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失せ人の島  作者: 小鳥遊 愚香
第一章
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第十話 大丈夫


 帰りの馬車に乗せられ、花屋へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


 馬車を見送ると、深い溜息が漏れた。

 なんだかどっと疲れた。


 早く、横になりたい。


 店の扉を開けた。


「……遅い」

 出迎えてくれたのは、ミシマ夫婦のどちらでもなかった。


「リフィカ?」


「水草ひとつ届けるのに、何時間かかってるの?」

 店先の壁にもたれかかっていた彼女は、私を見るなり眉を寄せた。


「減給だからね」

 そう言って、帳簿をつける真似をした。

 彼女にそんな権限はない。


「そんなに遅くないでしょう」

 少しだけ語気を強めた。


「いつもなら、とっくに帰ってきてる時間でしょう?」

 リフィカも語気を荒げる。


 言い返そうとして、やめた。

「……何、怒ってるの」


 確かにそうだった。

 今日の私は、いつもよりずっと帰りが遅い。


 私だって、早く帰りたかった。

 でも、帰してもらえなかった。


「待っていたの?」

 別にどちらでもよかったけれど、尋ねる。


 リフィカは一瞬だけ目を逸らした。

「……別に」


「じゃあ、どうしてここに?」


「通り道だし」

 リフィカが短く答えた。


 彼女の家は反対方向だった。


 それを指摘すると、彼女は沈黙した。

 やがて、小さく舌打ちをする。


「……顔を見れば分かると思ったの」

 溜息混じりにリフィカが言った。

「で、やっぱりそうだった」


「何が?」


「無理してるかどうか」


 思わず、自分の顔に触れた。

「そんな顔してる?」


「してる」

 即答だった。

「……一体、何をされたの?」


その問いに、少しだけ息が詰まった。


 思い出したくもないはずなのに、窓際の光景が脳裏をよぎる。


 指先を包む温もり。


「私、あなたが好きよ」

 そして、ほんの一瞬だけ触れた、柔らかい唇。


 無意識に自分の唇へ指先が触れていた。


「……ロビン?」

 リフィカの声で我に返った。

「……顔が赤いよ?」


 肌寒さすら感じるのに、冷や汗が止まらない。


「何も……」

 考えるより先に口が動いていた。

「何も、されてないよ」


「アンタがそういう顔する時は、大抵"何も"じゃない」

 リフィカはそう言い切る。

 怒っているようにも見えた。


 一歩だけ近付いてくる。


「それに」

 リフィカの視線が私の首元で止まった。

「その包帯、出掛ける時には巻いてなかったよね?」


「これ、ヘンリエッタ様が手当してくれた」

 私は答えた。

 事実だった。

「昨日、お釣りが足りないって、お客さんに襟を掴まれて……その時に、傷がついたのかも。それをヘンリエッタ様が……」


「大丈夫って、アンタ昨日言ってたよね?」

リフィカは、ほとんど怒鳴っていた。

「そんな傷ができるまで我慢してたの?」


私は言葉を失う。


「なんで、誰にも言わないの?」

一度息を吐いてから、小さく続ける。

「……アタシにも」


「ヘンリエッタ様には手当てしてもらったのに」

少しだけ視線を逸らす。

「アタシには頼れなかった?」


「心配、かけたくなかった……」

 私がそう呟くと、

「そういうのが、一番心配なんだよ……!」

 リフィカは即座に返した。


「……ヘンリエッタ様に会ったんでしょう」

 リフィカが、祈るような目で私を見た。

「本当に、何もなかった?……なんか、ふらついているし、様子が変だよ?」


 私は少し考えてから答える。

「……お茶を飲んだ。温かいお茶だった。はちみつと、ミルクを入れてくれた」


「そこじゃない」

 リフィカが額を押さえる。

「アンタ……昔からそういうところあるよね」


「どういうところ?」


 返事はなかった。

 リフィカは私の首元を見る。

「……で、包帯」


「大丈夫」


「またそれ」

 小さくため息をついた。

「アンタの“大丈夫”は、もう信用しないことにした」


「指は?」


「指?」


「チェス盤」


「ああ……」

 私は、昼間の話を思い出しながら頷いた。

「噂だから、本当かどうか分からないって」


「それだけ?」


「うん」

 倉庫を探してくれているとは言えなかった。


「それだけで、そんな顔になる?」


 言われて、自分でも分からなくなった。


 チェス盤の話が怖かったのか。

 それとも。

 窓際で交わした、あの約束が?


「……ロビン?」


 急に視界が揺れた。


 床が、ゆっくり傾いたような感覚。


「あれ……」


 足元に力が入らない。


「ちょっと」

 リフィカの声が近付く。

「顔、真っ赤なんだけど」


「……大丈夫」


「またそれ!」

 強い声が返ってくる。


 その瞬間だった。

 ぐらりと体が傾く。


「ロビン!」


 肩を掴まれなければ、おそらくそのまま床へ倒れていた。


「熱……?」

 リフィカの表情が変わる。

 その手が、額に触れた。

 冷たくて、気持ちがいい。


「何これ、ひどい熱だよ」

 リフィカの声が震えた。


 言われて初めて、自分の体が燃えるように熱いことに気付く。


「歩ける?」


 私は答えようとした。


「歩けるわけがないでしょう!」

 リフィカが怒鳴った。

「どうして頼ってくれないの!」


 大丈夫、とそれでも答えようとした。

 そうすれば、全てが元通りになる気がした。

 けれど、口を開くより先に、視界が暗くなってしまった。

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