第十一話 ご都合のよろしい時に
自室のベッドで目覚めると、額に冷たい布が乗っていた。
確かに目を開けたはずなのに、頭がぼんやりする。
部屋が暗い。
すっかり真夜中になっていた。
体がひどくだるい。
視線だけ動かすと、ベッドの傍らで椅子に腰掛けていたリフィカが、小さく息を吐いた。
「目が覚めた?」
ほっとしたような、でも嗜めるような声だった。
「寝てなくちゃ駄目」
「……リフィカ?」
朦朧とする頭が、ようやく彼女の名前を思い出す。
「他に誰がいるっていうの」
呆れたように肩を竦める。
「花屋さんには知らせてある。目が覚めたら、薬を持ってきてくれるって。それと、おかゆも作ってくれるみたい」
「私……」
喉が焼けるように痛い。
「どうして……」
「帰ってきて、そのまま倒れたの」
リフィカは静かに言った。
「……時間的にはもう、昨日か。覚えてない?」
私はゆっくり首を振る。
「店に入ってきた時から様子がおかしかった。顔も赤かったし、ふらふらしてた」
そこで一度言葉を切る。
「……でも、アタシ、疲れてるだけだと思った」
少しだけ目を伏せる。
「もっと早く気付けばよかった」
リフィカの声は聞こえているのに、それを処理する力は残っていなかった。
「……なんで、まだいるの?」
言ってから、ベッドからはみ出した自分の手が、何かを握り込んでいることに気がつく。
「……あれ?」
頭だけ浮かせて、それを見ようとすると、額の濡れタオルがズレた。
「アタシも、すぐに帰ろうと思ったけどさ」
リフィカがタオルを拾う。
自分が握り込んでいたものがリフィカの服の裾であることを確認して、慌てて離した。
「ごめん……」
力尽きて、ベッドに沈み込む。
「いいの、ちゃんと頼ってくれて嬉しい」
リフィカが、タオルを額に戻してくれた。
「ずっと風邪ひいていたら素直なのに」
リフィカは、私の顔を覗き込んだ。
「何か欲しいものある?」
「お水……」
ぼんやりと天井を見つめたまま、小さく唇を動かす。
「うん」
枕元に置かれていた、細い飲み口のついた陶器の器を彼女が手に取る。
「少し起こすよ」
私の返事を待ってから、そっと背中へ腕を差し入れた。
無理のないように上体を支え、器を口元へ運ぶ。
「ゆっくりね」
冷たい水が少しずつ喉を潤していく。
一口。
もう一口。
夢中で吸いつく。
飲み終えるまで、リフィカは器を傾ける角度をほんの少しずつ変えながら、私の呼吸に合わせて待っていてくれた。
「かわいい」
思わず零れたその一言に、リフィカ自身が少し驚いたように目を瞬かせる。
「あ……違う」
照れ隠しに咳払いをひとつする。
「ちゃんと、上手に飲めたからさ」
私は小さく笑った。
リフィカもようやく肩の力を抜く。
「熱がない時も、そのくらい素直に甘えてくれたらいいのに」
「……ごめん」
「だから、謝らなくていいって」
そう言って、彼女はもう一度、濡れた布を私の額へそっと乗せ直した。
「そういえば」
リフィカは立ち上がると、机の上に置かれていた封筒を手に取った。
「さっき届けに来たって」
「何……?」
ぼんやりとした頭で視線を向ける。
封筒に押された紋章を見た瞬間、胸がひやりとした。
見覚えがある。
「ルペストリス家から」
花屋宛ての封筒は、すでにミシマさんが開封していたらしい。
リフィカは中の便箋を広げる。
「『本日お届けいただいた水草について、もう一度ご相談したいことがあります』」
淡々と読み進める。
「『急ぎではありません。ご都合のよろしい時に、お越しください』……だって」
読み終えると、リフィカは便箋を見つめたまま首を傾げた。
「急ぎじゃないなら、昼間に届ければよかったのに」
封筒を裏返し、消印もないそれを眺める。
「こんな真夜中に使いを寄こすなんて、なんだか変じゃない?」
私は答えられなかった。
読み上げられた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
ご都合のよろしい時に。
ーーぜひ、またいらしてね。ロビン。
あの人の微笑みが浮かぶ。
約束を思い出した途端、胸の奥がざわついた。
「……ロビン?」
リフィカが不安そうに私を見る。
「行くの?」
すぐには答えられなかった。
私が、行かなければ。
そんな義務は、本来どこにもないはずだった。
もしも熱が下がらなければ、ミシマ夫婦が代わってくれるだろう。
それなのに。
「……少し眠ってから、考える」
ようやく絞り出した言葉に、リフィカは少しだけ安心したように息をつく。
「そうしなよ」
便箋を丁寧に封筒へ戻す。
「今は、何も考えなくていい。まずはゆっくり休んで、ちゃんと治すことだけ考えて」
そう言って、彼女はもう一度、私の額の濡れ布を取り替えた。
その冷たさに目を閉じる。
けれど、瞼の裏には、白い封筒に刻まれたルペストリス家の紋章だけが、いつまでも消えなかった。




