第十三話 名残
壁に掛けられた一枚の絵が、気になっていた。
荒れ狂う黒い海。 雷雲を裂くように飛ぶ白い鳥の群れ。
ありったけの絵の具をなすりつけたような荒々しい筆致。
そこへ浮かぶ、小さな孤島。 見覚えのないはずの風景なのに、なぜか目が離せなかった。
「……ロビン?」
声を掛けられて、はっとする。
目の前には、穏やかに微笑むヘンリエッタ様がいた。
にこやかに、水槽の手入れをしている。
「今のお話、聞いていらした?」
「……聞いていました」
そう答えたものの、最後に何を話していたのか思い出せない。
頭が、ぼんやりする。
熱は下がった。 そう思っていた。
けれど体の奥には、まだ熱の名残が燻っているようだった。
「疲れているの?」
優しい声だった。
「いえ……大丈夫です」
そう答えた瞬間、リフィカの顔が脳裏を過ぎる。
――その台詞は禁止。
朝、家を出る時も。
花屋の夫婦を含め3人がかりで止められた。
「今日は休みなさい」
「仕事は気にしなくていいから」
「ロビン、約束したでしょう」
それでも私は来てしまった。
依頼だから。
責任だから。
そう、自分に言い聞かせながら。
ルペストリス家から届いた便箋には、水草について相談したいとだけ書かれていた。
けれど今朝、花屋へ届けられた正式な伝票には、追加で数種類のハーブも用意してほしいと記されていた。
そのため私は、水草とハーブを籠へ詰めて、再びホテルを訪れていた。
「……ロビン?」
もう一度、名前を呼ばれる。
「その絵が、そんなに気に入りました?」
私は自分が水槽から体を背けて、壁の方を向いていたことに、ようやく気付いた。
慌てて体を水槽に向ける。
それだけの動きのはずなのに、ひどく体が重い。
「申し訳ありません」
私は頭を下げた。
「そうじゃないの」
ヘンリエッタ様が手を止めて、水槽から離れる。
こちらへ歩み寄ってきた。
私の両肩に彼女の手が触れた。
じっと顔を覗き込んでくる。
反射的に顔を背けると、彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「覚えているわ」
そして、懇願するように続ける。
「何もしないから、お顔を見せて」
そして、目の奥まで見透かすような眼差しが、しばらく続いた。
やがて、解放される。
「あの絵はよくない曰くがあるの。だから、魅入られてしまったのかと……」
肩から力が抜けると同時に、私は小さく息を吐いた。
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないわ」
ヘンリエッタ様は首を横に振る。
壁に掛けられた一枚の絵へ視線を向けた。
「その絵はね、このホテルへ流れ着いたものなの」
私も絵を見る。
「作者も分からない。ただ、あまり縁起がいいものではないと言われているの」
「そう、なんですか……」
なぜそんなものを飾っているのかは、聞かないことにした。
「ご覧になって分かるように、この絵はこの島を外から描いたものよ」
ヘンリエッタ様は、少し遠い目をした。
「不思議でしょう?」
私は頷く。
「この島を外から見た人間なんて、ほとんどいないはずなのに」
ヘンリエッタ様のその言葉に、私は何か引っかかっていた。
「ほとんど?」
「この島には歴史がありますから」
ヘンリエッタ様は、いつもの微笑みを浮かべていた。
「昔の話です」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
改めて、私の顔を見た。
「あなたがじっと見つめていたから、少し心配になってしまったわ」
変わらず穏やかな笑みを浮かべているのに、その瞳だけは私を観察しているようだった。
「ところで、先日お願いした水草、とても気に入ったの」
ヘンリエッタ様は水槽へ視線を向ける。
「今日は、そのお礼と……もうひとつお願いがあって」
彼女に促されてテーブルに着く。
テーブルの上には、小さな籠が置かれていた。 その中には、乾燥させた花や葉がいくつも並んでいる。
メイドの一人が、ヘンリエッタ様に何かを耳打ちされた。
すぐに籠を手にして、扉へ向けて歩き出す。
ヘンリエッタ様に、私に、それから部屋の出入り口付近に控えているエヴァンスさんに、それぞれ一礼して部屋を出た。
「お花屋さんは、上質なハーブも扱っていると聞いたわ」
ヘンリエッタ様が言った。
私は頷く。
「はい。量は多くありませんが」
「だから、よく眠れるような……安心できるようなものを、今回お願いしたの」
「……眠れないのですか?」
どちらでもいいことだけど、一応尋ねる。
ヘンリエッタ様は少しだけ目を伏せた。
「そんな日もあるわ」
「その時は、ぜひエヴァンスさんにも分けてあげてください」
私は、ヘンリエッタ様への皮肉を込めて呟いた。
視界の隅に見えるエヴァンスさんは微動だにしない。
「気苦労が、多いでしょうから」
ヘンリエッタ様は微笑んだ。
「ええ、覚えておくわ」
「……それにしても」
彼女の声色が少しだけ変わる。
「やっぱり、疲れているのね」
「え?」
「顔色が良くないわ」
私は前夜に発熱したことを話した。
「……もう下がりましたから」
「そうかしら?」
ヘンリエッタ様は席を離れ、私のすぐ真横まで歩み寄る。
「失礼するわね」
断る間もなく、ひんやりとしたその手が額へ触れた。
その冷たさに、小さく肩が震える。
「……少し熱い」
ヘンリエッタ様が呟く。
「気のせいです」
私は即答した。
「いいえ」
彼女はゆっくりと首を振る。
「熱が下がった人の顔じゃないもの」
そう言われると、自信がなくなる。
確かに体は重い。
少し動くだけで息が上がる。
座った方が、いくらか体は楽だった。
「……今日は、依頼がありますから」
私がそう言うと、ヘンリエッタ様は困ったように微笑んだ。
「それじゃあ、私のせいなのね」
それはそれは嬉しそうに笑った。
しばらく後、メイドの一人が、ティーセットを載せたワゴンとともに戻ってくる。
「作業の前に、お茶にしましょう」
ヘンリエッタ様が自分の席に戻った。
「お気遣いなく」
「気遣いではないわ」
彼女が、珍しくきっぱりと言った。
白い磁器のカップへ、淡い琥珀色のお茶が静かに注がれる。
甘く優しい香りが、部屋へ広がった。
「今日は、よく眠れるお茶にしたの」
そう言って、ヘンリエッタ様は微笑んだ。
「体を休ませることも、お仕事のうちでしょう?」
私のカップへ角砂糖をひとつ落とす。
その小さな音を聞きながら、私はふと尋ねた。
「ヘンリエッタ様は……眠れないことがあるんですよね?」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「ええ」
「理由を、伺っても……よろしいですか?」
口に出してから、自分でも驚いた。
私は、彼女のことを知ろうとしている。
ヘンリエッタ様の手が止まった。
彼女も同じことを思ったのかもしれない。
「……詮索するつもりはありません。ただ……より良いハーブを、ご提案できるかもしれないので」
私が言い終えても、しばらく、返事はなかった。
踏み込みすぎたのかもしれない。
しかし、彼女の口元に、薄く笑みが浮かんでいた。
「……夜な夜な、古傷が痛むの」
意外な答えだった。
ヘンリエッタ様が、痛みを抱えている。
その事実が、すぐには理解できなかった。
いつも穏やかで。 いつも優雅で。 何もかも完璧に見える人だったから。
「……どちらを、お怪我されたんですか?」
尋ねると、ヘンリエッタ様は再び目を伏せた。
「腰を。そのせいで、足まで痛みが……」
静かな返事だった。
「この島へ流れ着いた時に」
私は息を止めた。
クラッスラ島へ流れ着いた人間が、無傷でいられるはずがない。
荒い波で、岩礁に叩きつけられたらどんな大船だって砕けてしまうはずだ。
「それでも、今は……普通に歩いていらっしゃいますよね」
「ええ」
ヘンリエッタ様は微笑んだ。
「歩けるようにはなったわ」
その言葉に、少しだけ違和感を覚える。
まるで、本当は違う形だったような言い方だった。
「でも、長い時間歩くのは、得意ではないの」
彼女は自分の足元へ視線を落とした。
「痛みが出る日もあるわ」
その細い腕で、自らの足を撫でた。
「ひどい時には、日に何度も薬湯に浸からないと眠れないこともあるの」
「そんなに……」
私は絶句した。
「ええ」
ヘンリエッタ様は、困ったように笑った。
「体が冷えると、特に駄目なのよ」
そう言われて、ふと気付く。
点と点が繋がる。
この人が、いつもこのホテルの中にいるのはーー。
外へ出ない。
出られないのではなくて、出る必要がないように、この場所を整えているのだろう。
水槽も、ハーブも、部屋も、気まぐれに招く客人も。
おそらく全部、自分が孤独に苦しまなくても済むように。
「……おつらくは、ないのですか?」
思わず聞いていた。
「つらいわ」
ヘンリエッタ様は表情を変えなかった。
「とても、つらい」
あまりにもあっさり答えられて、逆に戸惑った。
「でも」
彼女は窓の外へ視線を向ける。
「つらいと言ったところで、傷が消えるわけではないでしょう?」
とても、他人ごとには思えなかった。
我慢して、諦めて、平気なふりをする。
誰にも心配をかけないように。
私も、ずっとそうしてきた。
「……ロビン?」
私は黙り込んでいたらしい。
気づけば、ヘンリエッタ様が、不安げに顔を覗き込んでいた。
「ごめんなさい。私、余計なことを聞いてしまって……」
「謝らないで」
ヘンリエッタ様は優しく笑った。
「あなたは、本当に優しいのね」
その言葉に、胸が少し苦しくなった。
優しいと言われるほど、自分が何か特別なことをしているとは思えなかった。
席を離れた、彼女は棚から小さな瓶を取り出した。
「私は時々、寝る前のホットミルクに入れるのよ」
透明な瓶の中には、淡い色の液体が揺れていた。
「体が温まって、安心するから」
「……エヴァンスさんにも?」
「いいえ。でも、本当は彼女にも飲んでほしいと思っているわ」
そう言って、ヘンリエッタ様は数滴、小瓶の中身をお茶へ落とした。
「ロビンも、今日はよく頑張ったでしょう?」
小瓶から落ちた雫が、お茶へ溶けていく。
「これは?」
「ただのハーブの濃縮液よ。香り付けみたいなもの」
ヘンリエッタ様は笑った。




