死者の部屋に戻る人
第一話から続く、宮廷魔導師エルド・バーレンの死。
遺書と「消えた何か」をきっかけに、事故として終わるはずだった事件が動き始めます。
王都警備隊が戻ってきたのは、それから四十分ほど後だった。
雨はまだ止んでいない。
書斎の窓を細い水筋が何本も流れ、その向こうで灰色の屋根がぼやけている。
アレンは部屋の隅に立ち、誰にも触れられていない机を見ていた。
遺書。
そして、机に残った四角い跡。
どちらも、まだ何も答えてはいない。
ただ、最初に聞いていた話とは合わなかった。
階下で扉の開く音がした。
続いて、短いやり取り。
足音が階段を上がってくる。
現れたのは、濃紺の制服を着た女性だった。
歳は三十前後。
赤みのある茶髪を後ろで束ねている。
腰には短剣。
胸元には、王都警備隊の銀章。
女性は書斎へ入るなり、アレンではなく机を見た。
次に床の焦げ跡。
最後にアレン。
「遺品整理局?」
「はい」
「あなたが再確認を頼んだ人?」
「そうです」
「名前」
「アレン・クロウ」
女性は小さな帳面を開いた。
「セラ・ヴァイス。王都警備隊捜査部」
必要なことだけ言って、すぐにリディアへ顔を向ける。
「バーレンさん。もう一度お話を伺います」
「はい」
「その前に」
セラはアレンを見た。
「何を見つけたの?」
アレンは机の遺書を指す。
「これです」
「遺書?」
「本人が書いたものとしては、残留魔力が薄すぎます」
セラの眉がわずかに上がった。
「あなた、鑑定官?」
「違います」
「魔導具技師?」
「それも違います」
「じゃあ何で分かるの」
「僕には魔力がないので」
セラが黙った。
リディアが二人を見比べる。
「魔力が……ない?」
アレンは頷いた。
「だから、物に残っている魔力が自分のものと混ざらないんです」
セラは遺書へ近づいた。
「誰が触ったかは?」
「分かりません」
「いつ触ったか」
「分かりません」
「なら、証拠にはならないわね」
言い方は冷たくなかった。
ただ事実を確認しているだけだった。
「はい」
アレンも素直に答える。
「僕の感覚だけなら」
セラは少しだけ目を細めた。
「でも、調べ直す理由にはなる」
アレンは彼女を見る。
セラはすでに机の四角い跡へ視線を移していた。
「これは?」
「何かが置かれていた跡です」
「警備隊が持ち出した可能性は?」
「妹さんは分からないと」
セラは階下へ向かって声を上げた。
「記録係。昨日の押収品一覧を持ってきて」
すぐに返事があった。
セラは手袋をつけ、机を調べ始める。
アレンはその横顔を見ていた。
自分の話を信じたわけではない。
でも、無視もしない。
それだけで十分だった。
数分後。
若い隊員が書類を持って上がってきた。
セラが目を通す。
「封書一通。割れた魔石三点。魔導具の破片。研究院所有の書類十二枚……」
紙をめくる。
「手帳や本はない」
「やっぱり」
アレンが言う。
セラはリディアへ向き直った。
「ここに何が置かれていたか、本当に心当たりはありませんか?」
リディアは机の跡を見る。
しばらく黙っていたが、やがて眉を寄せた。
「……黒いもの」
「黒いもの?」
「兄がよく持っていた気がします。革の表紙で」
アレンとセラが同時に彼女を見る。
「手帳ですか?」
「たぶん……でも普通の手帳より少し大きかったと思います」
「研究用?」
「そうだと思います。兄は仕事の話を家ではほとんどしなかったので」
セラが帳面へ記す。
「いつ最後に見ました?」
「三日前……いえ、四日前かもしれません」
「机のこの場所に?」
「はい。たぶん」
セラは四角い跡へ指を近づける。
触れない。
「警備隊は持ち出していない」
アレンが言った。
「遺族も持ち出していない」
「なら」
セラが続ける。
「エルド・バーレンが死ぬ前に自分で動かしたか、死後に誰かが持っていったか」
部屋の空気が少し変わった。
リディアが腕を抱く。
「誰かって……」
セラはすぐに答えなかった。
代わりに尋ねる。
「昨日、最初にお兄さんを見つけたのは誰ですか?」
「兄の同僚です」
「名前は?」
「ヴィクター・ローヴェルさん」
アレンはその名前を覚えた。
セラは知っていたらしい。
「宮廷魔法研究院の主任研究官ね」
「はい。兄と長く一緒に研究していた方です」
「どうして家に?」
「兄が研究院に来なかったので、様子を見に来てくれたと」
「鍵は?」
「兄が以前、緊急用に預けていたそうです」
セラのペンが止まる。
「つまり、遺体を見つけた時点でローヴェル氏は一人でこの家に入っていた」
「……そうなります」
アレンは机を見る。
遺書。
消えた研究帳。
第一発見者。
まだ何もつながらない。
ただ、情報が一つ増えた。
「ヴィクターさんは、警備隊をすぐ呼んだんですか」
アレンが聞く。
リディアは頷いた。
「そう聞いています」
セラが横目でアレンを見る。
「そこは昨日の記録にもある。入室後、十分以内に近隣の詰所へ連絡」
十分。
長いとも短いとも言えない。
人が死んでいると気づけば、立ち尽くすこともある。
脈を確認することもある。
助けようとすることもある。
その十分だけで疑う理由にはならない。
「他に気になることは?」
セラがリディアへ聞く。
リディアは少し考える。
「兄の机ですか?」
「部屋でも、昨日のことでも」
「……お茶」
「お茶?」
「すみません。関係ないと思います」
「関係あるかどうかは、こっちで決めます」
セラの言い方は素っ気ない。
だがリディアを責めてはいなかった。
「何のお茶ですか?」
「兄は、仕事中いつも薬草茶を飲んでいました」
「昨日も?」
「カップがあったと思います」
アレンは書斎を見回した。
作業台の端。
白い陶器のカップ。
最初に見たものだ。
セラも気づいた。
「まだ調べてない」
「警備隊は?」
「事故死として処理する前提だったから、飲み物までは詳しく検査していない」
セラは隊員を呼び、カップを保全させる。
リディアが続けた。
「兄、冷たいものが嫌いだったんです」
「冷たいもの?」
「お茶もそうです。少し冷めると、すぐ魔法で温め直して」
アレンの視線がカップへ向く。
「魔法で?」
「はい。手をかざして」
リディアが苦笑する。
ほんの一瞬だけ、亡くなった兄を思い出す妹の顔になった。
「何度もやると味が変わるからやめたほうがいいって言っても、全然聞かなくて」
セラはそれも記録した。
アレンは何も言わなかった。
ただ、その言葉だけを覚えておく。
死者の癖は、ときどき本人より長く部屋に残る。
王都魔法研究院は、白銀通りから馬車で二十分ほどの場所にあった。
昼を過ぎても、雨は弱く降り続いている。
灰色の巨大な建物。
高い塔。
外壁にはいくつもの魔法陣が刻まれていた。
アレンは正門の前で立ち止まる。
「僕も入っていいんですか」
隣を歩いていたセラが振り返る。
「駄目と言ったら帰る?」
「帰ります」
「そういうところ、面倒ね」
「よく言われます」
「じゃあ来て」
セラは歩き出した。
「あなたが見つけた違和感だから、説明が必要になるかもしれない」
「協力者扱いですか」
「今のところ、遺品整理官」
「変わってませんね」
「勝手に昇格しないで」
アレンは少しだけ笑った。
研究院の内部は、外から見るより明るかった。
白い石壁。
高い窓。
廊下を行き交う研究員たち。
ローブの色が部署ごとに違うらしい。
奥の会議室で、三人の人物が待っていた。
最初に立ち上がったのは、銀髪の男だった。
四十代半ば。
長身で、柔らかな表情をしている。
「ヴィクター・ローヴェルです」
彼はセラに頭を下げる。
「エルドの件ですね」
「ええ」
「何でも聞いてください」
声は落ち着いていた。
疲れてはいる。
しかし取り乱してはいない。
ヴィクターの隣には、若い女性が座っていた。
黒髪。
二十五歳前後。
腕を組み、明らかに機嫌が悪い。
「イリス・フェーン」
名前だけ言う。
さらにその隣。
恰幅のいい中年男。
上等な服。
指には大粒の宝石。
「ガレス・オルデンだ」
いかにも研究員には見えない。
セラが確認する。
「研究院への出資者ですね」
「主要出資者と言ってもらいたい」
「どちらでも構いません」
ガレスの顔がわずかに歪む。
アレンは三人を順に見る。
長年の共同研究者。
若い研究員。
出資者。
エルド・バーレンの周囲にいた人間たち。
「まず、ローヴェルさん」
セラが言う。
「昨日の朝について確認します」
「もちろん」
「エルド氏の自宅へ行った理由は?」
「研究院へ来なかったからです」
「普段から?」
「いいえ」
ヴィクターは首を横に振る。
「エルドは遅刻をする男ではありません」
「連絡は?」
「通信石に反応がありませんでした」
「それで自宅へ」
「はい」
「鍵を持っていた」
「緊急用です。彼も私の家の鍵を持っていました」
長い付き合いなのだろう。
ヴィクターは静かに続ける。
「書斎へ行ったときには、もう倒れていました」
「何か触りましたか?」
「脈を確認しました。それから通信石で連絡を」
「机には?」
「触れていません」
アレンはヴィクターを見る。
その声に迷いはない。
「エルドさんについて、最近変わった様子は?」
アレンが尋ねた。
ヴィクターは初めてアレンを見る。
「あなたは?」
「王都遺品整理局のアレン・クロウです」
「遺品整理官が捜査を?」
「していません。聞いているだけです」
ヴィクターの口元が少し緩んだ。
「変わった様子……そうですね」
視線を落とす。
「疲れてはいました」
「研究に?」
「研究に疲れない研究者はいません」
苦い笑い。
「ですが、エルドなら最後まで諦めなかったでしょう」
アレンは、その言葉を覚えた。
最後まで諦めない。
机に残された遺書には、
研究に疲れた。
そう書いてあった。
「何か?」
ヴィクターが聞く。
「いえ」
アレンは首を横に振った。
まだ、それだけでは何も言えない。
セラは次にイリスを見る。
「フェーンさん」
「はい」
「エルド氏とは最近揉めていたそうですね」
室内が静かになる。
イリスの目つきが変わった。
「誰から聞いたんです?」
「答えてください」
「揉めましたよ」
「理由は?」
「私の研究を盗ったから」
ヴィクターが顔を上げる。
「イリス」
「事実でしょう」
「今はその話を――」
「死んだからって急に立派な人になるんですか?」
イリスは吐き捨てるように言った。
ガレスが鼻を鳴らす。
「若者は感情で物を言う」
「あなたにだけは言われたくありません」
「何だと?」
「やめて」
セラの一言で二人が黙る。
アレンはイリスを見る。
怒っている。
演技には見えない。
少なくとも、エルドを好いていたようには見えなかった。
「研究を盗った、とは?」
アレンが聞く。
イリスは彼を睨んだ。
「私が三年かけて作った術式です。発表の直前になって、先生が責任者名義を変えた」
「エルドさん自身に?」
「そう」
「理由は?」
「知りません」
「本人には?」
「聞きましたよ」
イリスは唇を噛む。
「何も説明しなかった」
十分な恨みではある。
だが、恨みがあることと、人を殺すことは別だ。
セラが質問を続ける間、アレンは会議室を見回した。
壁際の棚。
魔導具。
書類。
薬品管理用の金属箱。
ふと。
セラが席を立った。
「研究材料の保管記録を見せてもらえますか」
ヴィクターが頷く。
「もちろん」
「最近使用した触媒類も」
イリスの表情がわずかに変わった。
アレンは気づいた。
セラも気づいたようだった。
地下の薬品保管庫。
冷たい空気が漂っていた。
棚には細い瓶が整然と並んでいる。
一本一本に番号。
名称。
使用部署。
管理担当者。
イリスが保管台帳を机へ置く。
「私が管理担当です」
セラがページをめくる。
「昨日の使用記録は?」
「第四実験室で三本。第二実験室で一本」
「在庫と照合して」
イリスは棚を見た。
右から順に数えていく。
一度。
止まる。
もう一度数える。
顔から苛立ちが消えた。
「……待って」
セラが台帳から顔を上げる。
「どうしたの」
イリスは棚へ手を伸ばす。
細い透明瓶が並ぶ一角。
ラベルには、
《魔脈触媒》
とある。
イリスは一本ずつ確認した。
「おかしい」
「何が?」
「数が合わない」
セラが近づく。
「台帳では?」
「未使用が十二本」
「実物は?」
イリスは答えなかった。
代わりに、もう一度瓶を数える。
十一。
何度数えても変わらない。
アレンは空いた一本分の場所を見る。
セラが静かに尋ねた。
「一本、なくなってる?」
イリスは青ざめた顔で頷いた。
「……はい」
地下室の奥で、魔導灯が小さく音を立てた。
エルド・バーレンの部屋から消えた研究帳。
本人の痕跡がほとんど残っていない遺書。
そして今度は。
研究院から、一瓶の薬品が消えている。
偶然が三つ。
アレンは棚を見つめた。
さすがにもう。
別々に考える気にはなれなかった。
お読みいただきありがとうございます。
遺書、消えた研究帳、そして研究院からなくなった一瓶の薬品。
次話では、《魔脈触媒》とエルドの死の関係が少しずつ見えてきます。
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