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鏡の向こうで溶ける永遠  作者: 光闇居士


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2/7

〈二〉

雨は、まだ降り続けていた。それから一ヶ月が過ぎた。


椎名零は、マンションの窓辺に立って外を眺めていた。


ガラスに映る自分の顔が、少しずつ薄くなっていく気がした。


いや、薄くなっているのは事実だった。鏡野葵が毎日、丁寧に「整えて」くれるから。朝の光が部屋に差し込む頃、葵はすでにキッチンにいた。エプロンの紐を腰で結び、零の好物だったはずのスクランブルエッグを、今日も完璧な形に焼き上げている。だが零は最近、卵の黄身の匂いが少し苦手になっていた。


葵が「これはあなたの本当の味覚よ」と言い聞かせてから、徐々にそう思い込むようになっていた。


「おはよう、零。今日も綺麗に起きてるわね」


葵は振り返り、微笑んだ。その笑顔は一ヶ月前と同じ、完璧な弧を描いていた。


しかし零の胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。気づかないふりをした。気づいてしまったら、この幸せが崩れる気がしたから。


葵は零のネクタイを直し、シャツの襟を指でなぞった。爪の先が皮膚を軽く引っ掻く。痛みはもう、快楽の前奏曲になっていた。


「今日の服装、これでいいわ。黒のシャツは、あなたをより深く見せてくれる。私の影みたい」


零は頷いた。


以前はカジュアルなグレーのパーカーが好きだったのに、今は葵が選ぶ黒と紺ばかりを着ている。クローゼットから零の古着は、気づけば消えていた。


「あんなの、あなたらしくないわ」と、葵は優しく笑って捨てたという。


会社——零はフリーランスのイラストレーターだった——へ向かう前、葵は零のスマートフォンを手に取った。


「連絡は私に全部回してね。仕事の打ち合わせ、友達の誘い、全部。私が整理してあげるから」


零は一瞬、抵抗を覚えた。だが葵の瞳が零の目を捉えると、言葉は溶けた。


「君がいてくれるだけで、僕は……」


「そう。あなたは私の形に、ぴったり収まってる」


キスは深く、舌が零の記憶を塗り替えるように絡まった。


葵の唾液の味が、零の喉の奥に残った。


その日、零はクライアントとのミーティングで、久しぶりに旧友の佐藤と顔を合わせた。大学時代の仲間で、時折飲みに行く間柄だ。佐藤は零の変わりように目を丸くした。


「零、お前……なんか、雰囲気変わったな。彼女できたんだろ? めっちゃ綺麗なんだって?」


零は微笑んだ。葵のことを話すのは、なぜか心地よかった。


だが佐藤が「今度三人で飯でも」と誘った瞬間、零の胸ポケットでスマホが震えた。葵からのメッセージだった。


【今、佐藤さんと話してるの? 帰ったら、ちゃんと報告してね。愛してるわ】


零は慌ててスマホをしまった。佐藤の笑顔が、急に遠く感じた。夜、マンションに戻ると、葵はリビングのソファに座っていた。部屋の照明は落とされ、壁一面に並んだ鏡が、ぼんやりと反射している。葵は鏡を集めるのが趣味だと、最近零に教えてくれた。


「私たちの愛を、永遠に映すためよ」と。


「零、ただいま」


葵の声は甘かった。


しかし目が、笑っていない。


「佐藤さん、誘われたの?」


零は凍りついた。どうして知っている? スマホの位置情報? それとも——。葵は立ち上がり、零のコートを脱がせながら囁いた。


「あなたは私のものよ。外の人間に、触れさせるわけにはいかないわ」


その夜のセックスは、いつもより激しかった。葵は零の両手をシルクのネクタイで後ろ手に縛り、目隠しをした。闇の中で、葵の指が零の体を這う。爪が胸を掻き、唇が喉を食む。


「私の形を、覚えて。あなたはもう、零じゃない。私の零よ」


零は喘ぎながら、快楽の波に飲み込まれた。葵の声が、脳の奥に染み込む。抵抗する意志が、溶けていく。達した瞬間、葵は零の耳元で繰り返した。


「愛してる。永遠に、私の形に」


翌朝、零のスマホには佐藤からの着信が三件残っていた。すべて葵が「既読」にし、返信を消去していた。


「心配しないで。私がちゃんと断っておいたわ。あの人は、あなたを歪めるだけよ」


零は抗議しようとした。だが葵の瞳を見ると、言葉が出ない。彼女の藍色の虹彩に、自分が映っている。そこにいる零は、すでに彼女の色に染まっていた。歪みは、ゆっくりと、しかし確実に深まっていった。二週間後、零の仕事部屋からスケッチブックが消えた。


葵が「こんな古いもの、捨てましょう」と言ったのだ。


零の描くイラストは、以前は自由奔放な抽象画だった。だが今は、葵の顔ばかりを描くようになっていた。


彼女が「これがあなたの本当の才能よ」と囁くたび、筆は自然とその形を追いかける。友達からのLINEは、すべて無視するようになった。


葵が「返事は私が代わりに」と言い、


零のトーンを完璧に真似て返信する。零はそれを知りながら、止められなかった。止めたら、葵の愛が冷める気がした。ある雨の夜——出会った夜と同じような、冷たい雨——零は鏡の前に立っていた。葵が後ろから抱きつき、零の顎を優しく持ち上げる。


「見て。あなた、綺麗に変わったわ」


鏡に映る零は、黒いシャツを着て、髪を葵の好みの長さに伸ばし、瞳の奥に藍色の影を宿していた。以前の零とは、別人だった。


「これが……僕?」


零の声が震えた。葵は微笑み、零の首筋にキスを落とした。


「ええ。私の愛の形。あなたはもう、外の世界なんて必要ないの。私だけがいれば、全部満たされるわ」


その瞬間、零の胸の奥で、初めて明確な「違和感」が爆ぜた。


愛されている。幸せだ。だがこれは、愛か? それとも——。


葵の指が零の背中を滑る。爪痕が、新しいものを刻む。零は鏡の中で、自分の影が葵の影に飲み込まれていくのを見た。二つの影は絡まり、溶け合い、ひとつの歪んだ形になっていく。


「零、愛してる?」


葵の問いかけに、零は頷いた。


頷くしかなかった。頷かなければ、自分が消えてしまう気がした。


しかし、心の奥底で、小さな声が囁いていた。これは、恋か。呪いか。それとも——愛という名の、もっと残酷で美しい怪物か。


雨は、まだ降り続けていた。


鏡の向こう側で、歪んだ二つの影は、さらに深く、静かに、永遠を蝕んでいく。

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