07. 新しい生活 【ダリア】
ダリアはバルコニーの下の花壇に、花を踏まないよう注意深く飛び降りた。
靴底が土に柔らかく沈みこむ。
西には雄大な山脈が見え、赤々とした夕日が落ちていくところだった。
「いきなり入り込んですみません」
ダリアは駆け付けたアルフレッドの前で深々と頭を下げる。
「いえ、びっくりしただけだから、いいのだけど。何かあった?」
ダリアは懐に入れた暗号文のことをまた考えたが、やがて首を振った。
「新参者が妙なことをしました。申し訳ありません、アルフレッド様」
「そんなこと、気にしないで。この家は、もうダリアちゃんの家でもあるんだから」
それより、と言ってアルフレッドは膨らませた頬に長い人差し指を添えた。
「アルフィーって呼んでって、言ったわよね?」
ダリアはうっと息を詰まらせると、ぼそぼそと言った。
「王弟にあたられる方を愛称で呼ぶなんて、恐れ多いことですので」
「ここの屋敷の全員、アルフィー呼びだけど」
「アルフィー様、良い野菜が取れましたよ」と、木の影からひょっこり顔を出す庭師。
「アルフィー様、この帳面についてお話が」と、窓から顔を出す家令。
「あれ、アルフィー様。もしかして奥方様ですか」と、かわいらしいお仕着せを着たメイドが叫びながらやってきた。
アルフレッドは「まだ婚約者ねー」と返す。
ダリアは負けを認めるように俯いた。
「よろしくお願いします、アルフィー様」
「よろしくねっ。じゃあ暗くなる前に、ダリアちゃんのお部屋に荷物を置きましょーう」
アルフレッドは地面に放られたままのトランクを持つと、「……軽っ」と小さく呟いて玄関に入っていく。
ダリアは慌ててアルフレッドに続いた。
***
「ダリア様、何故そんなに地味なんですか。もうすっかり春なのに」
アルフレッドに案内されながら廊下を歩いていると、後から小走りでついてきたメイドが声を上げた。
静かな細い廊下に、メイドの靴音がせわしなく響く。
黒い木枠の窓の外の空は紫色に染まり、白い月が光っている。
「こらっ、メアリちゃん。何着たっていいじゃない。それにダリアちゃんはね、傭兵になるつもりだったのよ」
アルフレッドが叱る。
このメイドはメアリという名らしい。
「傭兵になるにしても、別にお飾りがあって良いと思うんです。アクセサリーとか。ドレスを着ているときは、華やかにするんですか?」
メアリはこちらを不躾なほどじろじろ観察する。
ダリアは落ち着かず、肘のあたりを撫でた。
「いえ、アクセサリーはあまりつけませんでした。ドレスも黒や茶色を選んだり」
「なるほど。華やかなのはお嫌いなんですね」
メアリがメモ帳を取り出して何か書きつけ始めたので、ダリアは慌てる。
「そういうわけじゃないんです。ただ、王太子殿下が、地味な女性が好みだと、聞いて……合わせた方が、良いかなと、思った、だけで……」
ダリアの口調は思わずしりすぼみになった。
なんてことを言っているのだ、自分。
暫定ではあるにしても、今の婚約者に昔の婚約者の話をするなんて、無神経極まりない。
すると、アルフレッドは目元を押えた。
メアリも両手で顔を覆った。
しばらく黙り込んだ後、アルフレッドがようやく問いかける。
「それ……あの子に、そう言われたの?」
「いえ、あの、そういうわけでは、ないのですが……一度だけ、殿下が他のご令嬢と、ドレスの話をしているのを聞いたので……」
しどろもどろになりながら答える。
いくら何でもリラックスしすぎた。
信じられないほど優しい待遇をされて、気が緩んでいる。
すると、アルフレッドは普段の高い声とはかけ離れた、ひどく低い声を絞り出す。
「あのバカ甥、いっぺん締めねえと」
「なんですか?」
聴き取れなかったダリアが聞き返すと、アルフレッドはにぱっと笑って見せた。
「なんでもないわ。それより、次はダリアちゃんが好きな服を着なきゃね。この際、奮発して買っちゃうわ。商人を呼ぶから、好きなものを選んで頂戴」
「え、それは……そのようなことをしていただくわけには」
「こんな時に、気を使っちゃだめよ?」
ウインクするアルフレッドに、ダリアははっとする。
確かにここでわざとらしく遠慮をしては、領主たるアルフレッドの顔に泥を塗ることになる。
かといって、本当にわがままを言うわけにもいかない。
「どんな服が好きなの?」
「アクセサリーはどうですか。ダリア様のイメージ的に、クラシカルなデザインのものかなぁ」
アルフレッドとメアリが目を輝かせながら聞く。
ダリアは絶望した。
――適度で妥当なおねだりの仕方が分からない。
全く分からない。
誰にも教わらなかった。
それ以前に甘えていい機会というのが、これまで全くなかった。
王妃として必須なドレスの目録、あるのが望ましい装飾品の目録なんかは出てくる。
だが……好きなもの? 考えたこともなかった。
何故ならそんなものがあったところで、無意味だからである。
祖母が亡くなってしばらくの間、ダリアは毎日形見の紫水晶のネックレスをつけていた。
そのネックレス――ダリアの宝物は、マーガレットの「欲しいわ」という一言で、彼女のものになってしまった。
それで良いと思おうとした。
良き王妃ならナルシスの望み通りの格好をするだろう。
ダリアの「好き」は必要ないのだ。
ネックレスはきっとマーガレットに必要だったのだろうと。
しかし王妃として選ばれたのは、誰よりも華やかなマーガレットである。
ダリアにはもう、何が正しいのかも分からないのである。
アルフレッドとメアリは、依然としてダリアの言葉を待っている。
白い月明かりが二人の人の良い笑顔を照らす。
ダリアは期待されている。
しかし喉がつっかえたように動かない。
目の端に、華やかに着飾って笑うマーガレットがちらつく。
ダリアはかわいいマーガレットになれない。
ダリアはかわいいマーガレットのように、両親に、周囲に愛されない。
ダリアが大切な物を持っていても、かわいいマーガレットのものになってしまう。
ダリアは、マーガレットになれない。
青ざめて沈黙するダリアを見て、アルフレッドとメアリが一瞬目を合わせる。
「じゃあ……」
銀色の月あかりが床に伸びてくる。
アルフレッドとメアリは声を上げた。
「一緒に選んじゃいましょっか!」
二人はダリアの手を取って、屋敷の中を弾むように歩き出した。
「確かね、先代の奥方の衣服がたくさん残っているの。見た限り、あなたの背丈とぴったりよ」
「ガラクタ同然のものもありますが、アクセサリーだってたくさん。とりあえず、それらを試着してみましょう。イメージが湧いたら、仕立て屋も呼びましょうね」
「ダリアちゃんは何が似合うのかしらね。好きなものを探すには、試してみるのが一番よ」
アルフレッドはいたずらっぽく笑った。
「一緒にゆっくり『好きなもの』を見つけましょう。そして、絶対にゲットするのよ。楽しみだわー!」
二人に両手を引かれながら、ダリアは目を瞬かせた。
アルフレッドの姿は月光を受けてほのかに輝いて見えた。
彼の周囲はやさしい笑い声に満ちて、別の世界のように明るく見える。
ひどく眩しい。
しかし目がそらせない。
だからかやたらと泣きたくなって、ダリアはまた目を細めた。




