毒は魔法を待っていた
研究院から消えた一瓶の《魔脈触媒》。
エルドの死と薬品の関係が明らかになる一方、最も疑わしい人物が浮かび上がります。
「触らないで」
セラの声が、地下保管庫に響いた。
《魔脈触媒》の棚へ伸ばしかけていたイリスの手が止まる。
「でも、もう一度数えれば――」
「数えるのはこっちでやる」
「私が管理担当です」
「だからよ」
セラはそう言って、近くにいた警備隊員を呼んだ。
棚の前に封鎖用の細い鎖が張られる。
十一本。
帳簿上は十二本。
一本足りない。
アレンは少し離れた場所から、細長い透明瓶を眺めていた。
中身は薄い銀色。
水よりわずかに粘り気があるように見える。
「これ、何に使うんですか」
アレンが聞くと、イリスは苛立った顔を向けた。
「魔脈触媒も知らないの?」
「遺品整理官なので」
「……そうだった」
イリスは額に手を当てた。
セラが言う。
「説明して」
「魔力の流れを一時的に増幅させる試薬です」
「増幅?」
「術式の効率を調べたり、魔導具の耐久試験をしたりするときに使います。普通は魔石に数滴垂らすだけ」
アレンは瓶を見る。
「人間に使うものではない?」
イリスの表情が変わった。
「当たり前でしょう」
「飲んだら?」
今度は答えなかった。
セラが横を見る。
「フェーンさん」
「……飲むだけなら、すぐ死ぬようなものじゃありません」
「すぐ、というのは?」
「量にもよります」
イリスは腕を組んだ。
「少量なら、吐き気とか、眩暈とか。その程度で済むこともあります」
「では、大量なら?」
「魔力を持つ人間なら危険です」
「具体的に」
「体内の魔脈に触媒が回った状態で魔法を使えば、流れる魔力量が必要以上に増幅される可能性があります」
アレンは眉を寄せた。
「自分で止められなくなる?」
「そう」
イリスが短く答える。
「火をつける程度のつもりでも、体の中では大規模術式を使ったみたいな負荷がかかることがある」
セラが棚を見る。
「魔力暴走」
地下室が静かになった。
イリスの顔から、残っていた苛立ちが消えた。
「……まさか」
セラは何も答えない。
代わりに隊員へ命じる。
「ここの全在庫を確認。出庫記録、使用記録、廃棄記録も全部。昨日だけじゃなく一か月分」
「了解しました」
「それからバーレン邸に連絡。書斎のカップと茶葉を優先して検査して」
隊員が走っていく。
イリスはその背中を見送った。
「待ってください」
「何?」
「それ、本気で言ってるんですか」
セラが振り返る。
「何を?」
「エルド先生が、魔脈触媒で殺されたって」
「まだ誰もそう言ってない」
「でも調べてるじゃないですか」
「疑う理由ができたから調べる。それだけ」
イリスの視線がアレンへ向いた。
「あなたのせい?」
「何がですか」
「あの遺書」
アレンは答えなかった。
イリスが一歩近づく。
「本物じゃないって言ったんでしょう」
「本物じゃないとは言ってません」
「同じでしょう」
「違います」
「何が」
「僕が言ったのは、本人が扱ったものとしては残留魔力が薄すぎるということだけです」
「……面倒くさい言い方」
「よく言われます」
横でセラが小さく息を吐いた。
「二人とも、口論するなら外でやって」
イリスは舌打ちこそしなかったが、しそうな顔で黙った。
アレンはもう一度、空いた棚の一か所を見る。
魔脈触媒。
一本。
それがエルドの死に使われたとは、まだ決まっていない。
けれど。
遺書。
消えた研究帳。
消えた薬品。
三つの不自然が、同じ死の周りに集まり始めていた。
翌朝。
アレンは王都遺品整理局の事務室で、古い木箱の中身を仕分けていた。
依頼人は、南区で一人暮らしをしていた七十八歳の男性。
衣服。
銀貨。
手紙。
壊れた眼鏡。
使いかけの石鹸。
安物の木彫りの鳥。
事件とは何の関係もない。
こちらのほうが本来の仕事だった。
「クロウ」
呼ばれて顔を上げる。
局長代理の男が、事務室の入口に立っている。
「警備隊から呼び出しだ」
「僕を?」
「他にクロウがいるなら、そいつを行かせてもいいぞ」
アレンは室内を見回した。
誰も反応しない。
「いませんね」
「なら行け」
アレンは木彫りの鳥を箱へ戻した。
「この件、午後までに終わらせます」
「警備隊に言え」
「怒ってます?」
「忙しいだけだ」
「同じ顔ですね」
「早く行け」
追い出された。
王都警備隊本部へ着くと、セラは地下の検査室にいた。
白い机の上に、見覚えのある陶器のカップが置かれている。
エルドの書斎にあったものだ。
隣には小さな茶葉缶。
さらに細い試験管が三本。
「早かったわね」
「追い出されたので」
「職場から?」
「はい」
「あなた、普段から何かやってる?」
「普通に働いてます」
「そう」
全く信じていない声だった。
部屋には、灰色の作業着を着た初老の男もいた。
検査官らしい。
男が一枚の紙をセラへ渡す。
「二度やった。結果は同じだ」
セラが目を通す。
「カップから?」
「出てる」
アレンを見る。
セラは紙を机へ置いた。
「《魔脈触媒》の反応が出た」
アレンはカップを見る。
「どのくらい?」
「微量」
検査官が答えた。
「けど、偶然付着したで片づける量じゃない」
「茶葉は?」
「そっちはまだ調べてる」
「遺体からも?」
セラが聞く。
検査官は別の紙を持ち上げた。
「そっちも陽性だ」
アレンは黙った。
エルドの体内に魔脈触媒があった。
死因は魔力暴走。
それだけなら、まだ偶然の可能性は残る。
研究者だった。
仕事上、薬品に触れることもある。
けれど。
「口から入った可能性は?」
アレンが聞く。
検査官が頷く。
「高い。胃内容物から一番強く出ている」
セラの視線がカップへ向く。
「お茶ね」
「たぶんな」
「触ってもいいですか」
アレンが聞いた。
検査官が眉を寄せる。
「何のために」
「確認したいことがあります」
セラが説明する。
「残留魔力を見るそうよ」
「見る?」
「本人曰く」
「感じる、です」
「どっちでもいい」
検査官はしばらくアレンを見たあと、肩をすくめた。
「検査は済んでる。壊さなきゃ好きにしろ」
アレンは右手の手袋を外した。
カップの持ち手に指を置く。
すぐに熱が返ってきた。
濃い。
一度だけ触れたものではない。
何度も。
繰り返し。
同じ人物が日常的に使っていた物。
誰の魔力かまでは分からない。
だがリディアの証言が正しければ、おそらくエルドだ。
「どう?」
セラが聞く。
「かなり濃いです」
「つまり?」
「少なくとも、このカップは長く使われていた」
「エルド本人が?」
「そこまでは言えません」
セラは少し呆れた顔をした。
「毎回そこだけ慎重ね」
「分からないので」
「悪いとは言ってない」
アレンはカップから指を離した。
「でも、誰かに無理やり飲まされた感じではないと思います」
検査官が眉を上げる。
「どうして」
「カップ自体が普段使っているものなら、普通に自分で飲んだ可能性が高い」
「可能性、ね」
セラが言う。
「ええ」
アレンは机の上の検査結果を見る。
「問題は、そのあとです」
「魔法を使った」
アレンは頷いた。
リディアの声を思い出す。
少し冷めると、すぐ魔法で温め直して。
何度注意しても、やめなかった。
「エルドさんは、冷めたお茶を魔法で温める癖があった」
検査官が顔を上げる。
「それで暴走したって?」
「まだ分かりません」
セラが先に答える。
「でも筋は通る」
魔脈触媒を飲む。
その時点では死なない。
茶が冷める。
いつもの癖で魔法を使う。
触媒が体内の魔力を増幅させる。
暴走。
死亡。
セラが腕を組む。
「もしこれが殺人なら」
アレンが続ける。
「犯人はエルドさんの習慣を知っていた」
「それもかなり細かい習慣をね」
ただ毒を入れればいいわけではない。
エルドが魔法を使わなければ、計画は成立しない。
つまり犯人は知っていた。
エルドが茶を飲むこと。
冷めた茶を嫌うこと。
そして。
魔法で温め直すこと。
「近しい人間」
セラが呟く。
「可能性は上がりますね」
その日の午後、二人は再び王都魔法研究院へ向かった。
今度は会議室ではなく、小さな資料室だった。
イリスが一人で待っている。
前日より顔色が悪い。
机の上には、魔脈触媒の管理台帳。
「私を疑ってるんでしょう」
座るなり言った。
セラも向かいへ座る。
「質問するだけ」
「警備隊って、みんなそう言いますよね」
「便利だから」
アレンはセラの隣に座った。
イリスが彼を見る。
「遺品整理官までいるし」
「僕は質問しません」
「じゃあ何しに来たの」
「聞きに」
「同じじゃない」
確かにそうだった。
セラが台帳を開く。
「魔脈触媒の管理担当はあなたで間違いない?」
「はい」
「最後に在庫確認をしたのは?」
「一昨日の夕方」
「エルド氏が亡くなる前日ね」
「そうです」
「その時点では十二本」
「ありました」
「間違いなく?」
イリスが一瞬黙る。
「……はい」
セラはその間を見逃さなかった。
「今、迷った」
「数えたのは私です」
「それだけ?」
「それだけです」
「記録への記入も?」
「私です」
セラはページを指で叩く。
「あなた以外に保管庫へ入れる人間は?」
「研究員なら申請すれば」
「申請なしでは?」
「主任以上」
アレンが顔を上げる。
「ヴィクターさんも?」
イリスの視線が動く。
「主任研究官だから」
「エルドさんは?」
「同じです」
つまり。
イリスだけが薬品に触れられたわけではない。
だが管理責任者ではある。
セラが続ける。
「事件当日の夜、あなたは研究院にいた」
「いました」
「何時まで?」
「十時過ぎ」
「理由は?」
「仕事」
「エルド氏と揉めていた研究?」
イリスの顔が険しくなる。
「それ、関係あります?」
「あなたが決めることじゃない」
しばらく睨み合う。
先に目を逸らしたのはイリスだった。
「そうです。あの術式の資料を整理してました」
「エルド氏があなたから取り上げたという?」
「そう」
「殺したいと思った?」
部屋が静かになった。
アレンはセラを見る。
随分直接聞く。
イリスは笑わなかった。
「思いましたよ」
セラの目が細くなる。
「いつ?」
「何回も」
「本人にも?」
「言いました」
「何て?」
イリスは椅子の背にもたれた。
「そのうち研究室ごと燃やしてやるって」
アレンは瞬きをした。
セラは無表情。
「それはまた」
「分かってます。今すごく後悔してます」
「でしょうね」
「でも殺してません」
「証明できる?」
「できません」
「事件当夜十時まで研究院にいた。それ以降は?」
「家に帰りました」
「一人で?」
「一人です」
アリバイはない。
魔脈触媒を管理している。
エルドを恨んでいた。
殺すとまで言った。
事件当夜、研究院にいた。
十分すぎるほど怪しい。
セラが資料を閉じようとした。
そのとき。
「でも」
イリスが言った。
「先生、自殺じゃないですよ」
セラの手が止まる。
アレンも彼女を見る。
「なぜ?」
イリスは少し迷った。
さっきまでとは違う迷い方だった。
怒りではなく。
何かを言うべきか考えている。
「翌朝、予定があったから」
「何の予定?」
「監査局」
セラが姿勢を正した。
「研究院の?」
「違います。王立魔法監査局」
今度はアレンにも名前が分かった。
王国内の魔法研究、魔導具製造、危険薬品の運用を監督する機関。
研究者が好んで会う相手ではない。
「何のために?」
セラが聞く。
「知りません」
「本当に?」
「先生は教えてくれなかった」
「どうして予定を知ってるの」
「私が予約票を見たから」
イリスは机の端を見る。
「先生の机に置いてありました。翌朝九時。監査官二名と面会」
アレンは考える。
自分の命を絶つつもりだった人間が。
翌朝。
王立監査局との面会を予約している。
絶対にあり得ないとは言えない。
人は矛盾した行動をする。
けれど。
「それだけじゃない」
イリスが続けた。
「先生、前の日に私へ言ったんです」
「何て?」
「明日には全部はっきりする、って」
アレンとセラが目を合わせた。
「何が?」
「だから分かりません」
イリスが唇を噛む。
「私は自分の研究のことだと思いました」
彼女は両手を握った。
「あの人、何も説明しなかったから」
エルドなら最後まで諦めなかったでしょう。
ヴィクターの言葉が浮かぶ。
そして遺書。
研究に疲れた。
自分で魔力を暴走させた。
二つの人物像が噛み合わない。
「予約記録を確認する」
セラが立ち上がる。
「それから昨日の監査局側の予定も」
イリスも立つ。
「私じゃない」
「まだ何も決めてない」
「じゃあ、何でそんな顔するんですか」
「どんな顔?」
「犯人を見る顔」
セラは少し考えた。
「生まれつき」
アレンは思わず横を向いた。
笑うところではない。
たぶん。
研究院を出る頃には、雨は上がっていた。
濡れた石畳に夕方の光が反射している。
アレンとセラは正門前で立ち止まった。
「どう思う?」
セラが聞く。
「何についてですか」
「イリス・フェーン」
アレンは少し考える。
「怪しいですね」
「普通の答えもできるのね」
「できます」
「でも?」
「でも、怪しすぎる気もします」
セラが鼻で息を吐いた。
「推理小説じゃないんだから」
「推理小説?」
「昔読んだことあるの。最初に一番怪しい人はだいたい犯人じゃない」
「警備隊がそれを基準にしていいんですか」
「してない」
セラは歩き出した。
アレンも並ぶ。
「ヴィクター・ローヴェルの昨日の動きも確認した」
「どうでした?」
「あなたが喜びそうな結果」
「嫌な予感がします」
「死亡推定時刻は、夜九時半から十時半」
「はい」
「その時間、ヴィクターは王宮にいた」
アレンが足を止める。
セラも数歩先で振り返った。
「王宮?」
「王立魔法研究院の研究成果報告を兼ねた晩餐会。七時半に入場。十一時過ぎまで退出記録なし」
「証人は?」
「研究者、官僚、貴族、給仕。少なく見積もっても数十人」
「抜け出した可能性は?」
「王宮の門を魔法で越えたなら別だけど」
「できるんですか」
「やった瞬間に別件で捕まる」
アレンは黙った。
ヴィクターはエルドの身近な人間。
茶の習慣を知っていてもおかしくない。
保管庫にも入れる。
だが。
エルドが死んだ瞬間、ヴィクターは王宮にいた。
鉄壁と言っていい。
「イリスは?」
「十時十二分まで研究院の入退室記録がある」
「死亡推定時刻と重なる」
「そう」
「その後は一人」
「そう」
魔脈触媒を管理する人物。
被害者を憎んでいた。
殺害を口にしたことがある。
アリバイもない。
事件は、イリスへ向かっているように見える。
それでも。
アレンには、一つ引っかかっていた。
「セラさん」
「何」
「魔脈触媒って、飲んだ瞬間に死ぬものじゃないんですよね」
「そう聞いた」
「魔法を使ったときに暴走する」
「ええ」
「なら」
アレンは歩きながら言った。
「犯人は、エルドさんが死んだ瞬間を決める必要がない」
セラの足が止まった。
「……続けて」
「触媒を飲ませるところまで準備しておけばいい」
茶を飲む。
犯人はいなくなる。
しばらくして茶が冷める。
エルドは、いつものように手をかざす。
魔法を使う。
その瞬間。
死ぬ。
アレンは王都の夕暮れを見た。
「だから」
ヴィクターの完璧なアリバイ。
それは。
事件そのものを不可能にするものではない。
「犯人は、エルドさんが死んだとき、この家にいる必要がなかったんです」
お読みいただきありがとうございます。
魔脈触媒、エルドの習慣、そして事件当夜のアリバイ。
犯人は、エルドが死んだ瞬間にその場にいる必要がなかった――。
次話では、遺書と消えた研究帳から、事件の中心にいる人物へさらに近づいていきます。




