21. おのれナルシス(1) 【マーガレット】
塔の薄暗い階段を、マーガレットは兵に案内されて登っていった。
湿った空気にマーガレットの踵が石床を踏む音だけが響く。
上階に立つと、廊下に面した鉄格子の向こうから淡く光が差し込むのが見えて、マーガレットは中を覗き込んだ。
ナルシスは粗末な古い椅子に座って虚空を眺めている。
部屋の内装は質素な部屋にも見える。
だが小さな調光窓の他には一つも窓がない造りや、扉が大きな鉄格子になっているのが異様だった。
ここは貴人用の牢である。
折しも今日は教会の聖母の記念日だ。
おまけに新政権も樹立したとなれば、マーガレットが王城に来る途中も、事態に乗じてお祭り騒ぎをする連中で溢れていた。
午後の陽気に乗って、灰色の石づくりの牢のなかにも、民衆の快哉がマーガレットの耳に伝わってくるようだ。
「侍従殿が作ったビスケットです」
マーガレットは鉄格子の隙間からビスケットの入った大袋を差し出した。
ナルシスはようやくマーガレットに気づいたように微笑む。
「ありがとう。そこ、置いといて」
「食べるところを見届けたいんです。侍従殿は監視が付いて、ここに来れないので、わたくしが見ておいて、伝えてあげないと。ずっとしょんぼりして、『何かの間違いです』って言いながら、菓子を焼いていますよ、彼」
「監視、付いちゃったか。君たちには、できる限り余波が及ばないようにしたんだけど……悪いことしたな」
「分かったら食べやがれ」
「二日酔いなんだよね。ようやく胃の中のものを吐き切ったところなんだ」
「飲めないくせに、無理して飲むからです」
「いやあ、これも演出、演出」
「いいから食え」
マーガレットが鉄格子の隙間からナルシスに袋を投げる。
ナルシスはキャッチすると、ビスケットをむしゃむしゃと食べ始める。
「うん、うまい。おふくろの味」
マーガレットは牢屋なんて本の知識でしか知らなかった。
箱入り侯爵令嬢なので、床を這う冷気や、ツンと鼻を刺すかび臭い空気だけで、この場所がものすごく恐ろしい場所のように思える。
拘置されているナルシスを見るだけで、吐き気を催す有様だ。
マーガレットは錆びついた鉄格子に触れるかしばらく迷ったが、やがてそっと指をかける。
「わたくし、一つも聞いていませんけど」
「言ってないからね」
「何ですか、ナルシス殿下が犯した罪の証拠って」
「偽造しちゃったー」
「馬鹿ですか!」
ナルシスはにっこりと笑いかけた。
「僕の方が頭は回るよ」
「じゃあ、優秀なナルシス元殿下。わざわざ嘘の証拠を作る理由は何ですか」
ナルシスは天井を眺めながらビスケットをかじり、足をぶらぶらと揺らした。
ビスケットが砕ける音は、この場に似つかわしくないほど呑気に聞こえる。
「僕みたいな優秀な王太子がいたら、僕を王に据えて蜜を吸いたい輩が現れて、国が乱れるでしょ。クーデターっていうのは、あれで繊細微妙なものなんだ。それに、僕は罪を犯している――八年前、国王の罪を自分で糾弾しなかった」
「それは、国をひっくり返せるほど、味方がいないからだって」
「うん。無力で姑息だったよね、僕はずっと」
ナルシスは他人事のように話し続ける。
「向いてもいないのに、王太子続けて。できもしないのに、仕事ぶんどって。父のアルフレッド暗殺を止められそうにないと知った時、いい機会だと思った。アルフレッドさんのことは、昔から尊敬していた。熱心な仕事ぶりに、魅了魔法使ってんのかって言いたくなるような、天性の人たらしな性格。僕より国王の適性があり、僕では絶対になれない人物」
「……だからあなたは、お姉さまと婚約破棄した」
「ダリア嬢は幸せにする努力目標。君と約束したからね。彼女を王妃に据えなかったら勿体ないし。婚約破棄の場面で僕の人望も減らせて、一石三鳥」
「わたくしに婚約を申し込んだのは?」
「君なら僕の人望が減るかんじで振ってくれると想像してたから……まぁ、君は予想の斜め上から来たけど」
そこで、ナルシスはくっくっと笑いだした。
「僕を殺して、自分も死ぬとか。想像を超えてくるね、君」
「長分銅鎖を持って行った日、『真実の愛』をさんざん愚弄してくれましたね」
「君相手ならそういう言い方をすれば、誤魔化しが効くと踏んだ。あまりにも目論見通り引っかかってくれて、実は少しビビっている。今後は気を付けてよね」
「分かっているんですか。シラー公爵や周囲のご意向によっては、あなた処刑されるんですよ!」
マーガレットの怒声は牢の石壁の中で反響し、すぐに鼓膜に痛んだ。
ナルシスは目をそむけると、気まずげに頬を掻く。
「王族ってそんなもんだよ。お気楽令嬢には刺激が強かったかな?」
「馬鹿にしないでくださいよぉ」
喉が引きつったように詰まる。
声がかすれてきたのでマーガレットは腹を絞ったが、不思議なことに絞れば絞るほど声は震えていくようだった。
「何とかなりますよね。だって全部嘘なんだから」
「嫌な気分にさせて申し訳ないと思っている。ごめんね。侍従君にも伝えてくれる?」
ナルシスの淡々とした語り口に、開ききった目が乾いていく。
ナルシスの姿が眼球の上でくらくらと歪んだ。
錆びついた鉄格子を勢いよく振りほどいて、手を握りしめながらおろす。
「何で誰にも相談しなかったの。せめて侍従殿や、わたくしくらいには」
「僕は誰も信じていない」
ナルシスはゆっくりと顔を傾けてこちらを見た。
「特に、君のことは。君が一番信用できない」
マーガレットは唇を噛んだ。
舌の上に血の味がにじみ、胃がきゅうと痛んだ。
魔力なし。
平凡。
さんざん言われ続けて、マーガレットはすっかり慣れたつもりでいた。
今気づいた。
マーガレットは、この人にだけはそんなふうに思われたくなかったのだ。
調光窓からにじむ、春の午後の陽気が遠ざかる気がする。
じわじわと潤みだす目を眉間にしわを寄せてこらえて、声を震わせて無理やり笑った。
「薄情ですね。今まで、あんなに協力してさし上げたのに」
「だからだよ」
ナルシスは立ち上がると、ゆっくり歩み寄ってきて、格子越しにマーガレットの前に立つ。
「君は何でも笑って耐えるから」
ナルシスは困ったように笑った。
「実は頑張りすぎる質でしょ。これでも割と心配しているんだよ。君がちゃんと幸せになれるよう、側にいて見張ってくれる人をつくった方がいいと思う……ほら、僕が言うと説得力があるだろ。良い反面教師として、人生の教訓になったんじゃないかな」
「ふざけんな」
「処刑よりは修道院の地下牢がいいなぁ。引きこもって一日中寝てみせる。この七年で一般男性の三生涯分くらいは働いたからね」
「本当にふざけんな……」
「君も侍従君もますます忙しくなるだろうから、巻き込んでおいて申し訳ないけど、さっさとぜんぶ忘れた方がいい。僕なんかに構っている場合じゃないよ。僕と違ってまだまだ仕事があるなんて、なんてかわいそうなんだろう!」
調光窓からの日差しが傾いて黄味を帯びていく。
ナルシスは微笑んだ。
「マーガレット・フライベルクよ。フライベルク侯爵家の跡継ぎとして、国を守ってくれたまえ。そしてダリア嬢と仲直りせよ。素直に気持ちを言えば、きっと伝わると思う」
そこで言葉を切り、一瞬迷うような視線を見せたが、すぐにナルシスは続ける。
「ご両親に本当の意味で愛されるかは、僕には分かりかねるけど、試してみる価値はあるさ。君はまだご両親に愛されたいのだから。あ、家族問題については、あくまでも年上からのアドバイスね」




