第十五話 銀の輪
目を覚ましたはずなのに、まだ夢の中にいるようだった。
柔らかな寝具と、静かな部屋。
ここは自分の部屋ではないことを少しずつ思い出してくる。
体を起こそうとして、すぐに後悔した。
頭が重い。
体の芯にまだ眠りが残っているようだった。
「……薬」
あの言葉が蘇る。
眠り薬。
手をついて、ゆっくり上体を起こす。
その瞬間、喉あたりの違和感が強くなった。
確かめるために、首元へ手を伸ばす。
指先が、硬いものに触れた。
金属。
思考が止まる。
「……え?」
夢かと思った。
けれど、指先に伝わる硬さ、冷たさは消えない。
慌てて立ち上がろうとする。
足に力が入らず、そのままベッドから崩れ落ちた。
床に手をつく。
それでも、鏡を見なければいけないと思った。
鏡台へ。
見なければ。
何が起きているのか分からない。
壁伝いに、一歩、また一歩。
ほとんど這うようにして、鏡台へ向かう。
鏡に映った自分を見た瞬間、悲鳴を飲み込んだ。
首元には、細工の施された銀の輪がはめられていた。
正面には黒い石が埋め込まれている。
それは、あまりにも見覚えのある色だった。
私の瞳と同じ色。
リフィカが話していた、首輪にしか見えないネックレスの話を思い出す。
「そん、な……」
外そうと首の後ろに手を回す。
留め具はない。
代わりに、小さな穴に指先が触れた。
鍵穴。
「……鍵、鍵は?」
私は手当たり次第に、引き出しを探し始める。
けれど、どこにもない。
再度、首の後ろへ手を回す。
やはり、留め具はない。
「……外れない」
何度引いても、回しても、銀の輪はぴくりとも動かなかった。
どうして。
どうして、こんなものが。
息が浅くなる。
閉じ込められることよりも、この首輪をつけたままホテルを出される方が恐ろしかった。
あの盗人のブレーカーズが、ホテルの銀細工を持ち出した──。
そんな噂が立つ未来を想像して、ゾッとする。
──コン、コン。
静かなノックが響く。
「ロビン?」
ヘンリエッタ様の、穏やかな声。
「目が覚めたのね」
扉がゆっくりと開く。
現れた彼女は、両腕いっぱいに服を抱えていた。
淡い色のワンピース。
白いブラウス。
刺繍の入った上着。
上等そうなスカート。
帽子まである。
まるで人形へ着せる衣装を、何着も運んできたようだった。
「……あら」
鏡の前にへたり込む私を見ると、ヘンリエッタ様は少しだけ困ったように微笑む。
「歩いてしまったの? だめよ、安静にしなくては」
「……これは」
声の震えが抑えられない。
どうなるわけでもないのに、咄嗟に自分の首を押さえる。
「これは、何ですか」
ヘンリエッタ様は首輪を見た。
「あら」
そして、たった思い出したというように、小さく声を漏らした。
「説明するのを、すっかり忘れていたわ」
忘れていた?
その一言に、頭が真っ白になる。
「あなた、熱があったでしょう?」
ヘンリエッタ様は私のすぐそばまで歩み寄る。
「それで、首を冷やした方が楽になると思って」
そう言って、首輪へ指先を添えた。
そのままなぞるようにして指を動かされると、ひやりとした感触が首元へ伝わる。
「銀は冷たいから」
まるで、本当にそれだけだと言うように、彼女は微笑んだ。
「黒曜石はおまけ。あなたに似合うと思って」
私は、意図して大きく深呼吸をした。
「……外してください」
私は立ち上がるために、鏡台に手をつく。
膝に力が入らず、やはりそのまま崩れてしまう。
「お願いです」
どうしようもなくなって、私は彼女に訴えた。
ヘンリエッタ様は、少し考えるように首を傾げる。
「……そうね。体が良くなったら」
「今すぐ、お願いします」
私は打てば響くように答えた。
「今は駄目」
即答だった。
けれど、彼女は怒っているわけではない。
「また、無理をするでしょう?」
あまりにも穏やかな口調だった。
本気で、病人を気遣っての発言。
私は、返す言葉を失ってしまう。
「……鍵は?」
ようやくそれだけ尋ねる。
「鍵は、どこにあるんですか?」
ヘンリエッタ様は、抱えていた衣類をベッドにどさっと置いてから、微笑んだ。
「飲み込んでしまったわ」
「……え」
「嘘だと思う?」
ヘンリエッタ様が、くすくすと笑う。
「本当かもしれないわよね?」
どちらなのか分からない。
でも、この人ならやりかねない。
そう思ってしまった自分が怖かった。
私が黙っていると、ヘンリエッタ様はベッドに置いた服を広げ始める。
「それより、着替えをしましょう」
次々と並べられる服。
一着、二着、三着。
まだある。
ざっと、十着はありそうだった。
「……こんなに?」
着替えのタイミングで外してもらえることに望みをかけて、私は彼女の話に乗ることにした。
「ええ」
ヘンリエッタ様は嬉しそうだった。
「熱が出て、汗をかいたでしょう?」
「私の体はひとつしかありません。一着で十分です」
ヘンリエッタ様が、不思議そうに瞬きをする。
「でも、あなたがどれを気に入るか、分からなかったもの」
私は言葉を失った。
「エヴァンスに教えてもらったの」
ヘンリエッタ様は誇らしげに続ける。
「まずはあなたに尋ねなさいって」
いつのまにか部屋の隅に控えていたエヴァンスさんが、ゆっくりと目を閉じた。
「……お嬢様」
その声には、わずかな疲労が滲んでいた。
けれど、ヘンリエッタ様は聞こえなかったふりをした。
そして、服を見つめる。
「だから、たくさん持ってきたわ」
真剣な顔だった。
「ロビンは、どれがいい? それとも、この中には、気にいるものがない?」
その問いは──問いだけは、間違いなく私に向けられていた。
私に、選ばせようとしている。
昨日までのヘンリエッタ様なら、勝手に選んで決めていただろう。
彼女は、変わろうとしている。
私のために。
──それなのに。
私の首には、何ひとつ尋ねられることなく、銀の輪がはめられたままだった。
「鍵は……」
私は、それだけを尋ねる。
熱が上がってきたのかもしれない。
同じことしか考えられない。
「鍵……」
朦朧としていた。
彼女の姿も、時々霞んで見える。
ヘンリエッタ様は、私の両脇に腕を差し込み、引きずるようにしてベッドへ移動させはじめた。
エヴァンスさんが、慌てて飛んでくる。
ベッドに戻された私を満足そうに見下ろして、ヘンリエッタ様は、小さく微笑んだ。
「だから、鍵は飲み込んでしまったの」
「うそ……」
私はうわごとのように呟く。
「うそだぁ……」
しばらく彼女の顔を見つめていると、ヘンリエッタ様が首を傾げた。
私は、視線を彼女のお腹まで落とす。
「ロビン?」
熱でぼんやりした頭のせいで、考えるより先に体が動いていた。
体をよじって、彼女へ近づく。
そして、おそるおそる手を伸ばした。
「……失礼します」
細い腰へ、柔らかいお腹へ、そっと触れる。
服越しに伝わる体温は、思っていたよりも温かかった。
ヘンリエッタ様が、目を丸くする。
「え……?」
私は真剣だった。
「お腹、痛く……ありませんか」
ヘンリエッタ様が絶句した。
「鍵を飲み込んだのなら」
自分でも何を言っているのか分からない。
目を開けているのかどうかさえ、定かではない。
朦朧としていた。
「危ない、です」
一瞬の沈黙。
やがてヘンリエッタ様が、小さく吹き出した。
「ふふっ……」
肩を震わせながら笑う。
「ごめんなさい」
目尻を押さえる。
「冗談よ」
私は固まった。
こんなことをしたのは、熱のせいだ。
きっと。
そう思いたい。
慌てて手を離そうとすると、その手首をヘンリエッタ様が優しく包んだ。
嬉しそうに笑う。
「ロビンから触ってくれたのは、初めてね」
ヘンリエッタ様は、包んでいた私の手をそっと持ち上げた。
何をされるのか理解するより先に、押し付けられた彼女の唇の、柔らかな感触が手の甲に触れる。
驚いて手を引こうとすると、彼女はすぐに離した。
「ごめんなさい」
そう言いながらも、どこか嬉しそうだった。
「違います」
私は喘ぐように答える。
「今のは親密になった合図ではありません」
「ええ」
ヘンリエッタ様は素直に言う。
「でも、心配してくれたのでしょう?」
私は頷く。
「嬉しかったわ」
あまりにも真っ直ぐ言われて、返事ができなかった。
「それじゃあ……着替えましょうか?」
ヘンリエッタ様が言った。
「ロビンは、どれがいい?」
尋ねてから、彼女は「あっ」と小さな声を漏らす。
「そういえば、このお部屋はいかが? 気に入らなければ、別のお部屋へご案内するわ。ここはお庭が見えるお部屋なの。素敵でしょう?」
ホテルを案内する彼女は、子どものように目を輝かせている。
「もっと日当たりのいいお部屋もあるし、海が見えるお部屋もあるの」
私は小さく息を吐いた。
「……どのお部屋でも」
「そう?」
「ええ、本当に」
答えると、ヘンリエッタ様は少し考え込んだ。
「それじゃあ、このお部屋のままにしましょう。日当たりも良いし、お庭も見えるもの」
満足そうに頷く。
「……それから、お花屋さんには連絡してあるわ。先程、エヴァンスが」
部屋の隅で控えていたエヴァンスさんが静かに一礼した。
「ロビン様は高熱のため、しばらくお休みされますと」
「……え」
「五日ほど、お休みをいただいたわ」
ヘンリエッタ様が得意げに言う。
「そのくらいあれば、ゆっくり治せるでしょう?」
私はまた起き上がろうとして、ふらついた。
「勝手に……?」
自分でも驚くほど、弱々しい声が出た。
「だって必要でしょう?」
本当に不思議そうな顔だった。
「お願いだから、治るまでここにいて」
私が答えられずに目を逸らしていると、ヘンリエッタ様が、声のトーンを低くした。
「それに……街へ戻る時、その首輪を付けたままでは、困るでしょう?」
私は、彼女を見上げる。
「噂好きな方はいらっしゃるもの」
穏やかに微笑む。
「あらぬ疑いをかけられてしまうわ」
全部、分かっていて。
それでも、外さないつもりらしかった。
「元気になったら外して差し上げる」
布団を、肩までかけ直される。
「それまでは安心して休んで」
優しい声だった。
その優しさが、今は何より恐ろしい。
「だから、今は何も考えなくていいの」
ヘンリエッタ様は嬉しそうに続けた。
「体調が良くなったら、温室をご案内するわ。約束したチェス盤も、まだ見せていないでしょう? 私のかわいい魚たちにも、ぜひ会っていただきたいし……」
次々と予定を話していく。
まるで、泊まりに来た友人を歓迎する少女のようだった。
私は首元の銀へそっと触れる。
冷たい。
鍵はない。
帰れない。
……いや。
帰ろうと思えば、帰れる。
それでも、この姿で街へ出れば、何を言われるか分からない。
私は静かに目を閉じた。
「……少しだけ」
掠れた声で言う。
「少しだけ、休ませてください」
その一言だけで、ヘンリエッタ様の表情がぱっと明るくなった。
「ええ! もちろんよ!」
嬉しそうに頷く。
「ロビンが元気になるまで、このホテルで一番のおもてなしをするわ」
その笑顔は、どこまでも無邪気だった。
だからこそ、私の胸は、ひどくざわついていた。




