18. 雨 【マーガレット】
マーガレットがようやく気がついたのは、九歳の冬だったか。
自分は周囲からねこっかわいがりされているのに、ダリアはやたらと両親から厳しく扱われる。
いくらお姉さまが不器用だからって、おかしい。
両親の機嫌のいい夜を選んだ。
マーガレットは勇み足で両親の寝室に行き、ダリアをもっとかわいがるようにと進言した。
ひどく寒い日だった。
大きな赤いベッドに腰かける両親の膝に、甘えるように擦り寄る。
いつものようなぶりっ子笑顔で、こびへつらう。
そうしていれば、両親はマーガレットのことを無視しないと信じていた。
両親はマーガレットの小さな肩を突き飛ばし、立ち上がった。
その日二人に何を言われたのか、マーガレットはよく覚えていない。
ただ存在そのものを否定するような、ものすごい罵倒が飛んできたことだけは覚えている。
何より怖かったのが、両親がその場でマーガレットをかわいがるのをやめて、ダリアを一番に大切にしようかと相談し始めたことだ。
「やはり出来損ないの妹より、能力の高い姉の方が」
「でも、ダリアは生意気で不愛想、かわいげが無い」
「そう言って、甘やかしてきたメグを見ろ。こんなに幼いのに、口答えをするようになって」
「甘やかす」という言葉が世界でいちばん嫌いだ。
間違いだったみたいな言い方をしないでほしい。
だってマーガレットはそれを愛だと信じていたのに。
ずっとずっと信じているのに。
「お父様とお母様の言う通りです。お二人のすることに口をだすなんて、間違っていました」
泣きじゃくりながらようやくのことで言うと、両親は一瞬目を合わせたのち、いつものお父様とお母様に戻った。
要するに、マーガレットはダリアを裏切ったのだ。
父母からの制裁を受ける恐怖に耐え切れなかったから。
ダリアは不器用な人間だと思う。
マーガレットなら自分の能力を自覚して、上手く振舞ってみせる。
器用に立ち回れることは、マーガレットの持てる唯一の能力であり、矜持なのだ。
醜く、ずるい、俗悪な能力だ。
ずっとダリアに憧れていた。
才能や魔力量という明らかな差があっても、たくさん努力すれば、いつかは届く日が来ると本気で信じていた。
際限なく降り積もる劣等感に呼応して、高くなりすぎたプライドは、マーガレットの「媚び」――「誇り」でしか浄化できない。
姉は足が速い。
マーガレットが両親や社交界に媚を売っている間に、ダリアは反対方向に駆け抜けていく。
向かう先は正しく清らかな約束の地(*イメージ)だ。
ナルシスはキラキラした完璧な王子様に見えた。
「烏」の構成員に指揮を褒められた日に、その足でナルシスに話しかけるべく茶会に乗り込んだ。
丁度その時、仮にマーガレットにダリアの倍の努力ができたとしても、ダリアに届くことは一生ないと気づいてしまったからだ。
ダリアを力強く支えるであろう、ダリアと同程度もしくはそれ以上の能力すら見込めるナルシスを、こちらが支える。
そうすればマーガレットは、ようやく憧れと現実に折り合いをつける戦略的撤退ができると踏んだのだ。
それさえできれば、きっとダリアに謝る自信がつく。
両親だってマーガレットが役に立てば、いつか本当に愛してくれる。
ナルシスに「よろしくお願いします!」と叫んだ時には、もう全部が上手くいくような気がしていた。
結果がこれである。
もういいのだ。
一人でレースやフリルにまみれて、悪趣味な社交界に骨をうずめるのが、マーガレットの宿命なのだ。
別にいいもん、何でもやってやらぁ。
やけくその酔っぱらいのようにマーガレットは呟く。
姉やナルシスに嫉妬の念がないと言ったら嘘になる。
むしろ、全部の心を嫉妬に向けられたなら、どれほど楽なことだろう!
だが、幸せになってほしいという気持ちは本当だ。
本当だったんだよ、畜生。
***
そんなことをつらつら考えながら、マーガレットはぽつりとつぶやいた。
「善人として生きるには、人の業はさも深く」
窓硝子には珍しく雨粒が叩きつけられる音が響く。
時刻は夕方だが、分厚い雲が遮って夕日は差さず、外一面が灰色に見えた。
ナルシスが仕事の手を止めないながらも、一応首を傾げる。
「何、急に」
「劣等感、劣等感、劣等感。社交界で人の悪意を体にため込むストレス。自らも誠実さをかなぐり捨てて、やっぱりたまるストレス。恋路の尊さでいったん忘れて、また社交界に出る日々」
「本当に何を言い出すの」
「でもこれって、毒で毒を洗うようなものですよね」
マーガレットが重いため息をついた。
「人の恋路を面白がって、勝手に喜んで。恋人たちにとってはたまったものではありません」
「君、他者を慮る気持ちがあったんだね」
「ばれないうちはセーフだと思いたい」
「すぐ開き直る」
「では、ダリアお姉さまのラブラブ新婚生活報告会を開始したいところですが」
マーガレットが真顔で報告書から目を離した。
「『烏』が帰ってきません」
「やばいねぇ」
「『烏』に心臓の早鐘に似た音を出す打楽器を渡してから、いっさい音沙汰がありません」
「君のバカップル演出は大分ワンパターンだね」
「全員捕獲されたものと思われます。すぐに救援部隊と新しい指示を送ったのですが、彼らが情報を吐かされるのに、間に合うかどうか。最悪の場合は、わたくしがダリアお姉さまに土下座して、何とか許してもらわないと」
ナルシスはしばらく黙って書き物をしていたが、やがて言った。
「『烏』と王家にかかわりがあることは、絶対に言わないでね」
「もちろん。『烏』達には、すべてマーガレットの意志により行ったと言うよう、口裏を合わせています。別に言いませんよ、王家の不利になるようなことなど」
「そう」
ナルシスはどこか上の空で答える。
顔色はいつもより悪く、また眠っていないように見えた。
最近こいつを見ていると、マーガレットは妙な心地がする。
何かおぞましいことが目の前で起こっているのに、自分だけは気づかずに、見逃してしまっているような気持ち。
感覚が朧げすぎて、上手く言語化できない。
不安? 怖れ? 心配?
ナルシスはひたすら食い付くように書類を見ている。
いつものことだ。
いつものことなのに、何故こんなにも危げに見えるのだろう。
――疑い?
マーガレットはそっとナルシスの背後に回り込み、作業の様子を観察する。
彼はものすごい速さで腕をしゃかしゃかと動かし、筆圧に任せた書き方で字を書く。
しかし完成する文字が優美で繊細なのが、マーガレットから見れば非常に謎である。
何故か背筋が少し冷えたような心地がして、マーガレットは眉をひそめた。
今ナルシスが書いている筆跡が、普段のものと明らかに違う。
わざわざ変えているのか?
何のために?
書類は誰かの犯罪の目録や証拠のようであった。
誰が起こしたのか確認するところで、ナルシスは書類を机に叩きつけるように裏返し、笑顔でマーガレットに向き直った。
「盗み見とは、『社交界の雛菊』にしては上品じゃないね」
マーガレットは肩をすくめる。
「こんなに簡単に、見られてはまずいものを覗かれる方が、おかしいです。疲れすぎではないですか?」
「どうだろうねぇ」
ナルシスの目は虚ろだ。
マーガレットは思わず言った。
「もっと人に仕事を任せないといけないのでは。部下に仕事を分けるのも、王太子の仕事だと思いますけれど」
「僕は仕事を横取りしているのであって、正式に引き継いでいるわけじゃない。部下だってもらっていないし、そもそも父の側近たち、あの自分勝手どもに仕事を任せていたから、今こんな事態に」
「それでも、せめて人を探すとか。あなたを助けられそう人なら、侍従殿や、――」
――わたくしだって。
その言葉をマーガレットは飲み込んだ。
ナルシスが自嘲するように話し出したからだ。
「そんな暇はないよ。それに僕は誰も信じていないんだ」
ナルシスはにっこりと、人前でするような王子様の笑顔を見せた。
「誰のことも信用してない。だから、こういう仕事は任せられない」
「……そうですか」
「僕がこの程度の器だったってことだよ」
ぺらぺらとよくしゃべることだ。
ナルシスがこんなに自分のことを話すのは珍しい――というより、マーガレットはこれまで一度もお目にかかったことがない。
この男、よほど疲れ果てている様子である。
「ナルシス殿下、寝ましょう。仮眠程度でいいですから」
「あと少し、あと書類五十六枚でキリのいいところになるから。五分くらいで終わるから」
「計算ガバガバか。こんな状態で、仕事なんてできませんよ」
マーガレットはナルシスを机から引きはがすと、執務室の隅に置かれたえんじ色の古いソファーに引きずっていく。
マーガレットが侯爵令嬢なので気を使っているのか、あるいは疲れすぎて反抗すらできないのか、ナルシスは素直に引きずられていく。
マーガレットはナルシスの白いダブレットを掴み、ソファーに横たえようとする。
そのとき、淡い銀色の頭がぽすりとマーガレットの肩に落ちてきた。
「君は何がしたいの」
マーガレットは間髪入れずに答える。
「お姉さまの幸せを見届けたあと、貴様を殺してわたくしも死にたいです」
「そうじゃなくて……いや、それもだけどね……」
ナルシスはぼそぼそと言った。
適当にまとめ上げられた銀色の髪が頬をくすぐるので、マーガレットはナルシスの髪を雑にほどいてやる。
「僕の仕事を助けたって、社交界の人気者になったって、ご両親に本当の意味で愛されることはないし、ダリア嬢と仲良くなれるわけではないよ」
マーガレットは思わず口を閉ざして、しばし黙り込む。
ナルシスも黙っていたが、やがて口を開く。
「怒らないの?」
「こんなことで怒ったって、無駄です」
「君はダリアお姉さまとバカップル関連以外だと、すぐに怒りが霧散するという悪癖があるよね。舐められるから、やめた方が良いよ」
「現在進行形でべろべろ舐めてかかってくる男に言われると、説得力しかありません」
ナルシスはゆっくりマーガレットの肩から頭を持ち上げると、ふらふらとソファーに歩み寄り、そのまま倒れ込んだ。
マーガレットが長い銀髪をかき上げて、ナルシスの額に自らの額を押し当てる。
「……何?」
「体調でも崩しているのかと思って。熱はなさそうですね」
「何で?」
「普段はああいうこと、言わないから」
ナルシスはぼんやり宙を眺めると、ゆっくりと、小さな声で言う。
「迷っているのかもしれない」
「え?」
「僕の決断を間違いだとは思わない。最良の選択だと信じている。その上で、迷いがなくならない。そういう自分が嫌なんだ」
声はひどくかすれて弱弱しく、最後なんてほとんど口の中で呟くかのようだ。
マーガレットはしばらく思案する。
「あなたは完璧主義ですからね」
「完璧になんて、できないのにね」
「でも、いつも完璧を目指しています。だから普通の人より安全な策を取るって、そこは信頼しています。でも、一人でできることには限りがあるから」
マーガレットはナルシスの上から毛布をぽいっとかけた。
「相談してくれるの、待ってますよ」
ナルシスはかすかに微笑んだ。
「今日もお疲れ様」
それだけ言うと一秒で熟睡。
疲れ果てているくせに、やたらと健康な男である。
「今代王太子は国一番の健康優良児」の噂は伊達じゃない。
マーガレットはその場でしゃがみこみ、眠りこけるナルシスの端正な顔を見つめる。
長い銀の睫毛がぴくぴくと揺れた。
「両親に本当の意味で愛されないし、お姉さまと仲良くなれない、ですって? 分かっていますよ、そんなこと」
気持ちよさそうに眠るナルシスの髪に、マーガレットはポケットから取り出した洗濯ばさみを大量につける。
麗しい銀髪は色とりどりの洗濯ばさみで彩られた。
ナルシスは頭皮に当たってちょっと痛そうな顔をしながら、すやすやと寝息を立てている。
「最初から分かっています。余計なお世話だ」
マーガレットはとっくの昔に分かっている。
ダリアは姉を売る卑怯者を二度と「メグ」と呼ばないことも。
マーガレットには一生「真実の愛」なんてものに、とんとご縁がないであろうことも。
――それが王太子ナルシスをこの執務室で見る最後の日となることを、とうとうマーガレットは知りもせずに帰ってしまった。




