が、全くわからない。第三王子という立場でありながら、命の危機を侵してまでわざわざこのタイミングで現れる意味など。
――戦闘中の名残で、加速した思考の中でそこまで考えて、けれど身体は最敬礼をとろうとして。
手で、制された。
誰にか? 目の前のノワール殿下にである。
――なぜ止められるのだろう? と、一瞬私が呆けた隙に、逆にノワール殿下が跪いた。
……なにをやってるんだコイツ、と、無礼極まりないことを私は考えてしまう。不意打ちだったため、顔にも出ただろう。
「――初めまして。私はノワール・ブランシュ・ハイラキア。レディ・ノエル、あなたに一目惚れしました。このような場で、渡せる花束の一つもないことをお許しください」
なのにノワール殿下は気分を害するどころか、そんなことまで言ってきた。耐えきれず、私の口から声が漏れる。
「……は?」
一介の騎士風情、それも平民に、やんごとなきご身分の人間が跪いて。
恭しく胸に手を当てて、紡ぐ言葉にも敬意が見て取れる。
……「一目惚れ」?
「このような場で」とわかっているなら、なんで来た?
というか、ありさえすれば花束を寄越してくるつもりだったのだろうか、私に。
は?
…………は?
「……で、で、殿下……仰る意味が、わからないのですが……?」
困惑のあまり声を震えさせながら、なんとか言葉使いは取り繕って殿下へ聞き返す。
「お手を、失礼します」
「はい……?」
それを聞いた殿下が、なぜか私の手を取った。
好き好んで私に触れてくる人間が珍しすぎて、そして事前に一声かけられたとはいえ突拍子がなくて、私はそこでも困惑に襲われる。
殿下は、握った私の手を自らの口許に持っていき――手の甲に口付けた。
「……!?」
なんだこれは……なんだこれは……!?
貴族の間では、キスをする行為やする場所によって意味があったりするとは聞くが、これはなんのつもりだ。
……いや、私も知ってる。昔チラリと見かけたことのある演劇で、貴族の男が女性へプロポーズする際にしていたような。
私だって昔は純真な乙女で、素敵な男性からプロポーズされたりなんていうのを妄想したことだってあるが、まさか本当にされるとは。
……いや、本当に意味がわからない――!
「――後日、正式な場で求婚させていただきます。レディ・ノエル、その日までどうかお待ちください。今はこのキスで、私の想いを知っていただければ充分です」
「え、で、殿下……?」
困惑して碌に反応を返せない私を置いて、殿下が立ち上がる。なぜか私の手は握ったままだ。
身長は殿下の方が高い。失礼だとは思いつつ、思わずその顔をまじまじと見てしまう。
「――――」
なぜか、数瞬だけ殿下が私と視線を合わせていた。
手を握り合い、見つめ合っているという言い訳のできない現状。先ほどまで戦場のど真ん中であったというのに、プロポーズまでされているのは本気でどういうことなのか。
「――それでは、今日のところは失礼致します。また会える日を心待ちにしていますね」
ニコリ、殿下が最後に微笑んで。
握っていた私の手を離し、殿下は踵を返して去っていく。彼が向かう先には、彼を乗せてきたと思しき馬車と同行者の姿が。
「…………」
ぺたん、と。私はその場にへたり込む。
「……な、なんだったんだ、今の……」
それが、私の偽りのない本心だった。
◇
「――ということがあったんだが……」
「げ、なんですかそれ」
なんだかんだあったものの、フラムと合流して飛竜討伐を終えて小隊の詰所に戻り、鎧姿から騎士服へ着替え終わって。執務室へ行ってティファニーに先のことを話せば、ものすごくわかりやすいしかめっ面が返ってきた。
王子の意向に嫌な顔をするのは不敬ではあるのだが、私も内心同じ気持ちなので責められない。ティファニーの素直さが羨ましいなと、そんなことを思うくらいである。
「事前通達なしで急に戦場について来ておいて、それでなにかあったらどうするつもりなんですかね? 責任とるの隊長じゃないですか。ていうかなんです? 求婚? ついさっきまで戦ってた場所で? バカなんじゃないですか?」
「…………」
……いや、本当に羨ましい。
人目があるわけでも、好き好んでここへ近づいてくる部外者がいるわけでもない。ならばと憚ることなく悪口を垂れ流しているのだろうが、ティファニーの勢いは凄まじい。
私が言えないことを代わりに言ってくれているようなものなので、そういう意味でもありがたい。
「これ、どう考えても問題行動なんですけど。抗議しときます? いくらなんでも文句の一つくらいは……あぁ、あのバカ王子なら無理ですよね……」
と、挙句の果てにはノワール殿下の人柄を貶し始めるティファニーだったが、その言い分には少し言い返したい。
「……その第三王子なんだが、ティファニーが言っているような人間には見えなかったぞ?」
ティファニーが言うには、第三王子とは酷く野心家で、口調も態度も尊大で傲慢。平民はもちろん貴族連中のことも見下していてそれを隠そうともしないアホで、没落貴族であるところのティファニーは大層酷い目に遭った、と。
……なのだが、実際に会って話してみて、そんな気配は微塵もなかった。尊大で傲慢、と言われてもそうは思えない。謙虚で礼儀正しく、身分を無視して女性に敬意を払う姿は、ティファニーの言葉から想像した人柄とは大きく異なる。
「はい? 猫被ってたんじゃないですか?」
「……う、うぅむ」
私の疑問に、ティファニーはサラリと答えを用意した。
確かに、私は先ほどが殿下と初対面。それ以前であれば式典で顔を見たくらいと、人柄を知っているとはとても言えない。
先ほどだけ猫を被っていた、と言われればそれまでだ。
……それまで、なのだ。なのだ、けれども。
「……しかし、だな……」
「……隊長?」
もやり、とした感情が胸に広がる。
プロポーズされたことへの羞恥や喜びでは、断じてないと思う。むしろ突拍子がなさすぎて、「なぜ?」という疑問が先に立ってしまって薄気味悪く思うくらい。
一目惚れと言われはしたが、言うだけなら簡単だ。そんなものでは理由がないに等しく、理由もなく突然求婚されたのであれば困惑するだけである。
なので、私が覚えた感情は、猜疑心と不信感と、それから――
あえて、名前をつけるとするなら。
「……なぜ、私なんだろうか」
――恐怖、だろうか。
「私が、恐ろしくは、ないのだろうか……」
私は精霊魔法使い。そこらの人間や、その人間を容易く殺してしまう怪物、果ては他の救世主も、私には敵わないだろう。
私は強い。とても強いのだ。――周囲の人間関係を、根こそぎ壊してしまうくらい。
「隊長……」
前々から、話は決まっていたのだ。第三王子と私が結婚すると。けれども、話が決まっても一向に顔を合わせることはなく、それ以上の進展もない。今日会ったのだって、きっとなにかの間違いだ。
それはそうだろう。私は誰しもから恐れられる。結婚したいだなんて、まかり間違っても思うはずがない。
一目惚れ? バカを言うな。口から出任せだ。だいたい、こんな幼い容姿で存在感が薄くて、全身白一色で薄気味悪い上に起伏のきの字もない身体の女を、一目見て惚れるだと? ありえない。
――ノワール殿下が、私を好きなはずがない。なればこそ、どうしてああやって、跪いてまで私にプロポーズをしたのか。それがわからなくて、酷く恐ろしい。
「……私は隊長のこと、怖がったりなんかしませんよ?」
ティファニーが、俯いた私の顔を覗き込みながら言ってきた。私はハッとなって、慌てて表情を取り繕う。
「……っ、あ、ああ、わかっている。気を使わせたな、すまない」
「……。気は使いましたけど、嘘は言ってませんし」
なんとか微笑みを作ることに成功して、私はティファニーに笑いかける。それが虚勢だというのはティファニーにもわかったのだろう。彼女は一瞬だけ痛ましそうに顔を歪めて、しかし次の瞬間にはにへらと笑った。
「ほら、隊長ってちっちゃくて可愛いじゃないですか。お腹すきましたよね? お菓子ありますよ」
気を取り直したティファニーが、執務室の戸棚からお菓子を取り出した。量は大量だ。
――私は、精霊魔法が原因なのか元々の体質なのか、とにかく燃費が悪い身体をしている。
通常の食事は四人前から五人前程度でお腹いっぱいであり、加えてことあるごとに間食を摘んでいなければ、一日三度では食事が追いつかない。
それだけしこたま食べておきながら、齢18なのに成人前の子供に見える体格で、体型も貧相どころではない。ティファニーが「ちっちゃくて可愛い」と言ったのはそういうことだ。
まあたしかに、私のような――外見が――幼い少女がもりもりたくさんものを食べていれば、可愛らしいというか微笑ましいというか和むというか、そう思うのはわからないでもない。
がしかし、成長しない肉体と、燃費が――ついでに勝手も――悪い体質には私自身辟易していて、そのことをさも長所のように言われても、である。
「……。……ありがとう」
だけれども、戦闘後で疲れていることもあり、小腹が空いていたのも事実。不満は飲み込むことにして、ティファニーが笑顔で差し出す間食を摘むことにする。
ちなみにそのお菓子とは、王都の貴族御用達の店で売られているもので、クッキーやマドレーヌなどなど割と多種多様に揃えられている。
救世主の食費ということで、小隊の維持費用として経費で食べられるため、ティファニーも私も都合よく利用していた。
年頃の乙女なのだ。甘味は大好きに決まっている。
「今は嫌なこと忘れて食べましょー。ほらこっちも美味しいですよ」
ティファニーが差し出してきたマドレーヌを食べつつ、「もしかしてこれは餌付けなのか……?」と、私はそんなことを考えた。
◆エルネスト・オードラン・ハイラキア視点◆
――精霊魔法使いの戦場から、帰還する馬車の中で。
一応は弟である馬鹿者に、俺は苦言を呈していた。
「……お前な」
「はい」
「あそこで急に出ていって求婚するとかどういうことだよ」
見た直後こそ呆気にとられ、「お前、やるな」と感心した風な声をかけてしまったが、ノワールのやったことは割と洒落にならない。
今あそこに連れていったのは、都合よく精霊魔法を見られるからである。
飛竜とはいえ竜種の討伐ともなれば、精霊魔法の恐ろしさはわかりやすい。初見であれを見せておき、十二分に恐ろしく思ってもらったあとで正式に顔見せを、というつもりだったのだ。
一応は王族であるのだから、自分の行動に多種多様な意図が絡むことを忘れてはならない。一挙手一投足に噂が付きまとうし、なればこそそれを見越した行動もとらねば。
――と、ノワールに説教をかます。
「はい、すみませんでした」
ノワールの返答はそれだけ。
極めて自然体で悪びれない様子なのだが、きちんと聞き入れてはいるようだ。悪いことだとわかっていながら、それでもやったことなのだろう。
しかし、つい先日までは違おうと今は第三王子。立派に一国の王位継承権の保持者だ。なんであれ自覚を持ってもらいたい。
「……実感がないかもしれないが、お前は王子だ。そのことを肝に銘じろ」
「はい、わかっています」
今一度それを念押しし、苦言もとい説教はそこで終了とする。すると、ノワールが新たな話題を切り出した。
「貴族や王族が女性へ求婚する場合はどうしたらいいんですか?」
「……今してきただろ、お前」
俺はその物言いに少し呆れる。今しがた手の甲にキスまでしてプロポーズをぶちかましたくせに、なにを言うのか。
……あいや、あれがこの世界の求婚として正しいのか、ということが確認したいのだろうか?
「いえ、あそこでやったのはどう考えても非公式ですし……公式な場で改めて求婚する、と彼女にも言ってしまいましたから」
「……なるほどな」
続けられたノワールの補足で、俺は納得した。迂闊な行動にしか見えなかったが、迂闊な行動なりにちゃんと考えてはいるらしい。
精霊魔法使いも、あれを受ければさすがに……いや、普通に不信感しか抱かれないだろうに。ノワールがやったことに意味はあったのか。ないぞどう見ても。
……ないからこそ、公式な場で改めて求婚を、という話なのか、そうか。
――ならこの弟は、なにを考えてあの女に求婚なんぞしたのか。理解に苦しむ。
ともかく、貴族や王族の求婚方法か。
「貴族同士の結婚なら、〝いろいろな事情〟で決定したものをそれぞれの親が承諾して、主催で夜会でも開いてお披露目だな。大抵は男側の家が主催する」
〝いろいろな事情〟とは、もちろん政治的なそれや恋愛的なものやら、いろいろだ。貴族であれば生まれる前から婚約が決まっていることも珍しくないのである。
男側が主催する、というのは、大抵の結婚の場合は女性が嫁ぐから。嫁がれた家が新しい夫人を披露するのだ。
女側の家柄の方がいい場合はその夜会に大層気を使い、多方面でいろいろ大変になったりする。俺の妹である第二王女が公爵家に嫁ぐ時なんか、見るからにてんやわんやで……それはまあ関係ない。
――で、今回のノワールと精霊魔法使いの件だが。
「ノエル・イノセンスは平民だ。それとお前は王族。実は結婚できない」
「……はい?」
ノワールが素っ頓狂な声を上げた。それもそのはず、「結婚するから」と言い出したのは俺の方なのに、手の平を返せばこんな反応にもなるだろう。
「王族のしがらみだと思え。王族と平民は結婚できないんだよ。愛人にならできるが、それもいい噂が立たないな」
「…………」
俺が「愛人になら」と言った瞬間、露骨にノワールが顔を顰めた。どうやら愛人というものを嫌っているらしい。
貴族や王族ならば側室だの愛人だの珍しくはないが、平民は一夫一妻が主流。ノワールの価値観は恐らく、その一夫一妻が大原則だったりするのだろう。
元の世界では平民だったのだろうか。それにしては教養があるように見えるが。
――ともかく、説明を続ける。
「で、それを解決する手段は二つ。一つは平民の側を貴族にする。戦場で武勲でも立てれば無理やり騎士爵を与えることができるし、精霊魔法使いは別格だ。すぐにでもできるが、こっちはちと無理だ」
「なんでです?」
「精霊魔法使いを一国が貴族として擁するとかできないだろ」
「なるほど」
おざなりな説明で納得したらしいノワール。やはり平民にしては教養がある。
では高等教育や政治に触れられる立場で、尚且つ一夫多妻に嫌悪感を抱く価値観……矛盾しているのだが。上流階級なら、跡継ぎの重要性など語るまでもないだろうに。
「――なら、俺が王族を捨てればいいんですか」
……こうして、俺が言わずとも二つ目の方法を思いつく辺り、本当にノワールはよくわからない。
我が国に害をなさない、と保証はできる。だからこそこうした説明も行った。だが、酷く危うく思えた。
「そうだな」
俺はノワールに同意をして、その後の説明を続けた。
◆ノワール・ブランシュ・ハイラキア視点◆
俺がノエルと結婚するに辺り、具体的に行わなければならない手順はたくさんあった。とりあえず、簡潔にまとめると――
――俺が王子をやめて貴族、公爵位となり、正式に顔見せパーティを開いてノエルとの結婚を決定づける。
公爵になるにあたって屋敷を持ったり実権が減ったり増えたり、独自に使用人を手配したりパーティだって主催をせねばならず、当然そこへ「ノエルとの円満な夫婦生活の遂行」という一大任務も添えられている。
やることが明確に決まって、ようやく貴族や王族というものへの実感が湧いてきた今日この頃。ノエルの戦場から戻ったその日から、諸々の手続きが始まった。
……と言っても、具体的にすることはそんなにない。
どうやら俺は、対外的には記憶喪失という扱いらしく、今までの人脈やらなにやらが全て白紙になっている。そのため知人への根回しは兄上に任せきりで、その他もろもろについても同様だ。
とりあえず、俺が公爵として住む屋敷を確保できるまでは秘密裏に事を済ませ、準備ができれば一気に、ということになっているらしい。
屋敷の方は、ちょうど都合よく空き家になっているところがあり、そこをリフォームして使うのだとか。
出来上がるまでしばらくかかる。その間、王子としての教育を受け直したり、エルネスト兄上の仕事を手伝ったりしろ、とのこと。
――なので、ノエルとの初対面から戻った俺がまず行うことになったのは、暇潰しであった。
具体的には、この世界の文字の勉強のために、子供向けの絵本を眺めながら、なのだが。
「……わかる、ような。わからんような……」
ミミズがのたくったような、いやに達筆風な文字を見つめ、頭の片隅に引っかかる感覚を覚えた俺はそう呟いた。
俺が死体に憑依する前の第三王子、この身体の本来の持ち主の方は、当然読み書きができただろう。その時の記憶が残っていたりするのだろうか。
そういえば、俺は全く意識していなかったが、異世界人と普通に会話がこなせている。その時点で結構おかしい。
「の、わ、ぁ、る……」
試しに自分の名前を、どんな言語なのか気にしながら口に出してみると、酷くぎこちない発音になった。というか、今のは完全に日本語だった。
意識して喋ろうとすれば日本語もいけるようだ。身体が慣れていないのだろうか、酷く喋りづらいが。
となると、先ほどまで口にしていた言語はなんになるのだろう、と思いながら、適当に口を動かす。
「……レディ・ノエル……俺と結婚してください……あなたを愛しています……」
その文面が煩悩と下心満載のものだったのは、いかに俺の脳内にノエルの姿が染み付いているかを考えれば仕方がないことである。
……ともかく、やはり言語は明らかに日本語ではない。なのになぜか喋れている。
ライトノベルでよくある異世界転生モノでは、キャラ同士の意思疎通などはご都合主義としてさっくり描写されているのだが……これもそうなのだろうか?
異世界から魂だけ召喚した、と兄上も明言していたし、なにかしら人為的なアレコレがあっても不思議ではない。無意識に異世界語を使えるようになっている、というのはありきたりな代物だろう。
どうせなら文字も同じように対応していればよかったのだが……いかんせん、微妙に記憶が刺激されるような気がするだけで意味はわからない。一から勉強し直すべきだろう。
「……はぁ。結局は教師待ちか……」
そう、すなわちそこに落ち着いてしまうのである。
俺が自室で一人――部屋の外にメイドが控えているので厳密には数人――で暇潰しに興じているのは、ひとえに〝やることがないから〟だ。
王子としての教育を受け直す、とは言うものの、昨日の今日で手配することはできなかったそうで、急ぎ明日には手配できるが今日のところは、というわけだ。
「……寝てしまうか」
座っていた椅子から寝室の扉を見て、そう独りごちる。することがないなら寝てしまえ、という怠惰の極みな選択ではあるが、悪くはないように思える。
「ふあぁ……」
そう考えると、知らず知らずの内に身体が疲れていたのか、疲労による眠気まである気がしてあくびが漏れた。
――よし、寝てしまおう。
そう結論した俺は、潔く寝室に突撃して睡魔に白旗を上げるのだった。




