第十四話 眠り
声が聞こえる。
遠くで誰かが話している。
目を開けようとしたけれど、瞼がひどく重かった。
眠い。
ただ眠いだけではない。
テーブルに突っ伏した体が、そのまま沈んでいくような、不思議な感覚。
体を起こそうと腕を動かす。
もがくようにテーブルクロスを掴んで、そのまま崩れた。
反動で何か落としたらしく、足元で陶器の割れる音がした。
「……お嬢様」
エヴァンスさんの声だった。
いつもの落ち着いた声なのに、少しだけ苛立ちが混じっている。
「これは、どういうことですか」
「何のこと?」
ヘンリエッタ様の声。
穏やかだった。
いつもと変わらない。
「とぼけないでください」
短い沈黙。
人が近づいてくる気配。
背中に手を当て、軽く揺すられたのに、反応できない。
「……あのお茶ですね」
「ええ」
「眠り薬を入れましたね」
胸が小さく跳ねる。
眠り薬。
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
「ええ、ロビンは疲れていたもの」
ヘンリエッタ様は、あっさり認めた。
「平気よ、私も飲んだことがあるわ」
「だからといって……」
エヴァンスさんの声が低くなる。
「なぜ、本人に知らせず飲ませたのですか」
「知らせたら、飲まないでしょう?」
ヘンリエッタ様は言った。
「ロビンは優しい子だもの。自分より他人を優先する。だから、少し強引だけど、こうして休んでもらわないと」
「それを、あなたが選んでいい理由にはなりません」
エヴァンスさんが一蹴する。
そして、深い溜め息を吐いた。
「ヘンリエッタ様」
「なぁに?」
返事は穏やかだった。
まるで、何も間違ったことをしていないと思っているような声。
「昨日までの彼女は、あなたを恐れていたわけではありません」
エヴァンスさんが続ける。
「警戒はしていました。けれど……それでも、あなたを知ろうとしていた」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
昨日、窓辺で笑ったヘンリエッタ様。
水草を嬉しそうに眺めていた姿。
眠れない理由を、話してくれたこと。
ついさっきまで、全部本当だったはずなのに。
「少しずつ、信頼を築こうとしていたんです」
エヴァンスさんの声が震える。
「それなのに」
短い沈黙。
「どうしてあなたは、いつも最後の一線を越えてしまうのですか」
その言葉に、ヘンリエッタ様は少し黙った。
やがて、小さな声で答える。
「……一線? 私はただ、休んでもらいたかっただけよ」
ヘンリエッタ様は不思議そうに言った。
「ロビンは熱があったでしょう? だから、休むべきだったの」
あくまでも、穏やかな声。
だからこそ、背筋が寒くなった。
「でも、あの子はきっと聞かなかったわ。花屋のご夫婦にも止められたのに、それでもここへ来たのでしょうから」
見透かされている。
背筋が凍るようだった。
気配が、もう一つ近づいてくる。
その手が、テーブルに突っ伏したままの私の後頭部を撫でた。
「自分を後回しにする子なの」
ヘンリエッタ様の声は優しかった。
「傷があっても、大丈夫だと言う。熱があっても、仕事だからと言う。疲れていても、誰かに迷惑をかけたくないと言う」
名残惜しそうに、手が離れた。
「そんな子が、『休みなさい』と言うだけで素直に従うと、本気で思っているの?」
ヘンリエッタ様が、少しだけ語気を強めた。
「……だから、薬を?」
少しだけ怯んだように、エヴァンスさんの声が震えた。
その問いに、ヘンリエッタ様は答えない。
「本人の意思を奪って?」
エヴァンスさんが重ねて聞く。
「……奪ったというわけではないわ」
ヘンリエッタ様の声が初めて、少しだけ揺れた。
「眠ってもらっただけ」
「同じことです」
即座に返される。
「違うわ」
ヘンリエッタ様は小さく呟いた。
「違うの……」
その声は、子供のようだった。
「私は……」
少し間が空く。
「やっと、見つけたのよ」
何を?
そう聞きたかった。
けれど、声は出ない。
「……とにかく、もう無理をしてほしくなかった。守りたかったの」
ヘンリエッタ様が続ける。
「……嫌われてしまったかしら」
今にも泣き出しそうに、声が震えていた。
「私、一体どうしたら……」
エヴァンスさんは、しばらく何も言わなかった。
「ヘンリエッタ様」
やがて、エヴァンスさんが低い声で呟く。
「まずは、お尋ねになることです。目が覚めたら、真っ先に。私ではなく、ロビン様に」




