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失せ人の島  作者: 小鳥遊 愚香
第一章
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第十六話 アイスクリーム

 肩を優しく揺すられた。


 どれくらい眠っていたのだろう。

 重い瞼をゆっくり開けると、ヘンリエッタ様がほっとしたように笑った。


 私が眠るベッドの横で、彼女は上質な椅子に腰掛けている。 背中に厚めのクッションが挟まれているのが見えた。


「……ごめんなさい」

 ヘンリエッタ様は少し困ったように笑う。

「でも、目を覚ましたいかどうかは、尋ねられないでしょう?」


 私は、小さく頷いた。


「……もう少しだけ、眠っていてもいいですか?」

 少しだけ、意地悪をしたつもりだった。


「え……」

 ヘンリエッタ様が完全に固まった。

「そうよね。起こしてしまったものね……どうしましょう」


 そして、本気で考え込んでしまう。


「冗談です」

 見かねて声をかける。


 ヘンリエッタ様はきょとんとした。

「そうなの?」


 私は頷く。


「これが冗談なのね?」

 それから何かを咀嚼するように、口の中で小さく呟いていた。

「……覚えておくわ」


「そこまで汎用性はありません」

 私は言った。

「ところで、何かご用があったのでは?」


「ええ」


 ヘンリエッタ様は思い出したように、エヴァンスさんを呼んだ。


 すぐにエヴァンスさんがお盆を手にして現れる。

 手元には、ごく少量の粉薬とグラス一杯の水が載せられていた。


「お薬の時間なの」

 ヘンリエッタ様が言った。


「……薬」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ冷える。


「睡眠薬の効果が抜けましたので、解熱剤をお持ちしました」

 エヴァンスさんが静かに説明する。

「先ほどまでは、効能が干渉する可能性があり、お飲みいただけなかったものですから」


 私は薬を見つめた。


 あの眠り薬のせいで。

 結果的には、治療が遅れた。


 皮肉にも、今になってようやく薬を飲めるようになったのだと理解する。


「飲めるかしら?」

 ヘンリエッタ様が尋ねる。

「ホテルには常駐の医師もいるわ。もし飲みにくいなら、シロップ薬に変えてもらいましょう」


 私は顔を上げた。

「……シロップ?」


「ええ」

 ヘンリエッタ様は頷く。

「私はそうしてもらっているの」


 意外だった。

 この人にも、苦手なものがあるのだと思った。


「粉薬は、嫌いなのですか」

 尋ねると、ヘンリエッタ様は少しだけ目を伏せた。


「ええ。いつまでも苦味が残るでしょう?」

 その答えが妙に普通で、私は戸惑う。

「薬が好きな人なんて、きっといないでしょう? だから……ロビンも嫌かもしれないと思ったの」


 その言葉に、少しだけ心が揺れた。


 今、この人は。

 私がどう感じるかを考えた。


「……飲めます」

 私は答えた。

「粉薬で大丈夫です」


「本当に?」


「はい」


 ヘンリエッタ様は、ほっとしたように笑った。

「よかった」


 その笑顔を見て、少しだけ複雑になる。

 この人は、本当に私を心配している。


 それなのに。

 どうして、首輪のことだけは最初から尋ねなかったのだろう。



 エヴァンスさんから薬を受け取り、水で流し込むと、苦い味が口に残った。


 顔をしかめると、ヘンリエッタ様がすぐに気付いて、声をかけてくる。

「苦かった?」


「……少し」


「そう」

 彼女は真剣に考え込んでいる。


 嫌な予感がした。


「次からは、シロップに――」


「次がある前提なのですね?」

 思わず言うと、ヘンリエッタ様が瞬きをした。


「……そうね」

 小さく頷いた。

「ごめんなさい。よく効くはずよ。もう飲まずに済むといいわね」


 素直に謝られて、逆に困る。

「今のは、そういう意味では……」


「分かっているわ」

 ヘンリエッタ様は微笑んだ。

「でも、苦い薬は嫌よね」


「……子どもではありません」


「分かっているわ」

 再びそう言って、彼女は頷く。

「私も、痛み止めを飲む時は少し憂鬱になるもの」


「……ヘンリエッタ様も?」


 意外だった。

 彼女はいつも穏やかで、何でも完璧にこなしているように見える。


 ヘンリエッタ様は、自分の腰へほんの少し視線を落とした。


「長く付き合っている痛みがあるの。だから、薬が嫌になる気持ちは分かるわ」

 彼女はそう言って、私を見る。

「飲んでくれてありがとう」


「……お礼を言われることでは」


「いいえ」

 即答だった。


「ロビンが、自分のために選んで、飲んでくれたのだから」

 そして、ぱっと笑う。

「えらいわ」


 まるで子どもを褒めるような口調だった。

 少し恥ずかしい。


その言葉に、私は返事ができなかった。


 以前なら。

 きっとまた、勝手に決められていた。

 

 けれど今は、少なくとも彼女は尋ねている。


 ……首輪以外は。

 そう思って、私は首元へ触れた。


 冷たい銀。

 まだ外れない。


「恐れながら申し上げます」

 その仕草に気付いたのか、エヴァンスさんが静かに遮った。


 その声に、私は顔を上げる。


「鍵は、私どもが必ずご用意いたします」

 エヴァンスさんは深く頭を下げた。

「それまでは、責任を持ってお世話をいたします」


「似合っているのに」

 ヘンリエッタ様は少し寂しそうにしたけれど、すぐにたしなめられていた。


 少しの沈黙の後。


「あの」

 ヘンリエッタ様が、控えめに声をかけた。

「すぐにでも眠りたいとは思うけれど……もうひとつだけ、聞いてもいい?」


 私は少し驚いた。

「何でしょう」


「アイスクリームは、食べられる?」


「……アイスクリーム?」

 思わず聞き返す。


 ヘンリエッタ様は嬉しそうに頷いた。

「私は風邪をひくと、いつも食べるの」


「風邪の時に?」


「ええ」

 彼女は少し恥ずかしそうに笑った。

「熱があると、食事は楽しくないでしょう?」


 その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。


「でも、冷たくて甘いものなら、少しだけ幸せな気持ちになれるから」


 その横顔は、ホテルの主人ではなく。

 ただの一人の人間に見えた。


「ロビンは?」

 また、尋ねられる。

「食べたい?」


 私は答えるまでに少し時間がかかった。


 本当は眠りたい。

 これ以上関わって、その機会を逃したくはなかった。


 けれど。

 目の前のヘンリエッタ様は、私の答えを待っていた。


 それがまるで、生死を分ける決断であるかのように真剣な顔で。


 悪気はないのだ。


 気づけば、私は小さく笑っていた。

「……お言葉に甘えても、いいですか」


 ヘンリエッタ様の表情が明るくなる。

「もちろんよ」


 そして、すぐに付け加えた。

「ロビンが食べたいのなら」


 その言葉に、私はほんの少し笑った。

「……覚えたんですね」


「ええ」

 ヘンリエッタ様は胸を張る。

「ロビンに、尋ねること」


 エヴァンスさんが部屋の隅で静かに目を伏せた。

「まだ一日目ですので、油断は禁物ですが」


「エヴァンス」


「事実でございます」


 私は思わず小さく息を吐いた。


 こんな状況なのに。

 なぜか、少しだけ安らぎを感じ始めていた。


 ヘンリエッタ様は、改めてエヴァンスさんへ目を向けた。

「お願いしていたものを」


「かしこまりました」

 エヴァンスさんが一礼して部屋を出ていく。


 その背中を見送ったあと、ヘンリエッタ様は椅子から、ゆっくり立ち上がった。


 その瞬間だった。

 ほんの一瞬だけ、彼女の表情が歪んだ。


 けれど、苦痛を隠すように、すぐにいつもの微笑みに戻る。


「……ヘンリエッタ様?」

 思わず声をかける。


「え?」

 彼女は不思議そうに振り返った。


「今……」

 言いかけて、口を閉じる。


 私が聞けば、きっと彼女は答えるだろう。


 痛くない、大丈夫だと。

 いつかの私と同じように。


「……何でもありません」

 そう言うしかなかった。


 ヘンリエッタ様は少しだけ首を傾げる。

「そう?」


 そして、何事もなかったように微笑む。

「それでは、アイスクリームを食べましょう」


 まるで、それが何より大切なことのように。

 私は小さく息を吐いた。


 私達は、本当に、似ているのかもしれない。

 自分のことを後回しにするところだけは。

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