第七話 ヘンリエッタ・ルペストリス
馬車を降りて、私はエヴァンスさんの後をひたすらついて歩いた。
ドアボーイが、音もなく扉を開ける。
足を踏み入れたエントランスは、ホテルというよりも、古い屋敷という言葉の方が似合っていた。
磨かれた床。
高い天井。
壁に飾られた、見たことのない装飾品。
失われたものを集める島の一族らしい、と言えばいいのだろうか。
「ヘンリエッタ様は、最上階のスイートルームにいらっしゃいます」
エヴァンスさんが告げると、すぐにロビーボーイがエレベーターの扉を開いた。
迷いのない動きだった。
何もかもが、私が困る前に用意されている。
至れり尽くせり、という言葉が頭に浮かぶ。
けれど同時に、落ち着かなかった。
乗り込んだエレベーターが、静かに上昇していく。
数字が一つずつ変わっていくのを眺めながら、私はふと疑問に思った。
「……ヘンリエッタ様は、ここにお住まいなんですか?」
「少なくとも、ヘンリエッタ様が成人されるまで、不自由なく暮らせるだけの取り決めが、すでになされています」
意外にも、エヴァンスさんはあっさりと答えてくれた。
「それを決めた方が、血族の方なのか、それとも別の誰かなのか……私には分かりません」
エレベーターの扉が開き、またエヴァンスさんの後ろをついていく。
長い廊下の先の、一番奥にある扉の前で、エヴァンスさんが足を止めた。
静かにノックをする。
「どうぞ」と、小さな返事を確認して、エヴァンスさんが扉を開いた。
部屋の中へ足を踏み入れる
そこは、ホテルの一室というより、小さな庭園を閉じ込めたような空間だった。
大きな窓の向こうには海が広がり、室内には見たことのない植物がいくつかと、一際目につく水槽がひとつ置かれている。
その中央に、一人の女性が立っていた。
上等な生地で仕立てられたドレス。 黒い髪は肩のあたりで揃えられ、白い肌によく映えている。
噂から想像していた姿とは、あまりにも違っていた。
「ボディチェックは済んだの? エヴァンス」
女性――ヘンリエッタ様が、私を見る。
その視線は、品定めをするようなものではないが、何か落ち着かない。
「問題はない?」
エヴァンスさんは深々と頭を下げる。
「はい。すでに馬車の中で済ませました。問題ございません」
「嘘よ」
即座に返された言葉に、私は息を止めた。
ヘンリエッタ様は、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
何を言われるのか分からず、私は籠の持ち手を握る手に力を込めた。
けれど、ヘンリエッタ様が見ていたのはエヴァンスさんでも水草でもなかった。
「傷があるわ」
私の首元の、ほんの小さな傷だった。
次の瞬間、その指先が伸び、私の襟元に触れる。
昨日、乱暴に掴まれた感触が蘇る。
反射的に身体が強張った。
けれどヘンリエッタ様は構わず、私の襟を少しだけ引いた。
隠していた赤い線が、露わになる。
「ほら……」
彼女の表情が変わった。
怒りや疑いではなく、ただ悲しそうな顔だった。
「お薬は? もちろん、塗って差し上げたのよね?」
その言葉に、私は戸惑う。
「……え?」
視線が交わる。
彼女は、私に尋ねている。
「お客様なのよ」
ヘンリエッタ様は、今度はエヴァンスさんへ視線を向けた。
「丁重にお迎えするように、いつも言っているわよね?」
エヴァンスさんは一瞬だけ目を伏せた。
「申し訳ございません、すぐに」
「謝ることではないわ。でも急いで」
ヘンリエッタ様はそう言って、再び私を見る。
「……痛かったでしょう?」
その問いかけに、すぐには答えられなかった。
襟をまだ掴まれている。
痛みなら、確かにあった。
でも、それ以上に、見知らぬ誰かに心配されることに、慣れていなかった。
「……大丈夫、です」
いつものように私は答えた。
「このくらいなら、きっとすぐ治ります」
ヘンリエッタ様は、私の言葉を聞いても手を離そうとはしなかった。
むしろ、私の首筋に触れていた指先に力を込め、ゆっくりと、赤く滲んだ線の跡を親指でなぞり始めた。
ひやりとした指の感触が、ゾクゾクとするような感覚を首筋から背骨へと這い上がらせる。
「放っておいても治る? そうやって、きっとあなたはいつも何かを耐えて隠しているのね」
ヘンリエッタ様は、少しだけ眉を寄せた。
「……どうして?」
「え?」
「それに、今日はまだ肌寒い日よ。なぜ袖のない服を着ているの?」
傷をなぞっていた手が、今度は私の剥き出しの腕に触れた。
体がびくりと震えた。
思わず腕を引きそうになって、私は堪える。
相手は、このホテルの主人だ。 失礼なことだけはしてはいけない。
「……失礼致しました」
謝罪が口をついて出た。
「なぜ謝るの?」
ヘンリエッタ様は肩から指先までを優しく撫で下ろした。
その手つきは優しいはずなのに、思うように体の力を抜けない。
「ほら、こんなに冷たい」
そのまま私の両手を包み込むように取ると、ヘンリエッタ様は何のためらいもなく、自分の頬へそっと当てた。
「……やっぱり」
まるで確かめるように、小さく呟く。
「冷え切っているじゃない」
彼女の白い頬に触れた自分の手が、急に居場所を失ったように感じる。
人の体温が、こんなにも近いものだとは思わなかった。
息が詰まり、どこに視線を置いたらいいのか分からない。
近い。 近すぎる。
「だ、大丈夫です」
思わず手を引こうとしたけれど、ヘンリエッタ様は優しく包んだまま離さない。
「また」
困ったように笑う。
「あなた、また大丈夫って言った」
その表情に責める色はなく、本気で心配していることだけが伝わってきた。
「じっとしていて」
彼女のその一言で、私は動けなくなった。
「お待たせ致しました」
エヴァンスさんが、薬箱を持って戻ってきた。
ヘンリエッタ様は、頬に当て続けていた私の手を、名残惜しそうに離した。
エヴァンスさんから薬箱を受け取り、開く。
「エヴァンス、温かいお茶の用意を。それから、上着を。来客用でも、私のクローゼットからでも構わないわ」
エヴァンスさんが一礼して去る。
「失礼するわね」
今度は、先ほどよりずっと静かな声でヘンリエッタ様が言った。
私が返事をするより早く、彼女はワンピースの襟元へ指を差し入れた。
「え……?」
傷がよく見えるよう、布を少しだけ肩の方へずらされる。
「こ、このくらいで……」
思わず身を引こうとした私を、ヘンリエッタ様は不思議そうな顔で見た。
「傷が見えないと、お薬を塗れないでしょう?」
悪びれる様子はまるでない。
細い指が、傷の周りを確かめる。
やがて薬箱から軟膏を取り出して、丁寧に塗り始めた。
「少し沁みるかもしれないけど、よく効くはずよ」
その顔つきは、驚くほど真剣だった。
「……大丈夫、です」
少しどころではなく、沁みていた。
匂いもキツイし、気を抜いたら呻いてしまいそうだった。
「……また」
ヘンリエッタ様が、小さく呟く。
「あなた、また大丈夫って言った」
薬を塗り終えると、彼女はガーゼを当てて、包帯を手に取った。
「そこまでしていただかなくても」
「駄目よ」
即答だった。
「傷は傷だもの」
有無を言わさず首元に巻かれた包帯は、大袈裟なくらいだった。
ちょうど処置を終えたタイミングで、エヴァンスさんが上着を差し出す。
「こちらを」
どう見ても上等そうな服。
私のようなものには似つかわしくない服。
「お断りします。お気持ちだけで結構です」
私は、喉の奥から絞り出すようにして、そう言った。
「あら、どうして?」
エヴァンスさんから受け取った上着を、ヘンリエッタ様が私の肩に勝手にかけた。
「疑われてしまうので、噂のせいで」
振り払うこともできず、ただ俯いて小さく縮こまる。
失礼のないよう、なんとか顔を上げる。
「噂?」
ヘンリエッタ様はエヴァンスさんに視線を向けていた。
「この方のご祖父さまは船乗りで、その昔、難破した船から積荷を持ち去り、逃亡したのではないか……と、一部では囁かれております」
エヴァンスさんが、私の方をちらっと伺う。
「ヘンリエッタ様も、先代の航海日誌などでご覧になったことがあるかと……」
そして、エヴァンスさんは、ヘンリエッタに短く耳打ちして、すぐ離れた。
「……船は島に戻り打ち上げられたというのに、積荷とこの方のご祖父様は、この島に寄せられませんでした」
「それで?」
「盗人の血を引く一族だ、と」
エヴァンスさんは短く視線を私に走らせ、ヘンリエッタ様に戻した。
「血を?」
ヘンリエッタ様が聞き返す。
「……そう噂されております。しかしそれも、ほんの一部の者です」
「そう、覚えておくわ」 ヘンリエッタ様は小さく頷いた。
「それより……水草を見せて。待ちかねたわ」
エヴァンスさんが一礼する。
「お茶の用意も整っております」
私は籠を抱え直し、二人の後を追った。




