第九話 覚えておくわ
空になったカップをソーサーに戻す。
「ごちそうさまでした」
ようやく言えた。
何杯いただいたのか、もう分からない。
温かいお茶のおかげで、確かに身体は温まった。
だから、もう帰ってもいいはずだった。
「上着も、ありがとうございました」
肩に掛けられていた上着を脱ごうとすると、ヘンリエッタ様が「駄目よ」と言った。
音もなく近づいてきたメイドが、私に一礼する。
当たり前のように私の肩へ上着を戻した。
「でも、もう十分温まりましたから」
今度は、明確に身を引いた。
「指先は?」
問いかけられ、別のメイドが私の手を取った。
やんわりと包み込まれて、その体温がまだ低いことをヘンリエッタ様に伝える。
「ほら」
ヘンリエッタ様は満足そうに微笑んだ。
「まだ少し冷たいそうよ」
反論する前に、彼女は控えていたメイドへ視線を向けた。
「袖を通して差し上げて」
次の瞬間、私は二人のメイドに囲まれていた。
乱暴な動きではない。 むしろ驚くほど丁寧だった。
けれど、自分で返そうとした上着を、自分の意思とは関係なく着せられていくことに、妙な息苦しさを覚えた。
「……ヘンリエッタ様」
「なあに?」
「私は、本当に……大丈夫です」
いつもの言葉だった。
けれど、ヘンリエッタ様は少し寂しそうな顔をした。
「あなたは、いつもそう言うのね」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
責められているわけではない。
ただ、本当に不思議そうに言っているだけだった。
それが、一番怖かった。
私は、意を決して立ち上がる。
「……少し、お手洗いをお借りしてもよろしいでしょうか」
「もちろんよ」
ヘンリエッタ様はすぐに頷いた。
「エヴァンス、案内を」
「承知しました」
エヴァンスさんに着いていく。
そうして席を離れる。
「ありがとうございます。帰りは、一人で戻れますから」
そう伝えると、案内を終えたエヴァンスさんは一礼して去った。
ようやく、一人になれる。
ほんの短い時間なのに、そう思ってしまった自分に驚いた。
案内された場所から戻る途中、廊下の角を曲がったところで、私は足を止めた。
窓際に、ヘンリエッタ様が立っていた。
「お帰りなさい」
一瞬、言葉を失う。
「……なぜ、こちらに?」
やっとの思いで、それだけ絞り出す。
「待っていたの」
あまりにも自然に言われて、言葉が詰まる。
「ここはね」
ヘンリエッタ様は、壁に飾られた古い絵に目を向けた。
「このホテルの中で、唯一、誰の目も気にしなくていい場所なの」
そこには、精巧な細工の額縁や、見たことのない花瓶、古い絵画が飾られていた。
どれもエントランスで見た装飾とは、少し違う趣味だった。
「みんな、私を見る時は『ヘンリエッタ様』を見るでしょう?」
彼女は小さく笑う。
「だから、ここだけは私の好きなものを置いているの」
その表情は、宝物を紹介する子どものようだった。
「……綺麗ですね」
思わず、本音が漏れる。
ヘンリエッタ様は嬉しそうに目を細めた。
「そうでしょう?」
そして、ゆっくりと私を見る。
「だから、あなたをここへ連れてきたかったの」
「……私を?」
「ええ」
彼女は迷いなく頷く。
「あなたは、とても不思議な人ね」
一歩、静かに近付かれる。
「仕事も丁寧で、水草の扱いも優しい」
さらに一歩。
「それに……」
ヘンリエッタ様は、私の顔をじっと見た。
「とても綺麗な目をしているわ」
息が止まった。
「もしも、飾るのなら」
口角が、美しい弧を描く。
「絶対に、ここね」
彼女の指先が、壁際の空いた場所を示した。
冗談なのか。
本気なのか。
分からない。
気付けば背中は壁についていた。
「……ヘンリエッタ様」
名前を呼ぶと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「……どうしてそんな顔をするの?」
そう言って、ヘンリエッタ様は私の手をそっと取った。
指先を包むように握ったまま、微笑んだ。
「私、あなたが好きよ」
私は答えられなかった。
彼女は、その沈黙を肯定だと受け取ったらしい。
悪意は、どこにも見当たらない。
だからこそ、怖かった。
ヘンリエッタ様が静かに目を閉じる。
整った顔が、ゆっくりと近付いてくる。
私は、思わず身を引く。
背中が、冷たい壁に触れた。
逃げ場はなかった。
どうしようもなくなって俯く。
そして、諦めたように目を閉じた。
柔らかなものが、唇にほんの一瞬だけ触れた。
思わず息を呑み、小さな声が漏れる。
肩がびくりと震え、繋がれた手を思わず握り返してしまった。
ほんの数秒、沈黙が続く。
「目を開けて」
私は開けなかった。
「……嫌だった?」
聞かれて、私は何度も強く頷く。
恐る恐る目を開けた。
「……そう」
ヘンリエッタ様は少し考えるように目を伏せている。
「覚えておくわ」
そして、彼女は静かに距離を取った。
ようやく、息ができる。
「……あなた、お名前は?」
ヘンリエッタ様が、ふと思い出したように尋ねた。
「ロビン……ロビン・ブレーカーズです」
呼び出しておいて、今さらわざわざ名前を確認するのはなぜだろうか?
「ロビン」
ヘンリエッタ様は、一度だけその名を口の中で転がした。
「そう。覚えておくわ」
そう言って、微笑む。
「ぜひ、またいらしてね。ロビン」
その笑みは、別れの挨拶というより、次に会う約束を当然のように交わす人のものだった。
そして私は、その約束を断る言葉を、最後まで口にできなかった。




