第六話 ベアトリス・エヴァンス
朝日で目が覚めた。
身体が少し重い。
昨日の疲れが残っているのか、あるいは今日の配達の緊張のせいかもしれない。
壁に飾ってあるワンピースの中から、一番首元が隠れるものに着替える。
鏡の前に立ち、襟元を整えた。
首筋の傷は、まだ少し熱を持ってひりついていた。
指先でそっと触れる。
痛みではなく、他人からは見えないことを確かめたかった。
大丈夫。ワンピースの襟で、隠れている。
そう思いたかった。
身支度を終えた頃、部屋の扉が慌ただしく叩かれた。
「ロビン、起きている?」
ミシマ夫人の声だった。
「はい」
扉を開けると、ミシマ夫人は少し息を切らしていた。
「ホテルから、迎えの馬車が来ているわ」
「迎え……?」
思わず聞き返す。
水草を届けるだけなのに。
「ルペストリス家のお付き方が、下で待っていらっしゃるわ」
ミシマ夫人に促され、私は慌てて配達する籠を手にした。
水草は昨日、ミシマ夫人が整えてくれている。
「そんな……わざわざ迎えだなんて」
私が呟くと、ミシマ夫人は少しだけ笑った。
「怖い噂ばかりが先に広まっているけれどね……あなたが思っているより、ヘンリエッタ様は島の人間をよく見て下さる方なのよ」
それは知っている。
少なくとも、そう語る人がいることは。
だからこそ、不安だった。
籠を抱え、階段を降りて、扉を開ける。
店の外には、一頭の馬車が停まっていた。
黒塗りの車体。
飾りは控えめなのに、隠しきれない上品さがある。
カナメ店主が、お付きの方と何か話していた。
たぶん、経営は順調かとか、今回のご依頼のお話だろう。
いつもの威勢のよさはどこへ行ったのか、カナメ店主は珍しく言葉を探していた。
馬車の横に、一人の女性が立っていた。
執事だろうか。
淡く灰色がかったブロンドの髪をきちんとまとめている。
私に気がつくと、無駄のない所作でこちらを見た。
「あなたが、ロビン・ブレーカーズ様……ですね?」
「はい」
自分の名前を、相手が知っていることに少しだけ違和感を覚えながら、私は答えた。
女性は深々と一礼した。
「ベアトリス・エヴァンスと申します。ルペストリス家でヘンリエッタ様の執事を務めております。気兼ねなくエヴァンスとお呼びください」
顔を上げ、馬車の扉を開く。
「こちらへ。荷物はお預かりします」
「これは私が持ちます」
反射的に答える。
仕事だから、最後まで自分で届けたい。
エヴァンスさんは一瞬だけ籠へ視線を落とした。
「承知いたしました。それでは、そのまま馬車へ」
断られると思っていたので、少し意外だった。
ミシマ夫婦に見送られ、馬車へ乗り込む。
「今日は、お迎えありがとうございます」
「礼には及びません」
淡々とした声だった。
向かいに座ったエヴァンスさんは、すぐに口を開いた。
「早速ですが、屋敷へ到着する前に、いくつか確認を済ませます」
馬車が走り出す。
胸の奥がわずかに冷えた。
「確認、ですか」
「ええ」
彼女は変わらない表情で続ける。
「お体と所持品の確認です」
昨日のことが、頭をよぎる。
乱暴に掴まれた襟。
向けられた疑いの目。
私は、自分で縫い潰したポケットを握った。
私の不安を感じ取ったのか、エヴァンスさんが少し口調を和らげて続ける。
「勘違いをなさらないでください。決して、あなたを疑っているわけではありません」
その言葉に、私は少しだけ戸惑う。
疑っていないのに?
疑っていないのなら、なぜわざわざ確認をするの?
それも、こんな密室で。
そんな私の疑問を察したように、エヴァンスさんはさらに続けた。
「これは、時間短縮のためです」
「時間短縮?」
「ええ」
彼女はちらりと窓の外へ視線を向ける。
「ヘンリエッタ様は、ご依頼した水草を一秒でも早く届けるようにと仰っています」
ほんの一瞬だけ、その言葉の奥に困惑のようなものが滲んだ気がした。
けれど、エヴァンスさんはあくまでも、淡々とした口調を崩さない。
「屋敷に着いてから身体確認をしていては、その分だけ遅れますから」
エヴァンスさんは背筋を正した。
「お迎えにあがったのも、あなたのためではありません。ヘンリエッタ様のご命令です。どうかお気になさらず」
そう、きっぱりと言った。
なぜか、その言葉に私は少しだけ安心した。
変に優しくされるより、理由をはっきり告げられる方が、私は安心できた。
「それでは改めまして、失礼します」
エヴァンスさんが、若干私に近づく。
「まずは軽くお体に触れさせていただきます。お召し物と、ポケットを確認します。少し腕を上げていただけますか?」
「はい」
昨日とは違う。
そう思おうとした。
これは疑いではない。
事務的な、確認のための手順だ。
心の中でそう言い聞かせたのに、持ち上げた腕が微かに震えた。
「……失礼します」
彼女の手が、私の首元、肩、腕へと順番に触れていく。
エヴァンスさんの視線が、一瞬首元で止まった気がした。
でも、何も言わない。
その動きに迷いはなかった。 手順通りの、確認のための無駄のない動きだった。
やがて、縫い付けたポケットに気づいたようで、他よりも少しだけ長くそこに手が止まっていたが、静かに離れた。
やはり、何も言わない。
「結構です。ご協力感謝いたします」
エヴァンスさんは深々と頭を下げた。
私もつられて頭を下げる。
「続いて、籠の中を拝見しても?」
私は素直に籠を差し出した。
エヴァンスさんは、綺麗に整えて小瓶に入れられたいくつかの水草を、持ち上げて確認していた。
光に透かしたり。
ひっくり返したり。
蓋を開けて匂いを確かめたり。
「……おや、これは?」
エヴァンスさんが、籠の隅に転がっていた海ガラスを摘み上げる。
「あっ、それ、海ガラスです」
私は慌てて答える。
「昨日、水草と一緒に拾ったんです。すみません、気が付かずに入れたままにしていました」
「海ガラス、ですか」
エヴァンスさんは、それをまじまじと眺める。
その口元が、ほんのわずかに緩んだように見えた。
「……綺麗ですね」
そう言って、元の場所に戻し、籠を返してくれた。
ほっとした。
リフィカが綺麗だと言ってくれた海ガラスを、取り上げられなくて本当によかった。
「結構です。確認は以上となります。到着まで、今しばらくお待ちください」




