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鏡の向こうで溶ける永遠  作者: 光闇居士


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3/7

〈三〉

雨は、止む気配を見せなかった。


それからさらに二ヶ月が過ぎ、椎名零はもう、自分の名前を口にするだけで違和感を覚えるようになった。


鏡野葵のマンション——いや、もはや「私たちの城」と呼ぶべき部屋——は、壁という壁に鏡が埋め込まれていた。葵が少しずつ、零の許可など得ずに増やしていったものだ。


リビング、寝室、バスルーム、キッチン。どこを向いても、藍色の瞳をした葵と、彼女の影に溶けかけた零が映る。朝、零はベッドから起き上がると、すぐに葵の視線を感じた。彼女はすでに完璧に身支度を整え、零の隣に腰掛けていた。指先が零の頰を撫で、爪が軽く皮膚を刻む。


「おはよう、私の零。今日も綺麗に歪んでるわ」声は甘く、しかし命令だった。


零は反射的に微笑んだ。抵抗の意志は、すでに薄れていた。いや、薄れさせられていた。葵は零のスマートフォンを取り上げ、今日もロックを解除した。零の指紋は、葵が毎晩優しく握りしめながら覚えさせたものだ。通知はすべて葵が管理する。


クライアントからの仕事依頼は、彼女が「これはあなたに合わないわ」と丁寧に断っていた。フリーランスのイラストレーターだった零の収入は、すでに底を突きかけていた。


貯金は葵の口座に移され、「私たちが一緒に使うお金よ」と笑顔で言われた。


「今日は家で、私の絵を描いて。外に出る必要なんてないわ。世界はここにある」


葵は零のスケッチブック——新しく買った、真っ白なページだけのもの——を差し出した。零の昔の作品は、すべて処分されていた。


「あんな不完全な形、あなたを汚すだけ」と、葵は優しく囁きながらシュレッダーにかけていた。


零は頷いた。筆を持つ手が、少し震える。


描くのは、いつも葵の顔。彼女の瞳、唇、首筋。


だが最近、零は自分の顔も混ぜるようになっていた。


葵の指示で。「私とあなたを、一つの形に溶かして」と。


昼過ぎ、零は久しぶりに外の空気を求めてベランダに出た。雨がコンクリートを叩く音が、胸の奥を抉る。スマホを握り、旧友の佐藤にメッセージを送ろうとした。指が止まる。葵の声が脳裏に響く。


【あなたはもう、外の世界に必要とされていないの。私だけがいれば、全部満たされる】


送信ボタンを押す前に、葵が背後から抱きついた。


腕が零の腰を強く締め、爪がシャツ越しに食い込む。


「零、何をしてるの?」


声は優しいのに、底に冷たい刃が潜む。零は慌ててスマホをポケットにしまった。


「何でもない……ただ、雨を見てた」


葵は零の顎を掴み、顔を自分に向けた。


鏡のように近い距離で、藍色の瞳が零を射抜く。


「嘘は嫌いよ。佐藤さんに連絡しようとしたんでしょ? あの人は、あなたを歪めるだけ。私の形を壊すだけ」


零は息を呑んだ。どうして知っている? 部屋中に監視カメラなどないはずだ。だが葵の瞳は、零の全てを見透かしていた。彼女は零の唇に自分の唇を重ね、深く、貪るようにキスをした。舌が零の記憶を掻き回す。


「私を信じて。愛してるわ、零」


その夜、歪みはさらに深く、肉体に刻まれた。葵は零を寝室の中央に立たせ、全身鏡の前に跪かせた。部屋の照明は落とされ、蝋燭の炎だけが揺れる。葵は零の服を一枚ずつ剥ぎ取り、黒いシルクの紐で両手首と足首を縛った。零の体はすでに、葵の爪痕と歯形だらけだった。


新しい傷の上に、古い傷が重なる。痛みは快楽の記憶に変わっていた。


「見て、零。鏡の中のあなた」


葵の指が零の背中を滑る。


ゆっくりと、脊椎をなぞるように。


零は鏡に映る自分を見つめた。瞳の奥に、藍色の影が宿っている。


髪は葵の好みの長さ、肌の色は彼女の化粧品で統一され、表情さえ彼女の微笑みに似てきていた。


「これは……僕?」


零の声が掠れる。


葵は後ろから零を抱き、耳元で囁いた。


「ええ。私の愛の形。あなたはもう、椎名零じゃない。私の零。私の影。私の永遠」


彼女の指が零の最も敏感な部分に沈む。


動きは優雅で、しかし容赦ない。鏡の中で、零の体が震え、喘ぎが漏れる。葵は零の目を逸らさせず、強引に視線を固定した。


「達するまで、見てて。自分が溶けていくのを」


絶頂の瞬間、零の視界が白く染まった。


鏡の中の自分が、葵の輪郭に飲み込まれていく。


影と影が絡まり、ひとつの歪んだシルエットになる。


葵は零の体を床に横たえ、優しく額にキスをした。


「よくできたわ。明日から、もっと深い形にしようね」


翌朝、零は目覚めると、葵が自分のパスポートと免許証を燃やしているのを見た。


リビングの灰皿で、炎が小さく踊る。


「葵……何を?」葵は穏やかに微笑んだ。


「もう必要ないわ。あなたは私の名前で生きていける。鏡野零。美しい響きでしょ?」


零の胸に、初めて明確な恐怖が湧いた。抵抗しようとした。


体を起こし、葵の手から書類を奪おうとした。


だが葵は零の首筋に唇を寄せ、歯を立てた。鋭い痛みが走り、零の膝が崩れる。


「逃げようとするの? 愛してるのに?」


葵の声は悲しげだった。だが瞳は輝いていた。勝利の光。その日から、零の外出は完全に禁じられた。


葵は「病気のふり」をさせて零の知り合いに連絡を入れ、すべてを断ち切った。家族からの電話は、葵が零の声色を完璧に真似て「もう大丈夫」と答える。


零はそれを、ベッドの上で聞いていた。声が出せなかった。葵の指が喉を優しく押さえていたから。歪みは、記憶にまで及んだ。


ある雨の午後、葵は零を抱きながら、古い写真アルバムを見せた。零の幼少期の写真。だが葵はそれを、優しく訂正する。


「この子は、あなたじゃないわ。私の想像よ。あなたは生まれたときから、私の形だったの」


零は抵抗した。初めて、声に出して。


「違う……僕は、椎名零だ。君に出会う前から、僕だった」


葵の瞳が細まる。微笑みが、わずかに歪む。


「そう? じゃあ、思い出して。雨の夜、私があなたを見つけた夜。あなたは空っぽだった。私の愛で、初めて形になったのよ」


彼女は零の目を覆い、耳元で繰り返した。同じ言葉を、何度も。何度も。零の記憶が、ゆっくりと塗り替えられていく。幼い頃の思い出が、葵の藍色の影に染まる。大学時代の友人たちが、葵の幻影に変わる。


一週間後、零は鏡の前で自分の名前を呟いた。


「鏡野……零」


声が、自然に出た。椎名という響きが、遠い夢のように感じる。葵は満足げに零を抱きしめた。


「そうよ。完璧。あなたはもう、私の永遠」


しかし、零の心の奥底で、まだ小さな火が灯っていた。


完全には消えていない。鏡の向こう側で、歪んだ影はさらに深く絡み合いながら、零の残骸を貪っていた。ある夜、葵が寝静まった後、零はベランダに忍び出た。雨が激しく降る。裸足でコンクリートを踏み、冷たい水が足を刺す。スマホはもう、葵の管理下にある。だが零は、隠し持っていた古いプリペイド端末を取り出した。


最後の抵抗。佐藤に、短いメッセージを送った。


【助けて。俺は……消えそうなんだ】送信。


心臓が激しく鳴る。だが、数秒後、部屋のドアが開いた。葵が立っていた。濡れた髪を振り、藍色の瞳で零を見つめる。


「零。外の雨、冷たいでしょ?」


彼女はゆっくり近づき、零の腕を掴んだ。力は優しいのに、逃れられない。


「私に隠し事なんて、無駄よ。あなたは私の形。私の全て」


葵は零を部屋に引き戻し、鏡の前に跪かせた。今度は、紐ではなく、自分の体で零を拘束した。肌と肌が密着し、息が混じる。


「愛してる。永遠に」


その夜の歪みは、これまでで最も深かった。葵の動きは儀式のように荘厳で、零の体を自分の「型」に嵌め込む。


鏡の中で、二つの影が完全に溶け合い、ひとつの怪物になる。零は喘ぎながら、涙を流した。快楽か、絶望か、それとも両方か。翌朝、零のスマホに佐藤からの返信はなかった。葵が、すべてを消去していた。


「心配しないで。私が守ってるわ」


葵は零の唇にキスをし、微笑んだ。雨は、まだ降り続けていた。鏡の向こうで、歪んだ愛の形は、ついに完成に近づいていた。


零の輪郭はほとんど消え、葵の影だけが、静かに、優しく、残酷に、永遠を支配していた。だが、零の瞳の奥底に、ほんのわずかな——まだ、消えていない光が、雨の滴のように揺れていた。

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