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17. 憧れは人を 【ナルシス】

 目の前に一枚の扉がある。


 開けると、さっきまでいた部屋と、一枚の扉がある。


 開けると、またもう一枚の扉。


 もう一枚。

 もう一枚。

 もう一枚。


 はっとして顔を上げると、ナルシスは執務室にいた。

 目の前には机に積まれた一メートルを超える書類の山。


 うとうとしていたらしい。

 ナルシスはかぶりを振る。


 少し気が抜けている。

 手の甲をペンでぷすぷす差しながら、ナルシスは部屋を見回す。


 侍従は帰ったらしく、執務室にはナルシス一人である。

 背後の真っ暗な窓硝子に淡いろうそくの灯りが反射し、いかにも憔悴したナルシスの姿がぼんやりと映る。

 王太子業はろうそくをケチケチしなくていいのでありがたい。


 書類仕事を再開する。

 どれだけ書いても、全て国王の功績であり、ナルシスのものになることはない。


 国王は自分が決断し行ったことだと心から信じている。

 信じ込むようにナルシスは甘い言葉で国王を騙す。


 情報を制限し、書類に工作し、まずい政策を握りつぶす。

 国を治めるとはそういうものであり、虚しいと思ったことはない。


 ただ、普通の家庭に生まれるとはどういう感じなのかと、ときどき想像を巡らせてみることがある。


 書類を引き出す左手がティーカップにぶつかり、ナルシスは倒れないよう慌てて支える。

 薄いティーカップの中には、黄金色のハーブティーが揺れていた。


 安眠効果のあるカモミールの匂いがする。


「これのせいじゃん。ぜったいマーガレット嬢だ」


 眠気のひどい夜は、ふいに意識が遠い過去へ遡る。


 ナルシスはティーカップの水面を見ながら、ぼんやりと記憶を手繰りだした。


 ***


 一説によると、猫かぶりは猫かぶりに勘付くという。


 王太子ナルシスが最初にマーガレット・フライベルクに会ったのは齢六歳のころ。

 王都貴族の屋敷の庭で、子供向けの集まりがあったのだ。


 当時四歳のマーガレットは年相応に純粋で、愛らしい子供だと評判だった。


 年相応……どこが? 

 ナルシスの第一印象はそれだった。


 さんさんと降り注ぐ真夏の陽光の下、マーガレットは子供らしく天真爛漫にはしゃいでいた。


 しかしあまりにも出来過ぎている。

 適度に無邪気で、適度に無知な少女の姿を、人に合わせて使い分けているとしか考えられない。


 ナルシスは初めて自分以上の見栄っ張りに出会ったのだ。


 婚約者のダリアは凄まじい魔力量に加え、高い知能・身体能力を備えており、年齢不相応に優秀だった。

 そういう姉妹なんだろうな、と。


 しかし思春期になったあたりで、ナルシスは首を傾げる。


 男性より学問ができたり、自分から騎士団に鍛錬に通ったり何かと悪名高いダリアに比べて、マーガレットの才覚はパッとしないようだった。

 社交界での人気は凄まじいものの、魔術や学問はほぼ無能という噂だ。


「それくらいの方が生きやすいのだろう」とその時は思っていた。




「畏れながら王太子殿下、お疲れのように見受けられますわ」


 茶会の庭園の隅で、マーガレットに微笑んで囁かれた。

 秋のどんよりと曇った午後だったのを覚えている。


 既に雨の匂いが濃く、人々は早々に広間に引き返し、庭にはほとんど人がいなかった。


 歩いていたナルシスを呼び止め、マーガレットは悪戯っぽい足取りでナルシスの隣に立つと、顔を覗き込んだ。


「お父様への内緒のお手伝いが、お忙しくていらっしゃるの?」


 ナルシスは特に変な反応はしていないはずなのだが、マーガレットはちらりとナルシスの顔や胸元に目を向けた後、顔の前で両手を重ねる。


「やはり正解ですね、ナルシス殿下が国政を乗っ取っているという推測は」


 ナルシスが遊び惚ける国王や側近たちから仕事を取り上げて、密かに政治の代理人を始めてから、既にもう随分経っていた。


 騙す、おだてる、脅す、裏金を握らせる、書類偽装、できることは全部やっている。


 周囲に頼れるものは一人もいない。

 おかげでナルシスの人間不信は悪化の一方だ。


「お手伝いは、四年前くらいからでしょうか。少し成果を出し過ぎでは?」


 ここまでやる女でも「愚鈍な妹」と囁かれるのだから、人間は恐ろしいと思う。

 だがそういうことを言う時、人間は得てして何も考えていないものだ。


「なんでそこまでするの? 君は控えめに生きたい人だと思っていたけど」


 口から出たのは単純な疑問だった。マーガレットは目を見開き、動きを止めた。


「そう見えますか?」


「可憐で慎ましやかな『社交界の雛菊』って体裁にしたいんだと思っていた」


「まあ、ダリアお姉さまの妹ですから」


 マーガレットは肩をすくめた。


「魔力の少ない無能が、ああいう存在に憧れてしまったんです。人に媚び売って、顔色を探ることしかできないのに」


「ことしか」と来た。

 一見あまり似ていない姉妹だが、おそらく自己肯定感が低いところがそっくりなのだろうと、ナルシスは場違いに感心する。


 花壇の花は少ししおれている。

 冷え込む日が続いているからだろう。

 広間からどっと大勢の笑い声が響いた。


 ――憧れは人を育てる。育てておいてぶっ潰す。


「そのことはさておき、わたくし提案があるのです」


 マーガレットは頭の両側につけた造花の髪飾りを小さく揺らす。


「わたくしはフライベルク家の跡取りとして、『烏』を所有しています。ナルシス殿下のお手伝いができると思うのです」


「条件があるんだろう」


 マーガレットは花が綻ぶように笑った。


「お姉さまを幸せにしてください」




「やだね!」


 しかしナルシスはくるりと踵を返して逃げだした。


 マーガレットは「待って待って待って」と叫びながらナルシスの上着を掴み、おかげでナルシスはつんのめって転んで、鼻をしたたかに打った。


「ほう、ドレスを着たご令嬢が、よく僕に一撃を与えられたね」


 鼻をこすりながら起き上がると、マーガレットも真っ赤になった鼻を両手で押さえながら、にやりと笑った。


「そちらこそ。この局面で逃げ出されるとは、思いもしませんでしたわ」


「お互い、意表を突いたってことで。じゃあ、ばいなら」


「待って待って待って待って、何で何で何で何で」


 マーガレットがまたナルシスの上着を掴んだので、ナルシスはさらにつんのめって転びかける。


「何でもなにも、幸せの定義なんて、本人にしか決められることじゃないだろう。僕がダリア嬢を幸せにするなんて、そんな傲慢な約束はできないね」


「うう、うう、一理ある」


「分かってくれたかい? じゃあ、ごきげんよう」


「待って、待って。今わたくしなりに定義付けしますから」


 マーガレットは頭を抱えると、ぶつぶつと呟きだした。


「愛? 『真実の愛』? ラブラブ? トゥルー・ラブ?」


「訳が分からない。さようなら」


「待って待って待って待って」


 ナルシスが茶会の中心に戻ろうとすると、マーガレットはまたも上着を引っ張った。


 何と言って撒いてやろうかと考えつつ振り向くと、マーガレットは顔から表情を落とし、目から光を失っている。


 思わずナルシスは黙り、彼女の言葉をしばらく待った。


「道具にしないでください」


 マーガレットはようやくのことで言った。


「手駒にするなってこと? 僕は国王になる身だから、王妃を駒にしなくてはならない局面は想定できる。却下」


「そういうのじゃないんです」


 マーガレットは淡々と、感情の乗らない声で語る。


「同じ人として見てください。国王でいる時に手駒にしても、夫でいるときは、道具に――おもちゃにしないでください。心と意思を持った人間として見て、尊重してください。そんな人が家族なら――」


 マーガレットは静かに言った。


「ハッピー・エバー・アフター。最上の幸福です」


 その平坦な、やたらと鬼気迫った語調に、ナルシスは目を少しだけ見開いた。


 国王が怠惰な分、ナルシスは生まれた時から期待されていた。

 期待は次第に重くなり、この身を懸けて民に尽くすことは、今では生きていくための許可証だ。


 父王とその周囲が政治を堕落させているのを何とかしようとしたのが十一歳の時。

 ここだけ見逃すような器用さは、まだナルシスは持ち合わせていなかった。


 ナルシスはどうすれば父親を説得できるのか、脳細胞の隅から隅まで使って考えた。

 遠いながらも民の生活を調べ、分かりやすく、心に訴えかけるように資料を作り、解決案をいくつか作って持って行った。


 父親は資料を暖炉の火にくべた。

 そして笑顔で言う。


「勉学に集中していればいい。勉学と武術、とにかく王太子教育を優秀にこなしてさえいれば、それで十分なのだから」


 動かしたい人の心ほど、動かせないものだ。


 だが「それで十分」とまで、言わなくてもいいじゃないか。

 でき得る限りの努力をしてきたナルシスを否定するどころか、視界にも入れない言葉である。


「後継者のいる安定した国王」を作り出すための道具ならまだいいのだが。

 今必要とされているのは何の力もない子供、賛成しかしない息子。


 親のおもちゃであった。


 この少女は、自分の悩むことに近い何かに苦しめられているのかもしれない――ナルシスは一瞬、共感してしまったのだ。


「そして、トゥルー・ラブ! ラブラブ! 『真実の愛』のいちゃいちゃを!」


「知らんがな」


 妙な共感は秒で冷めた。

 ナルシスが迅速に去ろうとするのを、マーガレットは回り込んで、ディフェンス選手のように邪魔をする。


「ああーっ、さてはナルシス殿下、怖いんですね。王太子なのに、わたくしみたいな媚びるしか能のない、平凡スペック女を使いこなせないと自覚することが!」


「煽るの下手か! 自虐すぎて、こっちが悲しくなってくる」


「ふっふっふ、逃がしませんよ。人の幸せを決めつけないところに好感を持ちました。お義兄様なら、お姉さまを幸せにできるかもしれない。だからとりあえず言質を取りたい!」


「その発言に明らかな矛盾があるけれど!?」


 ぎゃあぎゃあと騒いでいると、「なんだ、なんだ」と人が集まってくる気配がする。

 このままでは、ナルシスとマーガレットの関係について妙な噂を立てられかねない。


 ナルシスは選択を迫られた。


 心理操作と情報戦だけで高位貴族の群れと渡り合っているナルシスにとって、この話はまさに僥倖。

 音に名高い諜報組織「烏」の恩恵は喉から手が出るどころの話ではない。


 しかしこの令嬢、いかにも頼りない。

 情報が漏れればそれだけリスクは高まる。


 結局、選ばざるを得ない賭けだった。


 ナルシスは額を押さえてフ――――と長く長くため息をつく。


「努力目標で、どう」


 マーガレットは顔をぱあっと輝かせると、令嬢らしからぬ満面の笑みを浮かべる。


「よろしくお願いします!」


 ***


 カモミールの甘い香りで我に返る。


 黄金色の液面から湯気は立たず、すっかり冷めているようだった。

 入眠雑草など飲みたくもないが、捨てるわけにもいくまい。


「一区切りはついた。この際、仮眠するかな。したくもないけど」


 ハーブティーだけの話ではない。


 マーガレットはダリアとの恋愛状況を事細かに聞きたがるわ、船を漕ぎかけたタイミングでふわりと毛布をかけてくるわで、邪魔しかしない。

 彼女のお節介で明確に役に立ったのは、侍従を雇うよう迫ってきたことだけであろう。


 何を思ってマーガレットがここまで構ってくるのか、ナルシスには全くわからない。

 しかしナルシスが「気の置ける人間が身近にいる状況」というものを知りつつあるのも事実。


 国を治める綱渡りは平均台歩行くらいになっていた。




 終わってしまうのは悲しいと思う。


 だが、そんなことを考える権利すら、最初から無かったようにも思うのだ。


 ナルシスは書類に国王の筆跡をまねてサインをする。

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