51、トレットの町の騒乱(5)
「ああ本当に、なにが『正解だった』だよ。どう見ても致命的な判断ミスじゃないか。全く、迂闊すぎる」
床……いや、ここは屋上なので屋根の破壊と共に現れたトーヤ様は、レトを拾って薄らと笑みを浮かべ、こちらへ歩み寄ってくる。
「ご主人さま………!」
「トーヤ!」
「無事で良かった、と言いたかったんだけどね。これはちょっと、そういうわけには行かなさそうだよ」
涙ながらにトーヤ様の名を呼ぶ子供達に微笑みかけ、次いで私の傷口を見る。
「ぁの………ぐふっ」
「喋らなくてもいいですよ。ちゃんと治りますから」
声の代わりに血を吐き出した私の顔を、ひどく優しげな表情で覗き込む。
心臓が跳ねるように動揺し、体温も上がってしまったせいで痛みも和らいだので、それは効果的だと言っていいだろう。もっとやって欲しい。
「スペリオルヒール」
トーヤ様が傷口に手を翳しそう唱えると、緑がかった燐光が発生する。
私はこれを見たことがある。シェリーが病気のときにトーヤ様が使った魔法だ。
そのときの記憶からこれは回復魔法だと推測する。それもかなり上位の。
予想通り、燐光に触れた部分はみるみるうちに回復していき、痛みも引いていった。
私も祈祷術で回復魔法の真似事ができるが、こんなに常識を超えた治療は到底できない。
淡い光の美しさに見とれると同時に、魔法とそれを扱うトーヤ様の力を実感する。
見れば、真剣な表情で魔法を使い続けるトーヤ様の額からは、大粒の汗が滲んでいる。
相当な集中力を必要とするのだろう。
アリスちゃんがそれを拭い、トーヤ様はより集中を深める。
さらに奥を見ると、さっきの怪物がトーヤ様の背後から連続発射される炎と氷の魔法に翻弄されていて、ってぇぇぇええええ!?
え、待って、トーヤ様はこれだけの高位の回復魔法を使いながら背後にいる敵を魔法で圧倒しているということ? あとトーヤ様火属性魔法も使えたんだ。
あ、ありえない。想像を絶する光景に思わず息をのむ。
怪我のせいで大声を上げることはできなかったが、もしできていればご近所三軒にまで響き渡るような驚愕の叫びが上げられたことだろう。
一体どれほどの実力があればこんなことができるのだろう。
あまり魔法には詳しくないが、並大抵のことではないということは分かる。
魔法の同時詠唱以前に、姿を見ることさえ必要とせずに魔法を命中させているのは少なくとも普通ではない。
怒涛の勢いで、しかも百発百中なので怪物が少し哀れに見えてくるほどだ。
改めて、この方の凄まじさが認識できた。
「………っふう。今はこれが限界ですね。下手に傷痕を残すと治らなくなってしまうので、このままよく消毒して、包帯を巻くなどの処置をしてください。大丈夫です、絶対に治りますよ」
「あ、ありがとうございます…」
そう言ってトーヤ様は立ち上がる。
危機的状況ということも相まってか、その動きはとてもゆっくりとしたものに感じられた。
「さて、ふーん、キマイラね。かなり強め、それならこの惨状も頷ける。まあ、元はといえば俺の判断ミスが招いた結果なんだけど……ねえ、君にも責任があると思わないかな? 伝わりにくいかもしれないけど俺結構怒ってるよ? ただ殺すだけじゃ足りないかもだね。いや、本当に」
「グルル……」
魔法の嵐から解放され、トーヤ様を怯えた目つきで警戒する怪物、あれはどうやらキマイラと言うらしい。
危険な魔物として何度か婆さまから聞いた名前だけれど……何故だろう、今となっては全く怖くない。
一人増えただけでこんなにも変わるものなのだろうか。
いや、本当は分かっている。
トーヤ様だからこそ、なのだろう。
この果てしないほどの安心感は、トーヤ様の持つ絶対的な精神の安定からくるものだと、一瞬のうちに理解した。
あの方は、とにかくブレない。巨大な魔物と対峙しているのに、さも何でもないかのように振る舞うその背中に、ああもう大丈夫なんだと根拠のない安心を得ることができる。
心の強さとしては、すでに並ぶ者のいない境地に至っているのかもしれない。
「グルル………ウォォン!」
睨み合いにしびれを切らしたキマイラが毒蛇の尻尾を差し向ける。
風を斬りながら迫るいくつもの牙。
剣を持った腕をだらんと垂らして一向に構える気配のないトーヤ様に、動きは見られない。
キマイラはそれを不気味がり、表情をより険しくしていく。
力を入れて足を踏み込み、尻尾の速度を上げた。
無数の毒蛇が急接近する。
大口を開け、かぶりつく。刹那……!
……全ての毒蛇の頭が、ズレた。
「え?」
尻尾の断面から血が吹き出したのは、頭がぽとりと落ちたその数秒後だった。
まるで忘れていた呼吸を再開するかのように。
そしてそれは、私達も同じだった。
一瞬、どころか数秒なにが起きたか分からず固まっていたのだ。
頭が落ちたのが思考再開の合図となった。
いや、分かる。トーヤ様が剣で毒蛇の尻尾を切り落としたのだということは、かろうじて分かった。
けれど、そこに至るまでの一瞬が分からない。
切り口の様子から見るに、目にも止まらぬ速さで剣を振るったんだろうか。
不可視の攻撃を仕掛けたというよりかはまだ信じやすいが、それでもまだありえない理屈だった。
「すげえ……」
「み、みえなかった」
次に仕掛けるのはトーヤ様。
尻尾を切られた痛みでうめき声を上げているキマイラに走って接近する。
その手に持つ剣により、キマイラの腕を、脚を、胴体を、目を、華麗なる剣さばきで斬りつける。
は、迫力がありすぎてついていけない……。
私は争いとは無縁の人生を送ってきたため、戦闘というものを見たのは今回か初めてなのだが冒険者と魔物との戦いはこうも凄まじく現実離れしたものなのだろうか。
キマイラの方は力任せに爪や牙を振るっているようだが、かわされ、いなされで命中はしていない様子だ。
追い詰められたキマイラは大きく後退する。
「グオガアアアアアア!!」
「「うっ………」」
満身創痍のキマイラがとった行動は、鼓膜を突き破るような凶悪な咆哮だった。
思わず目と耳を塞いでしまう。
トーヤ様が怯んだところで逃げるつもりなのだろうか。
耳の痺れがとれ、ゆっくりと目を開けると、そこにトーヤ様の姿は見えず……代わりにこちらに背を向け逃走の準備をしているキマイラが。
「うるさいよ」
そしてその巨体は上空からの氷の連弾によって地面に縫い付けられることとなる。
「グウゥガアァァア!」
「ファイアボー……」
キマイラ目掛け落下するトーヤ様は、さらに炎の魔法を展開している。
キマイラの動きを封じるような強力な氷の魔法は、若干大きさが通常のものより大きく見える。
よく見ると、先端が鋭利に尖っているのでトーヤ様なりのアレンジなのかもしれない。
とすれば、あの炎もとどめに相応しいものとなっているハズだ。
「グルルァァ!」
「…………」
しかし、それはキマイラの必死の抵抗によって霧散してしまう。
ちぎれた尻尾をブンブンと振り回したのだ。
仕方なしといった表情でトーヤ様は手前の地面に着地する。
直後、その目を見開いた。
私も釣られて視線を追うと、キマイラが地面に牙を突き立てるところだった。
どう見ても渾身の力が篭められており、絶体絶命の状況で知恵を振り絞った結果導き出した最後の抵抗と言える攻撃だった。
建物の一角を壊したところで特段意味はない。強いて言えば、修理の際に余計なお金がかかるという点だろうか。
そう、意味はないのだ。
キマイラもそれが分かっているだろうし、今更生き延びることはできないと悟っているだろう。
それでも、嫌がらせくらいはしたかったのだ。
私はキマイラのその行動が、魔物の命が燃え尽きる最後の輝きに見えた。
そこから湧き出た感情は、冷たい哀れみだ。
その無駄な足掻きは、結局本当に無駄になるのだと、感情の篭っていない感情を私の中に認識した。
自分でもこんなに薄暗い反応に驚く。
しかし、トーヤ様も似たような感想を持ったようで……。
「はあ……。ファイアバレット、アイスバレット」
橙色と銀色が混ざり合い、傷だらけのキマイラへと次々に突き刺さる。
特に頭部へ多く命中したため、屋上の床が壊されることはなかった。
……トーヤ様が壊した部分以外は。
「グ……ガ……!」
「じゃあね。魔力撃」
ドゴオオオッ! という爽快な轟音と共に、キマイラはトーヤ様の拳によって吹き飛んでいった。
射線上の家を何軒も破壊しながら……という私の予想を裏切り、キマイラの巨体は二、三回建物の屋根をかすっただけで町の噴水広場に着地した。
……こうなるように調整して吹き飛ばしたのだろうか。
いや、偶然こんなにも綺麗に飛ぶことは絶対ないだろうし、まあそういうことなのだろう。
凄まじい。この一言に尽きる。
こんな状況ならば、多少の被害なんて頭から抜け落ちてもいいハズだ。
それなのに、平然とこんな芸当をやってのける。
異常な程に正常。
狂気を感じる程の正気。
この方の奥底は、深い闇のように覗ききることができない。
その本質を理解することができるとすればそれは、今トーヤ様を敬意の篭った目で見ている、あのーー。
「ふう、とりあえず一段落といったところかな。まだ町には魔物が残っているようだけど、うーん、どうするべきか」
こちらを振り返ったトーヤ様と目が合い、途端にふっと全身から力が抜けきってしまった。
今まで気を張り詰めていたせいで、その反動が来たのだ。
ただでさえ怪我をしているのに、無理して戦闘なんか見たからだ。
「はふぅ……」
「ルーシア!」
「ルーシアさん……!」
「しっかりして!」
「大丈夫ですか? あー、動けなさそうですよね。仕方ないので……」
そう言ってトーヤ様は私の前に腰をおろす。
こ、これは!
疲れきって動けない私、そんな私を運ぼうとするトーヤ様。
これは、全ての女の子の憧れの、お、おひ……。
「背負いましょう」
「あ、はい、お願いします」




