04. お命頂戴(1) 【マーガレット】
王宮とはいえおやつ時は空気が緩んでいる。
マーガレットは廊下を実に品よく疾走していた。
アーチ形の巨大な窓からは春の陽光がさんさんと差し込み、あちこちに活けられている大ぶりの花々や真っ白な彫像の上に降り注ぐ。
「メグ様、本当に行くのですか。王太子をボコボコにしたら、たくさん怒られるような気がするのですが」
屋敷から付いてきた侍女のクロエが困ったような顔をする。
いつも全身黒づくめの恰好をしていて、マーガレットよりずっと背が高い。
「百も承知よ。あのクソ王太子のことをボコボコにできるのなら、わたくしは死すら厭わない」
「そんな。メグ様、落ち着いて一度帰りましょう」
「何よ。あなたまであの男の味方を――」
そこまで言って、マーガレットは声を潜めた。
ナルシス王太子の執務室の扉の前では、メイドたちが噂話に花を咲かせていた。
「ナルシス殿下、今日も素敵だったわね。私たち小間使いにも挨拶してくれるし、キラキラだし」
「本当に。成績優秀、文武両道、しかも余裕ある美男子なんて、王太子になるために生まれてきたような方よね。キラキラだし」
メイドたちは頬に手を当てて、うっとりとため息をつく。
マーガレットはクロエの腕をつかむと、壁の陰に隠れた。
そうだ、キラキラだ。あんな男が目の前に出てきたら、マーガレット含め女なんてランプに惹かれて飛んでくる虫だ。
ナルシスの本性を知れば、みんなさぞかしガッカリすることだろう。
「だけど、先日の夜会は何だったのかしら」
年かさのメイドが眉をひそめて呟くように言う。
「長い間、婚約者として努力されてきたダリア様を、あんな理由で……」
そうだよ、そうだよ。
マーガレットは物陰でうんうんと頷く。
「でも、『真実の愛』って素敵じゃない。恋物語のようよ」
「おかわいらしいマーガレット様がナルシス殿下の隣に立たれれば、まるで絵画のように映えますし。ダリア様はちょっと、華に欠けるというか」
わたくしのお姉さまに華がないだって?
マーガレットは深呼吸をして懸命に怒気を抑えた。
すべての怒りはナルシスによって発生し、ナルシスの頭上へと収束する。
であるからしてメイドに怒るのは八つ当たりだ。
マーガレットにできることは、この怒りをナルシスに向けて着々と蓄えることだけである。
「でもまあ、滅多に社交に出ないナルシス殿下が夜会を開くなんて、珍しいとは思いました」
メイドたちは首を傾げながら、そっとナルシスの執務室の扉を見る。
「いつも執務室に閉じこもっていて、侍従一人のほかは給仕にすら入れないのよね」
「あら、マーガレット様には入室許可をお与えになったそうよ」
「じゃあ、やはり秘密の逢引きとか」
メイドたちがくすくすと楽しい笑い声をあげる。
年かさのメイドがため息をつく。
「そんな平和なことだといいけどね」
メイド達は話しながら去っていく。
十五メートルほど離れたところで、マーガレットは忍び足で執務室のドアに近づく。
両開きの飴色の木戸の取っ手に手をかけ、マーガレットはもう一度深呼吸をする。
ほのかな不安が胸をよぎった。
ナルシスとマーガレットは、メイド達が語るような関係では断じてない。
恋愛感情など、みじんも欠片も一ミクロンも存在しないと、この名に懸けて主張する。
だが、やましいところがないわけではない。
姉の婚約者と二人きりで会っていたのは事実だ。
邪魔するつもりは毛頭なかった。
「邪魔する」以外のとある私利私欲が働いていた。
取っ手の金属からひんやりと冷気が伝わる。
空気は生ぬるくなりつつあるのに、マーガレットは少し寒気を覚えた。
何を考えているんだ、あの男。
マーガレットにはまだ縋りたい気持ちがあった。
別に許さないが、事情くらいは聞いてやる。
ナルシスには確かな事情があるはずだった。
マーガレットはそっと扉を開き、隙間から中を覗き見る。
まず格式高い装飾が施された特大の執務机が目に入った。
高さ一メートルを超える書類の山が天板の上に並んでいて、作業スペースが狭すぎることこの上ない。
王太子ナルシスは机に陣取っていた。
ゆったりとまとめて肩に垂らしていた銀髪を、雑に団子状にまとめ上げている。
ナルシスの目の下にはくっきりとした隈。
「キラキラ王子様」という普段の体からは、想像もできない疲れ切った表情である。
国王を含む国政の中枢の仕事は、全てナルシスの執務室に集まり、ナルシス一人の手によって終わらせられている。
こんなことが外に漏れたら終わりである。
書類の山は机を超えて床の上にも侵食し、山脈のように無造作に並んでいる。
古紙とインクのにおいがぷんと鼻を突いた。
「あっ、疲れすぎて、鼻に唾液入った」
ナルシスはいつものように小さく呟いた。
猫背気味の姿勢のまま、手と血走った眼球だけを超高速で動かして書類を片付けていく。
マーガレットが一回瞬きをした間に、三回は判を押している。
「ナルシス殿下、どうか、そろそろお休みください」
盆の上にティーカップを乗せた侍従の男が、横から恐る恐るといった様子で声をかけた。
ナルシスは侍従を一瞥すると、また書類に目を落とす。
「ありがとう。そこに置いておいて。仕事しながら飲むから」
「……せめて仕事机から離れて飲んでください。そして寝てください。あなたが過労死なされば、この国も終わるんですよ」
侍従が頑として動かないので、ようやくナルシスは振り返り、にっこりと笑った。
「心配してくれる人がいる人生って、いいものだね」
「雑にかわさないでください!」
マーガレットは口をあんぐりと開いた。
見ての通り、この男は仕事に身も心もささげている。
素の姿を初めて目にしたときは、マーガレットの中のキラキラ王子様像が音を立てて崩れ落ちたものだ。
今ではすっかり慣れたので、どんな濃い隈がついていようが、すこしも驚かない。
しかし今日に限っては、ナルシスの姿がいつも通りで、あまりにも動揺がないことに唖然とした。
婚約者を不当に振った直後だというのに、殺伐とした仕事風景があるだけである。
普通、不安や後悔でもうちょっと色々滞るものじゃないだろうか。
一瞬、ダリアが婚約破棄された事実のほうを疑ってしまった。
脳裏にダリアの姿が蘇る。
未来の王太子妃として、必死に努力を重ねるその姿。
マーガレットの頭の中に張っていた細い糸がぷつんと切れた。
両開き扉を勢いよく開く。
分厚い扉は重い音を立てて壁にぶつかった。
知らず知らずのうちに口からか細い歌声が漏れる。
「ハーンプティ―・ダーンプティー、落っこちた―」
ゆらゆらとバランスを崩しながらも、確かな足取りで、マーガレットは歩み入る。
首がかくかく動くごとに、頭の両側につけた造花の髪飾りが揺れる。
マーガレットは淡いピンクのドレスの裾をめくり、下着に巻き付けた長分銅鎖を取り出した。
「ハーンプティ―・ダーンプティー、戻―らない―」
マーガレットはきゅっと顔を上げた。
桃色の頬は青ざめ、目は血走り、幽霊のように乱れた髪をひとすじ口にくわえている。
「割れた卵は戻らない」
マーガレットは机の五歩前で立ちふさがると、乾いた目でじっとナルシスを見つめる。
ナルシスはマーガレットを一瞥する。
そして、何事もなかったかのように書類仕事に邁進しだす。
マーガレットは爆発した。
「王太子ナルシス、お前を殺してわたくしも死ぬ――!」
マーガレットは長分銅鎖を頭上で三回転させると、鋭く投擲した。
黒い重りは鎖をたなびかせて丸い軌道を描き、ナルシスの頭めがけて走る。
ナルシスは慌てず騒がず、仕事机の側面に立てかけてあった巨大な鋼鉄製の盾を持ち上げる。
長分銅鎖は耳をつんざく音を立てて盾と衝突し、数秒硬直すると、床に落ちた。
マーガレットは鋭く舌打ちを打った。
「防がれたか……」
「これでも王太子だからね。暗殺の危険くらい対処しないと」
「さっすがぁ、仕事のできるナルシス殿下。だけど、もう少し周囲を気にかけてもよかったのではないかしら」
「なんのことかな」
マーガレットはもう一度鎖を振り回し始めた。重りが鋭い音を立てて風を切る。
「マーガレット嬢。いい加減、部屋が壊れるよ」
「壊れてしまえ、嘘つきの執務室なんて」
「もしかしなくても、婚約破棄のことで怒ってる?」
「それ以外に何がある!」
クロエが「おやめください、メグ様。人がきたら大変です」とマーガレットを羽交い絞めにする。
「それで僕を殺しに、その……何の武器? 『社交界の雛菊』様なんだから、レイピアとか使えば?」
「まどろっこしい武器は嫌いよ。そんなことより、お姉さまを振ってわたくしに求婚ですって? あなた、お姉さまを幸せにするって約束したわよね。わたくしが仕事の補助をする条件として」
事実である。
マーガレットは王太子直属の非公式情報収集係だ。
マーガレットは侍女を振り払ってつかつか歩み寄ると、仕事机の中央の書類の山を隣にずらして、天板をバンとたたいた。
「これは立派な契約違反よ!」
「ああ、ちょっと、書類の山が崩れるじゃないか……」
「もちろん、あんなふざけた理由じゃなくて、ちゃんとした事情があるんでしょうね」
渾身の問いかけはほとんど懇願だった。
しかしナルシスは一瞬目をそらすと、どうでも良さそうに手を振った。
「あー、『真実の愛』、『真実の愛』。くそまじめで地味なダリア嬢より、愛想がよくてかわいげのあるマーガレット嬢の方がいいかな」




