第二話 ロビン・ブレーカーズ
クラッスラ島では、噂は炎が燃え移るよりも早く広がる。
そして、一度燃え上がった火は、なかなか消えない。
灰の下で燻り続け、何年経っても、誰かの口からふいに吹き返す。
だから私は、お客さんの視線が少し変わっただけで、それが何を意味するのか分かってしまう。
「……お釣りが足りないんだけど」
年配の女性客が、冷たい声で言った。
ツグミ・ミシマ夫人が眉を寄せる。
「そんなはずはありませんよ。先ほど、私が確認してお渡ししましたから」
「でも、ないものはないのよ」
女性客は小さな財布を握りしめたまま、体をミシマ夫人へ向けている。
けれど、その視線だけが私へ向いた。
「……あなたが包んでくれたわよね?」
「はい。ですが、私はお花を包んだだけで、お金には触れていません」
答え終わる前に、女性客はこちらへ詰め寄ってきた。
「それじゃあ、どこにあるっていうの?」
棘のある声に、店の中の空気が少しだけ重くなる。
まただ。
私は自分の服へ視線を落とした。
今日着ているのは、いつも通り、袖のない簡素なワンピース。
ポケットはある。
けれど、もうずっと前から縫い付けてある。
中に何かを隠すことなんてできないように。
「……確認していただいても構いません」
私は静かに答えた。
「ポケットは縫ってありますし、何も入っていません」
女性客は私の服をじろじろと見た。
まるで布の隙間まで探すような視線だった。
けれど、それで納得した様子はない。
「それなら……服の中はどうなの?」
女性客の指先が、私の前で止まる。
「靴は?」
「え……?」
「靴の中は? まさか、靴を足に縫い付けたわけじゃないでしょう? それなら、いくらでも隠せるはずよ」
言葉が出なかった。
ミシマ夫人の声色が変わる。
「お客様、それはいくらなんでも――」
「だって、この子でしょう? あの家の! あの盗人の――ブレーカーズ家の!」
その言葉に、私は目を伏せた。
ああ。
やっぱり。
名前より先に、顔も知らない祖父の話をされることには、もう慣れてしまった。
私はもう一度、自分の服を見る。
袖のないワンピース。
縫い付けたポケット。
これなら疑われないはずだった。
幼い頃、私なりに考えた。
ポケットを縫えばいい。
袖のない服ならいい。
隠す場所がなければ、誰も疑わない。
そう思っていた。
「靴下や、下着の中まで確認しなきゃ分からないじゃない?」
女性客が、一歩近づく。
その手が、私の襟へ伸びる。
布を掴まれ、ボタンが引きちぎれそうになる。
「いい加減にしてください!」
低い声が店内に響いた。
店主のカナメ・ミシマさんだった。
普段は穏やかで、少しくらいの無理なら笑って引き受ける人なのに。
今は険しい表情で、真っすぐ女性客を見据えていた。
「うちの店の不手際を責めるのは構いません。しかし、盗んだ証拠もないのに、これ以上その子を傷つけることは許しません」
女性客は動きを止めた。
けれど、手はまだ私の襟から離れていない。
「私の……」
声が震えた。
「……私のお給料から引いてください」
思わず口をついて出た言葉だった。
店に迷惑をかけている。
私のせいで。
この場を収めなければ。
そう思った。
けれど、カナメさんは首を振った。
「お釣りの確認はこちらでします。もし足りなければ店の責任です」
そして、静かに続ける。
「ですが、ロビンを人前で辱める理由にはなりません」
カナメさんは歩み寄り、私の襟を掴んでいた女性客の手をそっと外した。
「これ以上騒ぐようなら、お店の外でお話しましょう」
その視線の先には、店の扉があった。
「すでに騒ぎを聞いた人が集まり始めています」
女性客は、はっとしたように扉を見る。
すりガラス越しに、人影が見えた。
この島で噂になることが、どれだけ恐ろしいことか。
知らない人はいない。
女性客は不満そうな顔をしたまま、やがて何も言わず店を出ていった。
扉についた小さな鈴の音が鳴る。
静かになった店内で、私は小さく息を吐いた。
「……すみません」
ミシマ夫人が困ったように笑う。
「あなたが謝ることじゃないでしょう」
「でも、また……」
言葉が続かなかった。
悔しいからなのか。
悲しいからなのか。
それすら分からない。
カナメさんは売り場の花を整えながら、ため息をついた。
「島の人間が全員、あんな考えじゃないよ」
「……もちろん、分かっています」
私は笑った。
うまく笑えているかは分からなかった。
すぐに俯いてしまう。
分かっている。
この店の夫婦は、こんな私をずっと雇ってくれている。
花の扱い方を教えてくれた。
失敗した時も、怒鳴らずに教えてくれた。
だからこそ、迷惑をかけたくなかった。
「……そういえば」
ミシマ夫人が伝票を手に取り、思い出したように言った。
「ルペストリス嬢から注文が来ているの」
私は顔を上げる。
「あの、大きなホテルの?」
「ええ。水草を探してほしいって」
カナメさんが伝票を覗き込む。
「珍しいものをご所望らしい。浜辺に流れ着くものでもいいから、綺麗なものを探してほしいそうだ」
私は黙ってしまった。
普段なら、迷わず「私が行ってきます」と答えていた。
けれど。
ほとんど反射的に、私は首を振っていた。
「……私ではない人が、届けた方がいいと思います」
「あら、どうして?」
ミシマ夫人が驚いたように聞く。
「……その」
言葉を選ぶ。
「噂がありますから」
店主夫婦は顔を見合わせた。
けれど、カナメさんは静かに言った。
「それでも、君に頼みたいそうだよ」
「でも……」
もし、ホテルを出た後で何かがなくなったら。
私が真っ先に疑われる。
そうなれば、この優しい夫婦にも迷惑がかかる。
「ロビン」
ミシマ夫人が、私の名前を呼んだ。
名前で呼ばれた。
それだけのことなのに、少しだけ嬉しかった。
「行ってきなさい」
カナメさんは笑った。
「君が拾ったものを、君の手で届ければいい」
そして、続ける。
「ヘンリエッタ様が、それを望んでいるのだから」




