第五話 傷
浜辺から街へ戻る。
体中が砂だらけで、私たちは漂着物そのものみたいだった。
まだ私の肩に掛けられていた上着へ、リフィカが手を伸ばす。
「上着、ちゃんと洗って返すから」
私がそう言って引き寄せようとすると、リフィカは上着をそっと受け取った。
「砂を払っておきたいの」
パン、パン、と布を軽く打つ。
陽の光の中で細かな砂が舞い、潮風に乗って消えていく。
「いいよ、洗わなくて。また使うし、このままで」
上着を畳むと、そのまま今度は私の肩へ手を伸ばした。
「……砂浜に埋まってた?」
呆れたように笑いながら、私の肩についた砂をリフィカが払う。
他の人なら、きっと身を引いていた。
でも、リフィカの手だけは、昔から平気だった。
それでも取り切れない砂を見つけたのか、今度は潮風で絡まった私の髪を、指先でそっと梳く。
「ホテルに行くのはいつ?」
「明日」
口の中に砂が入らないうちに、私は短く答えた。
「失礼のないように、持っている服の中でも、なるべく綺麗なものを着ていくつもり」
あらかた砂を払い終えたリフィカは、小さく頷く。
その視線が、私の腕へ落ちた。
「袖ないじゃん。それに……ポケットもないし」
「違うよ」
私は笑う。
「ポケットはあるの。縫い潰してあるだけ」
今度は私が、リフィカの肩についた砂を払う。
あれだけ重たい籠を軽々と持つのに、その肩は驚くほど華奢だった。
「謁見の時はさ、堂々としていくんだよ」
リフィカが言う。
その言葉には答えず、私は黙って彼女の髪を梳いた。
「ねえ」
少しだけ声を潜めて、リフィカが続ける。
「ヘンリエッタ様って、罪人の切り落とした指をコマにしたチェス盤を持ってるって噂、聞いたことある?」
髪を梳いていた私の手首を、リフィカはそっと掴んだ。
「だから、変なことにならないか心配なの」
私は思わず吹き出してしまう。
「本気?」
リフィカは肩をすくめるだけで、それ以上は何も言わなかった。
街へ戻る分かれ道で手を振り、工房へ向かうリフィカと別れる。
私はそのまま花屋へ向かった。
店内へ入ると、花と土の匂いが鼻をくすぐる。
さっきまで潮風の中にいたことが嘘みたいで、それだけで少し肩の力が抜けた。
「おかえり」
ミシマ夫人が笑顔で迎えてくれる。
すぐに水草の手入れをしないと。
ホテルへ届けるなら、少しでもいい状態にしておきたい。
そのまま籠の中の水草へ手を伸ばした私を、ミシマ夫人がやんわりと制した。
「ここは任せて。それより、早くお風呂に入っていらっしゃい」
そう言って、水草の入った籠を自分のほうへ引き寄せた。
ミシマ夫婦のご厚意で、私は店舗の二階を間借りして暮らしている。
「でも、私が引き受けた仕事ですから。せめて梱包までは……」
籠を受け取ろうと一歩踏み出す。
さらさらと靴の中から砂がこぼれ落ち、床に小さな筋を描いた。
砂浜で払いきれなかった砂だった。
呆然と立ち尽くす私に、ミシマ夫人は苦笑する。
「ほらね。今日はもうゆっくり休みなさい。明日の配達はお願いね」
返事をする間もなく背中を押され、私はほとんど強引に二階の自室へ追いやられてしまった。
部屋には、書き物ができる程度の机と、姿見、それにベッドがあるだけだった。
海で拾ったものや生活に必要なものは、できる限り工夫して、全て壁に飾っている。
クローゼットや机の引き出しに隠すということに、ひどく抵抗があった。
机の上には、島の外にある大学の資料が出しっぱなしになっていた。
何度も開いては閉じたせいで、角には小さな癖がついている。
なるべく砂を落とさないように気をつけて、ワンピースを脱ぐ。
脱いだ途端、首筋がひりついた。
姿見を覗くと、そこには赤い細い線が浮かんでいて、みみず腫れのように数本の線が見えた。
お釣り事件のとき、女性客の爪が掠めたのだろう。
あの時は気づかなかった。
気づく余裕なんて、なかった。
ワンピースの襟で、この傷は隠れるだろうか。
そればかりが気になっていた。




