50トレットの町の騒乱(4)
ーー怖い。
私には、慣れ親しんだ感情だ。
自分でこんなことを言っていて恥ずかしくないのかと言われれば、当然恥ずかしい。
けれど、仕方ないじゃないか。
人の個性は千差万別。私の場合はたまたま『怖がり』という個性を持っていただけ。
そこを責めることに、少なくとも私は必要性を感じない。
それに……私だって、頑張って直そうとしている。
今となってはみんなのお母さんという立場にあるのだから、いつまでも臆していては子供達の手本となれない。
ま、まあ、私はまだ十五歳なのでお姉さんと捉えれば、多少の怖がりは許してもらえるかもしれないが。
でも……今回の『怖い』は次元が違う。
いや、今までの『怖い』が可愛らしすぎたのだろう。
私を含めた六人は、現在屋上で魔物と対峙している。
正確には、アリスちゃんとヤックが、だ。
魔物は凶暴なまでに鋭い牙の間から、まるで食材を見定めているときのような吐息を繰り返し吐く。
ああ、駄目だ。
あれは私達を食べ物としか見ていない。
あれにとっては、もう既に私達は皿の上なんだ。
逃げられない。絶対に逃がさないという意志を感じる。
それなのに。
それなのに、何故あなたたちは戦おうとするの?
中途半端な力で立ち向かっても意味なんてない。
死ぬのが早くなるだけなのに。
意味が、分からない。
#
「ト、トーヤ様………?」
来客のロット様が来たかと思えば、トーヤ様を見るなり背を向けて逃げ出してしまった。
トーヤ様がそれを追っていって、なにがなんだか分からない。
ロット様は少し前にこの町にやってきた治療師様で、ちょっとしたことで知己を得て何度かここを訪ねてきている。
特になにかするというわけでもなく、ふらっと現れてはお茶を飲んだり子供達と遊んでくれたりしているけど、トーヤ様と接点があったのだろうか。
あ、ちなみにロット様くらいの歳ならば私も普通の対応ができる。
同年代か、それより少し高いくらいだと駄目なのだ。
これは好き嫌いというよりも生理反応みたいなもので、意識して抗うことができない。
唯一例外なのは、今はもうそれぞれ働きに出てしまった孤児院の同期達くらいだ。
でも、最近はトーヤ様のおかげで少しずつ直ってきている……かもしれない。
私が怖がらない範囲で積極的に話しかけてくれて、会話の端々にも気遣いが感じられる。
今までの殿方は、疎ましく思うか嫌らしい目で見るだけのどちらかだったので、何だか新鮮な気分だ。
まあ、それでもトーヤ様と出会ってからというもの、あの方以外の若い殿方と話したことはない。
なので、単純にトーヤ様に慣れてしまっただけかもしれない。
そう思うと、急に恥ずかしくなってきて……。
「ルーシアだいじょうぶ? かおがあかいよ?」
「いっ、いや! な、なんでもないから、気にしないで!」
危ない。あまりぼうっとしているとこの思考にたどり着いてしまう。
気をつけなければ。(このとき私は、エマからのニヤついた視線に気付かなかった)
そんなことを考えていると、突然婆さまから声が上がった。
「皆、今すぐどこかに隠れるんじゃ! 早くせい!」
緊迫感が含まれたその口調からは、冗談という気配が感じられなかった。
いや、そもそも婆さまはこんな冗談を言う人ではない。
本当になにか危険なことが起こるのだ……!
真意を問うため、私は婆さまに詰め寄った。
「どういうことで……」
ーーキャアアアアア!!
そのとき、遠くから悲鳴が上がった。
あまりにも不吉なタイミングで、思わず青ざめてしまう。
そして……。
「グオオオオオオオ!!」
今度はとても近く。玄関から顔を出せば遠吠えの主とすぐそこで遭遇してしまいそうな距離から、おそらく……魔物と思われる存在を全員が認識した。
「なん……で」
ありえない。
ここは町の中だ。
人間の支配する領域だ。
魔物が立ち入ることのできる場所ではない。
何故? 今朝からの魔物の侵攻が原因? 冒険者達は負けてしまったの?
じゃあ……じゃあ、この町は、この孤児院はどうなってしまうの?
ああ、怖い。とても怖い。
必死に思考しようとする脳を恐怖が塗りつぶす。
生物の持つ原初の感情、『死』という明確な形を持った恐怖が、一足飛びで駆けてくる。
なにもこんなに急に来なくてもいいじゃないか。
せめて……せめてあの方が、トーヤ様がいてくれるときでも。
あぁ、あぁぁ…………怖い。
怖い、怖い、怖い!
「くっ、好機を謀っておったか……早くせい! 死んでしまうぞ!」
『死んでしまうぞ!』その言葉によって、私の意識は現実に引き戻された。
そ、そうだ。早く逃げないと。
無理矢理にでも冷静な判断力を得る必要があるため、震える体で呼吸を繰り返す。
やがて深呼吸となっていき、ひとまず状況を整理するだけの思考力は取り戻せた。
そうだ。なにも今から一秒二秒後に魔物が攻め入ってくるわけじゃない。
まだ行動を起こす時間はある。
何よりも優先すべきなのは何だ?
隣を見れば、答えは見つかる。
混乱によって怯えた挙動をする、子供達。
私には、責任がある。
まずはこの子達を安全な場所へ。
……なんだ、ちゃんと考えられるじゃないか。
トーヤ様の言っていた通りだ。『焦ったときは一度深呼吸してみれば、なんとかはならずとも大体の場合、状況が悪くなることはありませんよ』って、ついこの間言われたばかりだった。
「みんな、落ち着いて! すぐにトーヤ様が来てくれるから、それまで隠れて待っていて!」
勝手に期待を押し付けてしまったけど、許してくれると信じよう。
そうでもしないと、押し潰されてしまいそうだ。
建物中に散らばっている子供達を集めて部屋に避難させる。
急いでこれを完遂しなければ。
まずはその場の子供達を大広間に押し込み、次の子を探すために走った。
精神の奥底から這い上がってくるような恐怖を紛らわすように、無我夢中で走ることだけに集中する。
「わたしも………いき……ます」
その声に振り返ると、アリスちゃんが私を追ってきていた。
確かに避難誘導は一人より二人の方がやりやすい。
でも、アリスちゃんだって子供だ。
既に冒険者登録をしていて、大人びていたとしても、やはりまだ子供なのだ。
危険なことをさせるわけにはいかない。
「駄目。アリスちゃんもみんなと一緒に隠れていて」
「………でも……」
「でもじゃなくて……」
ーードゴッ!
強い口調で説得しようとしたとき、玄関の扉の方から鈍い音が響いた。
「………魔物!」
ついにやってきてしまった。
どうしよう、こんなに早く来るなんて……。
まだ子供達の避難が終わっていないのに。
急、急がな、きゃ……。
深呼吸、深呼吸を。
「はぁっ、はっ……、はぁ、はっ………!」
ぎゅっ。
ふと、手に温かみを感じて、視線を向ける。
すると、私の手は小さな手に優しく握られていた。
「………!」
アリスちゃんの顔を見る。
彼女は、しっかりと私を見据えて、意志のこもった目をしていた。
その黒の瞳を覗けば、恐怖と焦燥によって歪んだ表情をした私が映っていた。
二つの表情を対比して、我に返る。
そうだ、落ち着かないと。
今は怖がっている暇なんてない。
思考を止めちゃ駄目だ。
「いきま………しょう」
「……うん。急ぎましょう」
私に勇気をくれた小さな手を握りしめ、再び走りだした。
「ヤック! ビル! トナ! レト!」
ほとんどの子の避難誘導を終え、私達は未だ見つからない四人を必死に探し回っていた。
魔物が玄関の扉に突進する頻度はどんどん多くなっている。
それなりに頑丈にできているあの扉だが、流石にもう間もなく壊れてしまうだろう。
ーー焦りが募る。
「はあっ……あとは、三階の奥だけね」
「もし……かして………」
建物の隅々まで探索して、行っていないところは今走っている廊下の最奥だけとなった。
けれど、アリスちゃんはなにか懸念があるようだ。
「どうしたの?」
「屋上……かもしれません………」
「屋上……? あ、秘密の道!」
私も小さな頃使ったことがある、三階端の抜け穴だ。
今から行こうとしている場所を考えれば、不自然ではない。
そして案の定、予想は当たっていた。
秘密の道がある壁に、はしごが立てかけてあったのだ。
はしごがあるということは、誰かが屋上にいるということ。
そしてその誰かとは、ヤック達に他ならない。
ーードゴオオオオン!
建物全体が激しい揺れに襲われる。
ちょうど、扉が破壊されてしまったようだ。
とにかく急がないと。
アリスちゃんと顔を見合わせて、頷く。
二人ではしごを上っていった。
穴はかなり小さかったが、小柄な私ならば何とかくぐることができた。
落ちないように慎重に屋上の端に立ち、広々とした平面が続く屋上を見回す。
すると、中心あたりで三つの……いや、よく見れば四つの人影が見えた。
ヤック、ビル、トナ、そして赤ん坊であるレトだ。
トナがレトを抱いて、それをヤックとビルの二人が引っ張っているように見える。
慌てているようなので、魔物の襲撃に気づいて避難しようとしているのかもしれない。
表情が明るくなり、呼び掛ける。
「みんな! 早く降りてきて!」
「ルーシア、アリス! うん、すぐいく!」
レトに負担をかけないようにしながら、三人は走り寄ってくる。
小さい子を気遣う気持ちは素晴らしいのだが、状況が状況だけにじれったい。
こちらからも近づいて、トナからレトを受け取ろうとしたとき、何故かビルが立ち止まってしまった。
「どうしたの!? ビル!」
「あ……ああ………」
ビルは青ざめて立ち尽くすだけだ。
今は一刻を争うというのに……!
「おい、ビル! どうしたんだよ!」
「ま………ま、も……」
「まも?」
そのとき、背後から空気を切り裂く音が聞こえた。
反射的に振り向こうとするも、音は一瞬の間に膨れ上がって……。
横から衝撃を受け、私は倒れた。
何が起こったのか一瞬分からなかった。
眩暈のする眼球の焦点を合わせながら、振り返る。
すると、倒れた私の背中にさらに覆いかぶさっているアリスちゃんが見えた。
「な、何を……」
「危な……かった………」
未だ混乱する頭を持ち上げる。
周囲の様子を確認しようとして……。
そして、私は後悔した。
視線の先、屋上の中心部分に鎮座しているのは、魔物だったのだ。
それは、一見すると獅子のような容貌。
しかし、その巨躯の至る所があまりにも異形であった。
獰猛に牙を見せつける獅子の頭部には山羊の捻れた角が生えており、さらに胴体へと続く山羊の特徴を持ち、奇っ怪な全身に不釣り合いな白い羽を広げていた。
極めつけに、尻尾は何匹もの毒蛇へと成り代わっていて、生命を冒涜するかのようなそれはまさに怪物というに相応しい生物だった。
さっき、私の頭上を通ったのはこの魔物なのだろうか。
だとしたら、あと数センチズレていたら確実に私は死んでいたじゃないか。
アリスちゃんが咄嗟に守ってくれなかったら、身体をバラバラに引き裂かれて一瞬のうちに私の魂は冥界へ旅立っていたことだろう。
ああ、それもよかったかもしれない。
こうして精神の奥底、私自身の根源から沸き上がってくるような恐怖を感じるのと、何も感じず楽に死ぬのと、どちらが良いだろうか。
そう考えられるほどに、私……ルーシアという存在はこの異形の怪物に畏怖していた。
怪物は羽を羽ばたかせ、音も立てずに着地した。
私は瞬きすることさえままならない。
脱力しながら硬直するという、ここにきて普通ではできない芸当を無意識の内にこなしてしまっていた。
「グルル……」
舌なめずりするような鳴き声を聞いて恐怖が振り切ったのか、逆に視野が広がる。
すると、ゆっくりと立ち上がって震えながら怪物の方へ向かっていくアリスちゃんが見えた。
「あぁ……だ………」
駄目! そう叫ぼうとするも声は喉で止まり、アリスちゃんの無謀な歩みは続いた。
それ以上はいけない。そんなに近づいてしまうと、あれに食べられてしまう。
いくらあなたが冒険者だからといって、あそこまで大きな魔物を倒せるわけがない。
だから、今は、お願いだから、今は待って……!
そ、そうだ! 待てば、トーヤ様を待てばいつか、救ってくれる!
それまで、あの怪物を刺激しないように……。
「………やぁ!」
そんな私の希望を打ち砕くかのように、アリスちゃんは怪物に突進していく。
その手には短剣。それを確認してようやく彼女が怪物と戦おうとしていることに気づいた。
ああ、あぁ………。
何故。なんで………!
「きゃっ!!」
あと数歩で届く距離まで近づいた瞬間、怪物の毒蛇の尻尾が高速でアリスちゃんを打ち付ける。
彼女は数メートル吹き飛ばされ、地面を背に倒れた。
遊ばれてる……。本当なら私達なんてすぐに殺せるハズなのに、いたぶって、弄んでいるんだ。
ほら……やっぱり、敵うわけが……。
「もう……やめ…………」
「アリス!!」
その光景をみたヤックが飛び出し、アリスちゃんに駆け寄った。
「だ、大丈夫!?」
「へい……き……です」
口ではそう言うが、その表情は色を失い、全身が震えている。
しかし、アリスちゃんは立ち上がろうとする。
ヤックはそれを止めようとするも、一瞬硬直して強く目をつぶったあと立ち上がったアリスちゃんと共に怪物に相対した。
………え?
な、何をしているの?
まさか、あれに刃向かおうと……?
いや、何故……?
戦うどころか、私達の力では傷一つつけることはできないのに。
意味が、分からない。
「あ、ああああぁぁぁああ!」
二人は果敢に挑んでいった。
それが無駄だと、分かっているのに。
怪物はそれを、楽しそうに見ている。
そして、向かってくる度に尻尾での攻撃を浴びせ、残酷な状況をより深めていく。
私はそれを、涙を流しながら見ていることしかできなかった。
何度目かの突進で尻尾がヤックの頭に当たる……直前!
「ガウ?」
尻尾がなにかに弾かれた。
怪物も含めた全員が困惑している。
振り返ると、そこには荒い呼吸で手を前に突き出しているトナがいた。
「はぁ……はぁ……まけ………ないから!」
今のは、トナの風の魔法だったようだ。
それに気づいた怪物はさらに歪んだ笑みを深める。
あなたまで……どうして………。
絶望的な状況に中で、それでも三人は立ち向かう。
私は未だ指一本さえ動かせない。
ときおりアリスちゃんの短剣が尻尾を傷つける。
それに加え、トナの魔法も全く効果がないというわけではないらしく、怪物はできるだけ避けようとしている。
しかし、ヤックの突進は意味を為さず、遊ばれているという事実に変わりはない。
ただ、足掻いているだけだ。
「ルーシア、レトをおねがいします」
そんな様子に感化されたのか、ビルが腕に抱いたレトを渡しながら言う。
「だ……め………っ駄目! 行かないで、もう、これ以上………!」
私の言葉を最後まで聞かず、ビルは走り出してしまう。
「たあぁぁ!」
もう、見ていられない。
亡骸となった子供達を見るくらいならば、もういっそこのまま眠ってしまおうか……。
そう考えたときだった。
ビルは拳を振り上げ怪物に迫るも、その速度も勢いも気迫も、何もかも足りなかった。
そのせいで、怪物はビルから興味を失った。
ゴミをはじき飛ばす程度の認識で怪物は尻尾を薙いだ。
後方に吹き飛ぶビル。
今まではそこで終わっていた。
はじき飛ばすだけで怪物は追撃をしてこなかったのだ。
しかし、ビルの場合は違った。
既に興味を失い、価値のない存在に格下げされたビルは、腹部を毒蛇の尻尾で貫かれようとしている。
その光景が、どんどん近づいてきている。
私の目に映る倒れたビルの姿が、大きくなって……。
いや、違う。
私が近づいているんだ。
いつの間にか私は、レトを置いて飛び出していた。
さっきまで、震えていた私が。
視野が極端に狭まるのが分かる。
頭が高速回転して、私とビルとの間の最短ルートを計算している。
全ては無意識のうちに行われ、それは実を結んだ。
見事私の手はビルに届き、その体をずらした。
でも、残念なことに、尻尾は私の横腹を貫いていた。
ほぼ同時に、口内に血の味が広がる。
ああ、これは死ぬかもしれない。
なんで飛び出したりしたんだろう。
……決まってる。ビルが大事だったからだ。
私の大切な、大切な家族を救えて、私は満足だ。
なんだかんだ言って結局自分の命を優先すると思っていた私は、それが意外だった。
もしかしたら、それこそが私の一番深いところにある本当の望み、家族を守りたいという私の心からの願いなのかもしれない。
じゃなきゃ、こんな冷静な思考はしていないだろう。
「ルーシ、ア……? ルーシア!」
「「ルーシア(さん)!!」」
割と清々しい気持ちに浸って、私を呼ぶ声を聞いていると、怪物が私から視線を逸らしたのに気づいた。
そしてあの憎々しい笑みを深める。
その視線の先には、地面に置いてけぼりにされたレトがいた。
「ーーレトォォォオオ!!」
意識を急激に浮上させ、自分の体の状態など気にも留めずに声の限り叫ぶ。
ああ、ああ、死んでしまう。私が、放り出したから、ちゃんと預からなかったから、ああいや、元はといえばこんなところにレトを連れて来るのを許していたのが悪い。
私が悪かった。全部私が悪かったから、やめて、やめて! 許して! その子を殺さないで!!
突然走り出した怪物は、巨体からは予想しようもないようなありえない速度でレトへと迫っていく。
朦朧とした意識の中、こま送りで展開される虐殺の瞬間を垣間見る。
抵抗もできない赤ん坊の首に、鋭く尖った爪と牙が、死の香りを放ちながら、突き立て……られ………。
…………………
…………
……
ーードゴオオオオオ!!
その震動を感じたのは、私が全てを諦めた次の瞬間だった。
たった一つ。私が正気を失わずにいられた、たった一つの要因。
このときの私の表情は、救いに対する笑顔でも、泣き顔でもなく、ただただほっと安堵した表情だった。
既にグチャグチャになっていた精神が導き出した感情は、安堵だったのだ。
もう疲れてしまった、早く休ませてくれと安堵することで私自身に伝えているのだろう。
ああ、確かにそれがいい。
床を突き破って、ついでに怪物を高く跳ね上げて現れた我が孤児院の居候を見て、私は自然と浮かんだ名案に従って長い息を吐いたのだった。




